フェイズ01「決戦前夜」
第一部は、私たちの歴史とは違う関ヶ原の戦いです。
●ターニングポイント「養子縁組」
豊臣秀吉の養子だった木下秀俊は、秀頼誕生により他家への養子に出されることになる。
中途半端に独裁者の系譜に連なったが故の悲劇であった。
しかもここで、毛利、小早川、さらには上杉が木下秀俊を押し付け合いをする水面下の取引があったが、文禄3年(1594年)、秀吉の命により毛利輝元の養子として毛利宗家に入った。
この時の官職は中納言だったが、元服時に受けた官位「左衛門督」の唐名「執金吾」とあわせて「金吾中納言」と称された。
この時毛利秀秋と改名していた木下秀俊は、広大な毛利領内に隣接する領土を拝領。
秀俊時代と同じ10万石の大名となる。
これは事実上豊臣秀吉から毛利宗家への養子代金であり、毛利はその領域を広げることにもなった。
そうでもなければ、一時的とはいえ毛利宗家への養子など受け入れられるわけがなかった。
なお、木下秀俊を養子としなかった小早川家では、その後養子だった秀包がそのまま家督を相続。
隆景が早くに死んだため、小早川秀包として筑前30万石の太守となった。
このことは小早川家を大いに安堵させることになる。
でなければ、木下秀俊つまり豊臣家に乗っ取られていたかもしれなかったからだ。
そして歴史は、1600年初秋「関ヶ原の戦い」を迎える。
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●フェイズ01「決戦前夜」●
慶長5年(1600年)、その年の7月に始まった「関ヶ原の戦い」と総称される大規模な戦闘が日本全国で発生した。
直接的な発端は会津の上杉征伐だったが、誰にとっても単なる口実に過ぎず、徳川家康による天下奪取の動き、徳川家康の台頭とそれを疎んじる大名、それらに巻き込まれた日本中の大名による大規模で広範囲な戦闘となった。
戦いは、誰も予測しなかったほど足早に進んでいった。
あまりにも大軍が動き回っているため、兵糧(補給物資)の関係から長期間の行動が難しいからだ。
そして濃尾平野辺りでの大規模な戦闘が濃厚になる頃、戦機は熟したと言えるだろう。
徳川家康は、東軍先鋒となった豊臣恩顧の大名達による岐阜城陥落の報を聞いて、江戸及び北関東から主力部隊を二手に分けて進撃させていたが、彼の戦略構想は最後の段階で不透明さを増した。
まずは、嫡男秀忠に任せた総勢3万5000の事実上の主力部隊だが、これが不味かった。
秀忠の軍勢は、上杉攻めの先鋒として北関東の宇都宮に陣を張って、長らく上杉への抑えとして北関東にあった。
そして決戦が近いとして、これをそのまま東山道を進ませるも、孤立無援の中で西軍に与した信州上田の真田昌幸の計略にはまって、東山道の外れで立ち往生してしまったからだ。
一方では、徳川家康の事をあまり知らず、しかも武闘派の多い西国、特に九州、中国の諸大名の調略も不調な上に、毛利家の武闘派で前線に多数の兵力を持ち込みつつある毛利秀元、小早川秀包は説得や内応にまるで応じなかった。
しかも周りに煽てられた毛利輝元は、名目上とはいえ西軍の総大将に就いてしまう。
毛利一族の吉川広家、小大名の脇坂安治などの内応は取り付けられたが、共に前線には少数の兵力しか持ち込んでいないので、決戦ではあまり役には立ちそうになかった。
その中で、毛利宗家の養子ながら嫡男とされていた毛利秀秋が、自らの毛利家内での不遇などで不満をためた末に、消極的な内応に動いた事は大きな収穫だと考えられた。
しかもその毛利秀秋が輝元の名代のような形で1万5000の大軍を率いて前線に出たので、利用価値は十分ではないかと計算された。
