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「分岐点・関ヶ原」〜豊臣政権による世界進出とその結果〜  作者: 扶桑かつみ
●第一部「関ヶ原の合戦」
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フェイズ04「関東征伐」

 9月16日以後、関ヶ原以外の地域では、西軍勝利、徳川家康敗死の報が約二週間かけて日本中を駆けめぐっていた。

 戦闘の翌日遅くには事前に用意されていた早馬で大坂城に「石田治部少輔の御軍勢大勝利」との報告が舞い込み、淀殿を始め大坂城全体が有頂天となった。

 西軍諸将に、豊臣秀頼の存在を前提とした褒美は思いのままで東軍領地は切り取り放題という言葉をすぐに伝えたほどだった。

 

 そして情報が広がると共に、それまで東西双方に分かれていた大名の多くが、一斉に西軍寄りの姿勢を示すようになった。

 また西軍に押されていた各地の東軍の多くも、西軍との和議・和睦を図る動きが加速した。

 徳川家康という巨人が失われた事が、日本中に大きな衝撃をもたらしていた。

 

 しかしそれは、関ヶ原に近い近畿や東海・北陸を中心とした日本の中心部に限った話だった。

 西軍としては、ここで徹底して敵対勢力の排除を行うつもりであり、追撃の手をゆるめる気はなかった。

 

 徳川家康はいなくなったが徳川家自体はまだ健在であり、1日も早い関東征伐を実施して、徳川家とそれに連なる者達を滅ぼさない限り、豊臣と自分たちの安定はあり得ないと考えられたからだ。

 

 加えて遠方である、上杉景勝、伊達政宗を中心とする東北、黒田如水、加藤清正を中心とする九州では、発生した戦闘が簡単には収まる気配はなかった。

 

 上杉、最上、伊達など奥州諸侯が関ヶ原での結果の最初の報告を受けるのは、日本の有力武将の中で最も遅い9月29日の事だった。

 時代は、まだそうした情報伝達速度しかなかったからだ。

 九州南部でも、黒田如水が大坂からの高速連絡船など色々な情報伝達の手段を整えてなお、1週間近いタイムラグがあった。

 

 そうした中で、新たな戦いが始まる。

 

 しかし日本中央での戦いは、その後まともには発生しなかった。

 主将を失って絶望的な抵抗を行った清洲城のような例はあったが、多くの東軍大名が西軍へ進んで降伏していったからだった。

 

 東海道を進む西軍は抵抗をほとんど受けることなく、労せずして地図を塗り替えすぐにも徳川領の国境まで進むことができた。

 

 しかも西軍にとっての朗報が、この頃もたらされていた。

 

 大坂城が、軍資金と兵糧を西軍の前線に供給し始めたのだ。

 加えて、小荷駄(輸送部隊)の護衛という形で5000名程度の豊臣直参部隊の増援を得ることもできた。

 輸送に従事する準兵士の数を加えると、優に1万を超える増援も同様だった。

 それ以前の問題として、既に降ったもと東軍武将を自軍内に取り込んでいる場合があったので、軍勢の数は急速にその数を増していた。

 

 そして西軍は、豊臣秀吉の戦略通りに尾張に大量の物資を運び込んで長期戦の体制を、ようやくと言える言葉と共に整えた。

 

 しかもその頃までには、東山道を引き返した徳川秀忠の軍勢は、西軍が何の手出しもできないまま関東へと落ち延びつつあり、徳川家は依然として無視できない戦力を保持していた。

 

 関ヶ原にいた家康本軍の3万の軍勢は逃げ散ってしまったが、関東を中心にしていまだ5万以上の東軍が存在する計算になる。

 

 そしてこれらの兵力は、今後は主に籠城戦を主体に戦うと見られ、疲労の限界に達した西軍を、関東での決戦で討つという戦略を取ると考えられた。

 

 そもそも関ヶ原の合戦のような大軍同士が雌雄を賭けて正面から激突するという戦闘自体が珍しいのであり、大軍同士の戦闘であるなら、この戦いの方がまだ一般的だった。

 しかも日本中が明確に二つの陣営に分かれるという形で数十万の大軍が動き回っているのだから、簡単に戦闘の決着が付かないのはむしろ道理だった。

 

 しかし日本中で戦いが行われている事で、戦況に動きが出る。

 


 東軍が防戦を、西軍が遠征の準備を整えつつある9月後半、日本中央以外の戦場も大きく動き始めていた。

 

 九州南部では、黒田如水が豊後占領をほぼ完了し、次の作戦に向けての準備に動いていた。

 黒田如水はいち早く関ヶ原の戦況を知っていたが、彼は日本中央がある程度固まるまで、自らの動きを止めるつもりは無かった。

 彼の構想としては、九州全てを自らの手に握り、がら空きの毛利をうち破って、一気に日本中央での雌雄を決する腹づもりだった。

 何しろ黒田如水は、西軍は所詮は寄せ集めと考えていた。

 

