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「分岐点・関ヶ原」〜豊臣政権による世界進出とその結果〜  作者: 扶桑かつみ
●第三部「新時代到来」

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フェイズ20「帝国主義に進む世界」

 1869年、スエズ運河が開通し、地球の距離が大きく短縮された。

 ヨーロッパを中心にした帝国主義時代の幕開けと言える象徴的な事件であり、アジア世界、そして日本にとって試練の時代の始まりだった。

 

 それまで東アジアは、ヨーロッパから例えようもないほど遠い場所であり続けた。

 日本人が頻繁に往来している北太平洋地域などは、世界の果てのオケアノスがあると言われても信じてしまいそうになるほどの場所だった。

 風を海流だけで海を渡らねばならない時代だと、アジア、太平洋に行くには現代では比較にならないほどの困難があった。

 

 しかしスエズ運河の誕生により、海の難所でもある喜望峰を通らずにインド洋に行けるようになった。

 また、新たな移動手段である蒸気船の普及が、いっそう距離の壁を低くしていた。

 インドの命運は、スエズ運河の開通によって決定したと言われる。

 

 そして、この時点で最も世界の富を収奪することに成功していた西ヨーロッパの国々が、世界中の土地を自分たちの市場や資本投下先にするべく活発な活動を行っていた。

 

 そうした時代にあって、既に日本は西ヨーロッパに匹敵するほど世界の富を集めることに成功し、さらに広大な領域を有していた。

 つまり、攻める側ではなく守る側であった。

 しかもヨーロッパ諸国は、科学的裏付けのない白人優越主義によって自らの膨張を勝手に正当化しており、有色人種の立場は暴力的な文明の力の差によって非常に脆弱だった。

 18世紀頃まで強大な力を有していた筈のインド地域が、手もなくブリテンに屈していったのは、産業革命によって大きすぎる力の差が発生したからだった。

 

 その中で日本と日本人が作り上げた領域だけが、唯一西ヨーロッパ世界と対向出来る力を有していた。

 日本人勢力で中核となるのは、日本列島にある大日本国と、北アメリカ大陸の半分近くを覆っている大和共和国だった。

 だが大和共和国はいまだ国土開発の最中であり、まずは自らの国土開発に力を入れなければいけない段階だった。

 その上、東側にアメリカ合衆国、アメリカ連合国という厄介な隣国を抱えているため、努力を海外に向けることが難しかった。

 

 つまり、白人達の前に立ちふさがるのは日本帝国という事になる。

 


 この頃日本の君主は、第121代天皇の孝明天皇に移っていた。

 元号も天皇の名と同じく「孝明」であり、日本自体も世界中から皇帝を権威君主とする立憲君主国と見られていた。

 また、孝明天皇の在位に、対外向けに分かりやすくするため「天皇」の対外公称を「皇帝」に変えていた。

 

 そして、帝国という名を国号と皇帝という国家元首を有するだけに日本は強大だった。

 

 19世紀初頭に北アメリカ大陸の広大な土地(植民地)を失ったとはいえ、その領域はロシアに次ぐ広さだった(※まだアフリカ分割が行われていない)。

 ブリテンに次ぐ早さで始まった産業革命も既に熟成期に入り、発展度合いもブリテン以外の西ヨーロッパ諸国に先んじるほどだった。

 工業生産高も、ブリテンを例外とすればドイツ、大和に並んでいた。

 地下資源も、各領域からもたらされており、特に不足するものはなかった。

 それどころか、東南アジアで生産されるようになった生ゴムは、日本の独占資源に近かった。

 スンダ諸島で取れる錫に付いても、量の面ではほとんど独占状態だった。

 濠州大陸各所では、鉄鉱石、石炭など非常に有望な資源の開発が始まっていた。

 