日和見して動かないだけでも、決戦場では十分な価値がある筈だった。
だが徳川家康が仕掛けた数々の説得や謀略は、土壇場で微妙となった。
もともと謀略は賭の要素が強いとは言え、土壇場に来ての変化となると話も違ってくる。
特に面倒だったのは、宇喜多秀家と小早川秀包がそれぞれ率いる大軍の存在だった。
宇喜多秀家は、お家騒動はともかく彼自身の東軍内応はあり得ないので、ここでは小早川秀包を見ておこう。
小早川秀包は武闘派で戦意も高く、挙兵の頃から西軍の主力部隊として常に行動していた。
今一つやる気を見せない毛利秀秋を主力とする部隊とは違って、毛利の両川としての存在感を示しつつ、方々で東軍部隊を攻撃して回っていた。
また小早川勢と似たような行動をとらされた小規模な大名の軍勢をいくつか連れており、総数は約2万人に達していた。
しかも小早川勢は、朝鮮出兵での勇名で知られるように北九州の強兵であり、戦いの帰趨を決めうるほどの存在だった。
そして小早川勢は、主に主力部隊と行動を共して大垣城集結の折りには中心にいるも、毛利宗家の名代である毛利秀秋らの軍勢が9月7日に南宮山に到着すると、南宮山の垂井と呼ばれる村の辺りに改めて布陣してしまう。
これで東海道と東山道の合流点という最も重要な場所の一つが約2万もの兵力で半ば封じられた形となり、大垣城から垂井にかけての緩やかな包囲陣が形成されることになる。
そして東西両軍共に9万強の軍勢を一つの地域に集めた形になり、ここに決戦の機は熟しつつあった。
ただし、これにより決戦場に集まった東軍内応派の西軍諸将や消極的な武将のほぼ全てが南宮山方面に集められた事になるので、東軍にとっては一概に不利とはいえなかった。
ただし、武闘派の小早川秀包と西軍で中心的な一人だった安国寺恵瓊が結びついたため、煮え切らない毛利秀秋に対する大きな重石にもなっていた。
事実、南宮山での毛利家内での議論では、内応する吉川広家が苦戦を強いられた。
つまりこの時点では、大垣城近辺での決戦態勢に突入しつつも、事態は全く分からない状況だった。
しかし事態は、刻々と変化していく。
濃尾平野に東西両軍の主力部隊が集結しつつある中で、西軍では毛利元康が総大将となって、立花宗茂らが率いる九州の武闘派大名達と共に、突如西軍を裏切った京極高次の大津城攻めを行っていた。
当初京極高次は寡兵ながら善戦し、十分に西軍武闘派大名達を引きつけていた。
ここまでは、非常に嬉しい誤算だった。
息子秀忠の失点を補えるほどの得点と言えた。
何しろ1万5000名の大軍を足止めしているのだ。
しかも9月14日に開城降伏しているので、タイミングさえ合えば東軍にとってこれ以上ない利点となる。
さらに丹後・田辺の細川幽斎は籠城一ヶ月以上に及び、50日目の9月13日に細川幽斎を失うわけにはいかないという公家達の働きにより出た勅旨によって開城した。
こちらにも、丹後周辺の西軍合わせて約1万5000名が押し掛けており、大津と合わせて十分に秀忠軍の失点を補えるものだった。
一方東軍では、徳川家康が率いる約3万2000の大軍勢が、9月14日に大垣城北西の岡山(赤坂)の陣に到着した。
しかし西軍としては、関ヶ原に至る道は事前に抑えてあるので、そちらから数日後にやってくる援軍を待てば良い状況だった。
しかも西軍の作戦修正が既になされつつあり、大垣近辺ではなく彼らが押さえている関ヶ原に東軍を引き込み、野戦で一撃で徳川家康を覆滅しようと画策していた。
このために、大谷吉継が関ヶ原方面に既に進出していたのだった。