 黒田如水の動きは、10月初旬に濃尾平野の西軍にもたらされた。

 それより先に西軍から大坂城の使いという形で、黒田如水には関ヶ原での西軍の勝利と、西軍への荷担による息子黒田長政の助命が伝えられたが、戻ってきた使者は黒田如水が言を左右にして、さらなる戦線の拡大を行いつつあるというものだった。

 これを西軍は、息子の命ばかりか所領安堵までを求めての無茶であると解釈し、次なる書状では所領安堵と戦闘停止を受け入れない場合、次は黒田を滅ぼすと脅しをかけた。

 

 一方東北地方では、120万石の太守である上杉景勝が活発に活動していた。

 上杉勢は、9月30日に関ヶ原での石田三成の勝利を知ると一気に最上攻めを強め、10月初旬までに最上義光の居城山形城を一気に攻略して最上氏を滅ぼしてしまう。

 そして同じ頃に西軍の勝利を知った伊達政宗は、事実上の西軍への荷担の証という名目で南部方面(東北北部)への勢力拡大を図りつつあった。

 また越後の堀秀治は、越後土豪による一揆に怯え、これに西軍勝利の報告が加わったことで、西軍及びに上杉との関係修復に動いていた。

 さらには、常陸の国に拠点を置く佐竹も、西軍勝利の報告と共に西軍への明確な傾倒が見られた。

 

 こうした報告を東西両軍が知るのはほぼ10月初旬の事であり、東軍というより徳川家は四面楚歌に陥りつつあった。

 

 西軍では黒田如水の動きに九州の諸大名が大きく動揺するという動きはあったが、それも西軍の中ではそれぞれ本領では籠城さえ続けさせておけば、後で奪い返せるという読みがあった。

 

 そして黒田如水の動きが、いっそう西軍の動きを加速させることにもなる。

 一日も早く東西から関東の徳川滅ぼして、事を決してしまおうというのである。

 

 そこで西軍では徳川殲滅の一手として、大坂城に掛け合って豊臣秀頼に朱印状を出してもらうことになった。

 内容は、「当主自らが大坂城に登城して、改めて豊臣秀頼に忠誠を誓えば所領を安堵する」というものだ。

 

 そして大坂城に赴くと言うことは、西軍の人質になるに等しい行為であり、同時に西軍につくことを意味していた。

 

 関ヶ原方面での鎮定を確定した9月末頃に出された石田三成らの申し出に対して、大坂城は好意的だった。

 秀頼出陣も戦闘することもなく安定がもたらされるばかりでなく、自分たちの権勢を今一度確認しておくことは「覇者」もしくは「勝者」として当然の権利と考えたからだ。

 

 そして、名目とはいえ日本の覇者からの書状は、劇的な効果を発揮した。

 関ヶ原から命からがら逃れた武将などは、領国での臨戦態勢を固める事を止めて、いち早く大坂城へ臣従を誓いに行くなど、もはや徳川家の事など関係なく動いていた。

 西軍から東軍に内応していた武将達も、そのほとんど全てが西軍として動いていた。

 一族を東西に分けていた大名の中にも、西軍側についた者が東軍側についた一族の許しを請う行動が各所で見られた。

 

 日本中の誰もが、既に勝負あったと考えていたのだ。

 

 時の勢いといえば良いのだろうが、一度天秤が傾くと日本という閉じられた社会の中での動きは急速だった。

 特に一度まとまっていたものが短期間で分裂して雌雄を決した後とあっては、その動きは当事者達の予想を上回るものがあった。

 

 東軍というより徳川にとって、関東付近以外の全てが西軍に傾いたも同じ状況だった。

 

 これに対して西軍では、朱印状が出ると共に今こそ東軍殲滅の時とばかりに主戦論が台頭した。

 西軍の裏には、九州諸大名や毛利一族が一刻も早く領国に帰りたいという思惑があった。

 もしくはここで完全に東軍を殲滅すれば、いかに黒田如水といえども動くことができなくなるだろうという希望的観測があった。

 

 かくして関東征伐が開始される。

 


 既に西軍先鋒は伊豆と信濃、甲斐に前進しており、その数は13万人にも達していた。

 大坂城が軍資金を出さなければ、到底支えることの出来ない大軍勢だった。

 

 また東北地方と北関東からは、最上を滅ぼした上杉景勝の軍勢5万と、佐竹の軍勢1万が徳川領との国境に進みつつあり、北関東の小大名や豪族の中には戦う前に西軍に降伏するものもあった。

 