 そして当然と言うべきか、グレートパワーと呼ばれるヨーロッパの強力な国々は、日本の持つ土地、資源を虎視眈々と狙っていた。

 とはいえ、国力、工業力に裏打ちされた軍事力を整備した相手に迂闊に手を出すこともなく、日本を半ば無視して、まずはアジアに転がる他の獲物に食らいつき始めた。

 その代表が広大な領土を人口を有する近世的国家の清朝であり、清朝は二度の戦争の敗北もあって領土や影響国を次々に手放していた。

 そして清朝に対しては、国民国家となった日本もどん欲な帝国主義的行動を取っていた。

 東アジアの連携、有色人種と白色人種の対立構造の構築を図ろうとする一部の人々が反発していたが、近隣諸国から侵略していくのは帝国主義国家としては当たり前の行動すぎた。

 そして日本は、ブリテンに次いで産業革命を果たしたように、十分以上に帝国主義国家だった。

 

 しかし、日本にとって状況が激変する事件が続く。

 


 まずは、本節の最初に挙げた1869年のスエズ運河開通だった。

 だがすぐに、白人達が東アジアに押し寄せることはなかった。

 列強が犇めくヨーロッパは、色々と大変だったからだ。

 

 当時ヨーロッパでは、ドイツ、イタリアが国民国家としての統一戦争をそれぞれが戦っており、オーストリア、フランスとの間に戦争が起きていた。

 ブリテン、フランス、オーストリアなどが統一を邪魔しようとしたが、オーストリアはドイツ、イタリア双方に破れたように、既に帝国主義国、近代国家として二流の存在に落ちていた。

 

 そして統一の熱意を燃やすドイツの勢いに、他の列強も押されっぱなしだった。

 

 かくして、1870年の「普仏戦争」に大敗したフランスは、膨張政策を行っていたナポレオン三世が失脚して、敗北とそれに伴う莫大な戦費のため以後しばらく大人しくなった。

 

 そして強大な国家としてスタートしたドイツだが、ドイツの中心となったプロイセンの時代からの宰相オットー・フォン・ビスマルクが、ヨーロッパ的均衡外交、フランス封じ込め政策、国内開発に重点を置いたため、膨張に転じる事はなかった。

 同時期、民族統一を達成したイタリアは、他の列強に比べると様々な面での国力が低いため、アジアに影響を及ぼす事はついに出来なかった。

 

 つまりは、ブリテン連合王国とロシア帝国だけが、スエズ開通からしばらくは膨張政策を続けていたことになる。

 しかし両国共に、なかなか東アジアにまで手を広げる事は出来なかった。

 

 ロシアは中央アジアを強引に飲み込んだばかりで、その上バルカン半島でいざこざを繰り返していた。

 ブリテンは、1877年にブリテンのヴィクトリア女王がインド皇帝兼任したが、こちらはヨーロッパ世界のトップランナーであるため、他国との競争のため世界中にうって出る事が難しかった。

 

 そしてブリテンにとって、日本人が多数の領域を有していることが一つのネックとして浮上する。

 北アメリカ大陸、大濠州大陸など、広大な食料供給地となりうる温帯地帯は、多くが日本人のものだったからだ。

 このためブリテンは、比較的近い大和から足りない分の穀物を買うことになる。

 無論ブリテンは大和への影響力拡大や侵略を考えたが、実行できるほど相手が弱くないため、実行に移すことは難しかった。

 また北アメリカ大陸では、大和、武領カナダ、アメリカ合衆国、アメリカ連合国が複雑な外交関係と対立構造を作り出しているため、容易に軍を用いることの出来る場所でなくなっていた。

 

 このためブリテンの興味は、日本へと注がれていく事になる。

 

 このブリテンの最初の行動は、1840年代頃に起きる。

 


 ちょうどこの頃、西ヨーロッパ諸国では食用油の不足が深刻な問題と言われ、次なる食用油(油脂の代用)として南洋で採れるヤシの木のパーム油が注目された。

 しかし主要なヤシの木の産地となる太平洋の島嶼のほとんどには、既に日本人が自分たちの旗を立てていた。

 しかし足跡のない島、旗の立っていない島はまだ沢山あるため、南太平洋を中心にして俄に旗立て競争は始まる。

 