加えて、極秘に安国寺恵瓊を訪れた密使が作戦修正案を伝えていたと考えられており、それは小早川秀包にも伝わっていた。
つまり西軍は、少し前から恐らくは岐阜が落ちた時点から、関ヶ原での決戦を考えていたと判断できるだろう。
一方の徳川家康は、彼が得意とはいえない城攻めではなく野戦で敵主力を一撃で撃破する事を目標とし、吉川広家らが南宮山近辺の西軍を抑えるという内応の確約を以て関ヶ原での決戦を決意。
機を見て、東軍全軍を前進させようとした。
つまり両軍共に野戦での決着を望んでいたという事になる。
しかし、東軍の関ヶ原への転進には4つの問題が横たわっていた。
一つは、小早川秀包を中心とする西軍2万の大軍が、関ヶ原に抜ける街道を押さえている事。
一つは、各地で攻城戦をしている西軍部隊の集結タイミング。
一つは、東軍主力部隊である息子秀忠の軍勢の到着タイミングだった。
そして一番の懸案は、大坂城の動きだった。
毛利輝元の毛利宗家の主力部隊4万が出てくる可能性だ。
この大軍が、豊臣秀頼を担ぎ上げて出陣してきたら、その時点で家康としては和睦を行うより他無かった。
しかも情報は不確定な点があった。
大津城と丹後・田辺城の状況は、西軍に阻まれているため詳細までは判明していなかった。
少なくとも9月14日に家康が到着した時点では、どちらも戦いが続いていた。
この時代ではリアルタイムの情報は得られないが、少なくとも双方の大軍が関ヶ原を目指しているという情報はなかった。
一方東山道を美濃に向けて進んでいる徳川秀忠の軍勢は、家康の元にやってくるのは先鋒だけで9月19日の予定で、全部隊が揃うのは早くても翌20日を待たなければならなかった。
何しろ木曽路は悪路で大軍の行軍がとてもしにくく、自然と隊列が長く伸びて前進速度も落ちるからだ。
つまり東軍(徳川家康)としては、20日から以後数日以内の決戦が最も好ましい日程だった。
だが調略や謀略と違って、徳川家康の思惑通りには進まなかった。
14日に徳川家康の本軍が到着した日には、西軍の少数部隊の攻撃を受けて敗北を喫した。
徳川家康本軍の到着で士気の落ちた西軍を奮い立たせるための攻撃だったが、その効果は今ひとつだった。
このためか、さらにその深夜にも夜襲を受けた。
これは東西双方からの攻撃となり、西軍側からは小早川勢、島津勢などかなりの数が参加した大規模な戦闘となり、夜襲を予測しきれていなかった東軍は対応が遅れ、外側に布陣していた軍勢のかなりに無視できない損害を受けることになった。
特に東軍全体での軍勢の混乱は、大きな失点だった。
しかもこの間に小早川勢は陣替えを実施して、南宮山に戦力を集中する形に陣形を変更した。
消極的な内応派の諸将を監視するためなのは明白だった。
夜襲と西軍の一部配置変更に、東軍では大きな動揺が見られた。
幸いにして関ヶ原に新たな軍勢が入ったという報告はなかったが、小早川勢の陣替えはその前触れだと判断されたからだ。
夜襲も西軍の移動をカムフラージュするためのものだとすら当初は考えられた。
実際、小早川勢が動いていた。
しかも夜襲され混乱した状況の中で、東軍の士気は乱れ低下していた。
士気の低下は看過できない事態であり、徳川家康としても決戦を決意せざるを得ない状勢であった。
本来なら徳川秀忠の率いる事実上の主力部隊到着を待ちたかったが、幸いにして西軍の増援部隊もまだ到着していない。
ここが一世一代の勝負所だった。
そこで西軍に、小早川勢の陣替えを好機ととらえた東軍が関ヶ原を突破しようとしているという噂を流す。
これで西軍の側も動き始め、東西ほとんどの軍勢が関ヶ原方面へと動き出すことになる。
このとき、決戦日は9月16日と決まったのだ。