1章 SideMix7
「はぁっ、はぁ゛っ、はぁっ……」
――『必死』というのは、こんな感覚なのか。
膝立ちになった股の間に、ミルフィの腹が仰向けで挟み込まれている。
ブランは、握った右拳をミルフィの顔面に叩き落としつつ、脳を支配する無味乾燥なイメージを、心地よく感じていた。
小指と薬指の間くらいに、柔らかな肌と、頬骨の当たる感触がへばりつく。
その感触が抜けきらぬうちに、再び同じ位置に拳を落とす。
左の手が、相手の動く部位に向かって、勝手にそこを抑えていた。
一発打ち込む毎に、ミルフィの目尻には濃い皺が刻まれ、鮮やかな舌が口の内側で蠢いている。
それしか見えなかった。
このまま、動けなくなるまで殴り続ける事以外、考えられなかった。
右側――細い髪の神経の先に、生暖かい靡きが触れる。
気にせず腕を振り下ろすのと同時に、ぐいと上体がそちらへ引かれる。
ミルフィの左手が、草の根を抜くかの如く、ブランの横髪を握りしめていた。
「離せッ!!」
痛みから逃れるよう、体を倒し、胸を押し付ける。
汗ばみ光る鎖骨の下に、ミルフィの額がぬらぬらと当たっている。
両腿に力を込め、挟み込もうとするのと同時。脇腹の下に、ミルフィの右手が、第一関節を折り曲げた形で食い込んでいた。
じゅっ――!!
五本の爪が、柔らかなブランの肌を掻き上げた。
皮膚のめくれるおぞましさと、肉が削ぎ落ちる痛みが走る。
「んがぁあぁあああ!!!」
喉を張り破るような悲鳴がひり出て、同時に右の肩を地面につかされた。
そのまま下に敷かれるのを、反動で転がり何とか阻止する。
全力で、横倒し。もう半回転はさせて貰えない。
髪を掴むミルフィの手が、一本から二本になっていた。
ブランの指も、ミルフィの桃髪を根本から挟み、強く地面に引き付けている。
そこからは、激しい揉み合いになった。
身体中を小石や爪で傷付けながら、腹に膝を入れ、脛を蹴り上げる。
頭が地面に打ち付けられるたび、悲鳴と共に全身を暴れさせる。
挟み込みあう互いの太ももが、潰れて熱を帯びていた。
「じゃま!!」
弾力のあるミルフィのスニーカーが、ひしめく二人の肉体の間を割るように、蹴り込んでくる。
ずち、と踵が脇腹に沈み、脚のバネで背後に跳ね飛ばされた。
尻もちをつくブランの前で、ミルフィがゆっくりと立ち上がる。
凍傷になった肌がめくれて、足の付け根の肉がむきだしになっている。
「はぁっ――。はぁっ――。ッざけんな……」
ミルフィの悪態が、どろりと地面に滴り落ちた。
「それは、ッ……。こっちの、台詞だ……」
ブランは背中を起こして立ち上がり、汗まみれの髪を一度だけ払う。
顔が、火にかけられた坩堝の如く熱かった。
靴の中で、いじめ抜かれた足の裏がびりびりと痙攣をおこしている。
ヒップのぬかるみに張り付く砂が、なんとも鬱陶しい。
汗でベタベタになった上着を脱ぎ捨て、半袖一枚になると、ミルフィもジャケットを放り投げ、棘の生えた視線をぶつけてくる。
その視線が、自分の脳に到達するより先に、体が動いていた。
「うがぁっ!!」
後ろ足で大地を蹴り、一気に距離を詰める。
視界に相手の顔面を収め、跳び気味に腕を振りかぶる。
――当たってくれ!!