 ここで日本は、自分たちの手にあまる場所、ハワイとサモアを結ぶ地域より東の海、南太平洋西部について、自分たちは領有権も主張しないと宣言を出した。

 このため、ブリテンとフランスが、南太平洋南西部をそれぞれ分け合った。

 

 その後ブリテンとフランスは弱体な事が判明した清朝に狙いを定め、「阿片戦争」、「アロー戦争」、「清仏戦争」と次々に戦争を起こした。

 この間フランスは、日本とも交渉を持ってフランスのインドシナ利権を認める代わりに、日本の東南アジア各領を承認した。

 ブリテンとの間にも、同様の領土確認が行われ、お互いの棲み分けが明確なものとなっていった。

 

 そして英仏がアジアで次の行動を起こす前に、アフリカで大きな動きが出た。

 1884年の「ベルリン会議」によるアフリカの分割である。

 当時アフリカ大陸は、暗黒大陸と呼ばれ北アフリカや沿岸の一部を除いて、まともな進出や植民地化は行われていなかったが、半ば先物買いのようにアフリカの分割が西ヨーロッパの国々によって一気に進められる。

 この前後に滅ぼされた現地アフリカ国家や部族集団も多かった。

 それぞれの国が雇い入れた探検隊が一番乗りで通り過ぎて旗を立てただけで、次々に領有宣言が出されていった。

 

 また、この時南アフリカ奥地で空前の規模の金鉱が見つかったことは、ブリテンが目指していた金本位制による世界経済のコントロールという目標達成が俄に見えてくる。

 

 そしてブリテンの急ぎ足につられるように、フランス、ドイツなどがアフリカに首を突っ込み、しばらくアジアは小康状態となる。

 

 これは日本にとって、自らの地盤を固めるための貴重な時間であり、各地への移民事業、開発、日本自体の様々な産業、社会資本、制度を整え、さらなる発展を行った。

 

 この中で、1860年に得た満州開発が加速度的に進み、また大濠州では人口の拡大、産業の発展、広大な領土への鉄道資本の整備などで域内国力が大きく増加し、民意の向上もあって独立の前段階である、自治に向けた動きが進んだ。

 


 そして1863年に沿海州、北満州で日本人が鉄道を引き始めると、ロシアが強い警戒感を見せた。

 

 当時ロシアは、「クリミア戦争」に敗れる事で近代文明の力を痛感したばかりで、皇帝アレクサンドル2世による様々な改革が行われていた。

 しかし改革は、急進派、保守派双方の妨害によりうまくいかず、日本が北満州で鉄道を引き始めた年にはポーランドで大規模な反乱も起きていた。

 しかもロシアは、資金不足、技術不足のため、国内の鉄道敷設が他の列強に比べて大きく遅れていた。

 辺境でしかないシベリア方面には、まだ鉄道と呼べる物は一切無く、ようやくウラル山脈近辺に伸びつつあったぐらいだった。

 ウラル山脈辺りに住むロシア人の数も、収容所の罪人と看守以外コサックがほとんどで、シベリアは人口希薄地にして文明過疎地だった。

 

 これまでは、隣接する日本の北海州もある程度似たレベルだったので看過できたが、日本が農地を開ける場所を手に入れ、そこに鉄道を引き始めたとなると見過ごすわけにはいかなかった。

 鉄道を引いた時点で、全てが大きく変化していくからだ。

 

 しかし、シベリアに鉄道を引きたいという、ロシアの話に乗ってくれる国はなかった。

 だが、日本とロシアがユーラシア大陸の僻地で睨み合いすることに利益を感じる国はあったので、そうした国々が双方の国を煽った。

 