 そして関東への侵攻の前に、小者、土豪などについては降れば処罰せずというお触れが出され、これが既に四面楚歌状態だった徳川領内を大きく揺さぶった。

 

 徳川家及びその家臣達は10年前に関東に入ってきたばかりで、元から現地に住む人々からすればよそ者に近い存在だった。

 徳川家の努力により忠誠心は相応にあったが、沈む船に共に乗り込むほどの義理を感じている者は少数派だった。

 しかも関ヶ原で敗北して既に多くの犠牲を出しているため、関東在郷武士の戦意は低かった。

 

 このため、小規模な城では徳川側が籠城しても、裏切りによって簡単に降伏する例が後を絶たず、強力な筈の徳川武士団は簡単に瓦解していった。

 既に外様大名のほぼ全てが西軍に降っており、西軍に加わっている者も少なくなかった。

 

 状況は十年前の北条氏よりも悪く、関東平野には西軍20万人以上があふれることになった。

 

 10月半ばには、建設途上だった江戸城が呆気なく包囲された。

 江戸城には約4万の兵が籠城するも、まだまだ未完成というより安土桃山的城郭としてはほとんど手が付けられていなかった城での籠城戦は、非常に分の悪いものだった。

 徳川家康が近畿で作った、大阪西の丸や伏見城のような立派さはまるでなかった。

 天守閣など影も形もない。

 このため関ヶ原で敗北してから籠城が決まると、突貫工事で城の強化が実施されたが、主に深く広い堀と分厚い土盛り、木材による構造物や阻止材などで構成されているため、規模の大きな戦国時代中頃の城のような有様だった。

 このため、江戸城近在にあった浅草の浅草寺の方が、建造物だけなら立派に見えたと言われている。

 

 しかしそれでも、徳川秀忠の回りには重臣が揃っていた事、嫡男に当たる徳川秀忠がいることで徳川一門の戦意は非常に高かった。

 このため、籠城での一戦により勝利を掴み、それを和睦への足がかりにしようと軍議(作戦会議)が定まっていた。

 

 しかし徳川家康の深謀遠慮だった筈の建設が遅らされていた江戸城は、大軍で囲むのは向いていなかった。

 当時の江戸城は、本丸のあるちょっとした高台以外、海側の半分が湿地に等しく、内陸側の方は自然が多く大軍の布陣には不向きだった。

 

 このため西軍は、まずは先に到着した部隊から大軍布陣のための準備に一週間近くかける事になる。

 しかしその過程で大筒(大砲)の砲台を設置してもいるし、九鬼水軍などを呼び寄せて海上からも封鎖してしまう。

 しかも大型の安宅船には大砲も搭載し、散発的ながらも艦砲射撃が実施された。

 

 そして西軍の大軍がほぼ揃った籠城10日目、西軍からの最初の降伏勧告が行われる。

 条件は、主立った者の切腹もしくは遠流という条件で、徳川家及び主立った譜代の命脈を完全に絶つものだった。

 女子供でも、ほぼ全員が出家せねばならなかった。

 

 当然ながら強い反発があったが、小田原城の二の舞と言える状況のため、既に戦意が落ちている者も多かった。

 

 しかし最初の降伏勧告は蹴られ、江戸城攻防戦が始まる。

 

 そして包囲した西軍だが、鉄砲、大鉄砲、大筒、火矢による射撃戦をまず開始した。

 建設途上とはいえ、突貫の強化工事のおかげで非常に堅牢な城となっており、しかも数万の大軍が籠もっているとあっては力攻めは敵わなかったからだった。

 

 しかしここで、西軍首脳部が石田三成以下文治派だった事が大きな効果を発揮した。

 文治派武将にとっては、大規模な兵站戦はお手の物だったからだ。

 大坂城がいくらでも金と物資を出すようになったので、彼らはそれを使いどんどん火薬と弾薬を準備し、それを円滑に前線に投入していったのだ。

 他の地域からも大筒や鉄砲が集められ、日を増すごとに江戸城に向けられる火力は増えていった。

 

 そしてさらに一週間経った日に、最初の総攻撃が実施される。

 これにより半ば孤立していた西の丸が陥落。

 ほかの外郭陣地と呼べる城郭部分もほとんどが西軍の手に帰した。

 

 この段階でも受け入れられないとして反発もあったが、結局多くの命を救うという名目により、さらに数日間の籠城戦を行った後に開城降伏するに至る。

 

 一戦の上での勝利といっても、20万の大軍に囲まれた上に大砲まで打ちかけられては、どうにもならなかった。

 


 かくして1600年11月初頭、徳川家の滅亡という形で関ヶ原の合戦と呼ばれる戦いは幕を閉じることになる。

 

 しかしそれは、日本の安定を意味するものではなかった。

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