 とはいえ、当時の優位は日本にあった。

 ロシア人が大軍を北海州や満州国境まで持ってきたかったら、最短でも4000キロ以上の距離を鉄道なしで越えなければならなかった。

 一方の日本人は、鉄道の存在を考えなくても陸路は1000キロほどでかまわない。

 これでは勝負にもならなった。

 しかも鉄道は、起点となった浦塩市から2年後にはチチハル、5年後の1865年に北満州西部のハイラルまで開通した。

 また浦塩からアムール川に伸びる鉄道も68年には開通する。

 支線の工事も順調で、開拓可能な場所には日本人開拓民の村が多数出現しつつあった。

 

 しかも日本人は清朝の上層部と掛け合って、依然として漢族に万里の長城を越えさせなかったため、そこは日本人だけの新たな開拓地だった。

 この件で、日本から北京の一部の人々に大金が流れたが、近在の開拓地を得ようとしている日本にしてみれば小さな出費でしかなかった。

 

 一方のロシアは、1866年に皇帝暗殺未遂事件があった後は、反動政策が強化されて内政の混乱が続いた。

 政策自体も保守的となり、シベリア鉄道敷設の計画も流れてしまった。

 またロシアにとっては北東アジア政策よりも、併呑を進めていた中央アジア政策に対して力を入れる時期でもあり、日本に対して強く出ることは結局出来なかった。

 

 そして日本の方が、ロシアより北東アジアに領土欲を見せていた。

 

 日本は、北満州鉄道の中間点に春日市を建設し、そこから自分たちの領域の終着点となる長春にまで鉄道を延長。

 1871年に清朝がそれぞれロシアと中央アジアで国境問題を起こすと、他の列強への牽制や仲介役を買って出たりして、1875年に南満州の鉄道敷設権を手に入れる。

 その頃には、1873年に朝鮮王国を武力で強引に開国させ、近代化の援助と借款の代償として朝鮮半島内での鉄道敷設権を手に入れ、釜山から奉天に通じる鉄道の敷設も行っていた。

 朝鮮王国は、あっと言う間に日本の経済植民地へと落ちていった。

 近世どころか中世レベルに落ちていた朝鮮の統治体制が、圧倒的国力差の前に押しつぶされてしまったのだ。

 

 まさに北東アジアは、日本に飲み込まれようとしていたと言えるだろう。

 

 日本は産業革命に必要な各種資源を、巨大な商船隊を作って東南アジアと大洋州から吸い上げ、大洋州、満州の開発と開拓で経済の拡大を図り、そして勢力圏各地の市場化によって富を増やすという典型的な帝国主義の道を突き進んでいた。

 そして国家の動きを、超巨大化した企業群が後押しし、豊かになることと国威発揚の面から民衆が国の政策と膨張を支持した。

 

 しかも日本は、他の列強との距離があるという優位を使い、自らの軍備への投資を他国より低く抑えることで財政面での負担を軽くして、そこで浮いた資金を投資や開発に投じていた。

 日本に不足するのは先端技術力だが、ヨーロッパ最先端よりやや劣るという位置にさえあれば、現状を維持する限り大きな不利はあり得ない状態だった。

 

 1880年代で本国の人口は5000万人を超え、大和共和国を除く日本人人口は総数で約7000万人だった。

 この数字は当時、ロシアを例外とすればヨーロッパの列強と呼ばれるどの国よりも大きな数字だった。

 領域自体も南北と東西の差はあったが、ロシアに匹敵するが凌ぐほどあった。

 その上で、産業革命の進展度合いは、第一線近い位置にアリ続けていた。

 日本が列強間の競争で優位だったのも、ある種当然の状況ではあったのだ。

 

 しかし巨大化した帝国主義国家群のため、世界の辺境だった筈の日本もヨーロッパ外交の中に飲み込まれ、そして出すぎた事で疎まれるという原則が日本を徐々に覆いつつあった。

 

 それがスエズが開通し、アフリカが分割された頃だった。

 

 そして本当の帝国主義は、まだ始まったばかりだった。

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