ブランは半分祈りながら、顔の横に引き付けた右拳を繰り出した。
ミルフィは退がるそぶりすら見せず、体を屈めて前に出てくる。
その動きで、拳が逸れた。
親指の関節が、耳をかすって髪をそよがせる。
直後に、ミルフィの抉り上げるようなパンチが、傷跡の付いた腹を震わせた。
内臓が潰れるほどの衝撃。
膝から崩れそうになるのを、相手の襟元を掴み、こらえる。
五本の指が首に伸びてくるのを、突き放して躱す。
伸びた左腕を縮めるのと合わせて、右の腕を振り抜いた。
この距離ならば、外しようがなかった。
出鱈目なストレート。
確かな手応えと共に、頬肉の潰れる感触が拳先に残る。
顔を逸したミルフィの口から、血と涎の混ざった飛沫が吹き出している。
「ずぁ゛ぁああ!!」
――みしっ。
次の瞬間には、ブランの目の下に、ミルフィの拳が抉りこまれていた。
熱した鉄の棒を押し付けられたような痛みが、じんと眼球に滲み出てくる。
「うずっ!」
振りかぶり、殴る。
今度は真っ直ぐな拳が出ずに、叩き落とすようなハンマーパンチが、耳と顎骨にぶち当たる。
「ひグぅ」
ミルフィは涙を零しながら、ブランの肩を掴み、唇の辺りを横殴りにした。
切れた肌から黒い血液が溢れ、それを顔面に貼り付けながら、ブランは次の拳を握った。
足を止め、殴り。返される。
動きを止めたほうが負けだ、と考えなくてもわかっていた。
――マナを用いらない戦闘は、初めてであった。
はたから見れば戦闘でもない、タダの喧嘩であったが、ブランは極めて真剣であった。
年の近い友人すら居らず、箱入りで育てられた彼女にとっては、こうして殴り合いをした経験すら過去一度も無く。
はじめてでここまでやれたのだから、それだけで褒めて貰いたいくらいであった。
とはいえ、今日の今日までブランに競争心という物が無かったわけではない。
むしろ、強くなりたいという願望は人一倍であった。
ただ、ブランにとって最も身近で目標となる生き物が、あまりにも高い所に居たゆえに、何をすれば良いのか全くわからなかっただけなのだ。
――その「強くなりたい」という自分の願望の前に、ミルフィが居た。
それだけの事だとわかった瞬間、妙に心がすっとした気になって、腕の重さが消えていた。
ミルフィの拳には初めから、その重りが無かったように感じる。
代わりにもっと別の、何か巨大な、信念にも似た感情がこもっていて、だからこんなにも痛いのかと、ブランは彼女と同じ様に涙を流した。
「「――」」
満身創痍での殴り合いは、数分間にも及んだ。
力を込めるためか、痛みを誤魔化すためか、相手を脅すためか。2人は悲鳴とも奇声ともつかない声を何度も発しながら、整った相手の顔に拳を打ち付ける。
どちらの拳も、出鱈目であった。
ただ、相手に届けばいいと、それしか考えていない、真っ直ぐな拳である。
それが、一メートルも無いような距離で何十回も交錯し、そのたび、体のどこかが軋みを上げていた。
「く……ッぅ゛!!」
先に手を止めたのは、ブランの方であった。
ミルフィの強烈な回し蹴りが、柔らかな横腹を抉っていたのだ。
拳に目を向けている間の、不意の蹴りであった。
喉の奥から押し寄せる、酸味を含んだ激流。
ブランはそれを止める事も出来ず、頬袋に溜め込んだ中身を、ミルフィの腿に吐きかける。
ずっ。
服を掴んでいた左手が、ミルフィの肌を滑り落ちた。
一瞬、心が挫けていた。
ふくらはぎから下の感覚が、消えていた。
がくり、と膝をついた瞬間、後頭部に、細やかな指が絡む。
「――っぶ!!」
――口の中に、土塊の味が広がっていた。
顔を、地面に叩きつけられられたのだ。
「はぁっ――、はぁっ……、はぁっ……潰れろォ!!」
げち。
ミルフィの足が、後頭部を踏みつける。
口の端から垂れた涎が、小石と混ざって砂上に雫を膨らませている。
腹の下が、冷たい。
それと、体が重い。
全身が泥になって、この冷たい地面と混ざってしまったみたいだ。
さっきまであれほど自由自在に動けていた筈なのに、一度倒れてしまった途端、糸が切れた人形のように、体に力が入らなかった。
踏まれるのは、殴られるのに比べて、特別痛いわけではなかった。
何度も、何度も、何度も土に頭を押し付けられ、だからといって苦しいわけでも、体が傷ついていくわけでもない。
せいぜい髪の数本が、靴底の滑り止めに巻き取られ、千切れていく程度である。
むしろ、体力を回復させられるくらいだと思っていた。
そう思った途端、みるみるうちに体から力が抜けていったのである。
――失ったのは、力ではなく闘気であった。
「はぁ、はぁ、観念、しましたか」
満身創痍、しかしはっきりとした声が、頭上から降ってくる。
ブランは地面に突っ伏したまま、もう何十秒も静止していた。
一度だけ、後頭部を踏む脚力が強まり、傷だらけの頬に小砂利が突き刺さる。
心に杭を打つような、駄目押しであった。
ぐう、と喉の奥から声が漏れ出す。
と、同時に乗せられていた足が退いた。
――次の台詞は、やけに近くから聞こえてきた。
「これに懲りたら――もう人間を舐めない事ですね」
靄のかかった視界の先に、ペールオレンジの絵の具を塗りたくった色の、生き物の姿があった。
濃い、血液の香りがする。
ところどころ腫れ上がった顔の中央に、唇が弧を描いていた。
表情は、わからない。
街で話した時のような屈託の無い笑顔なのか、それとも、拳を振るう時の、あの張り詰めた笑みなのか。
涙と疲労に滲んだ今の瞳では、それを判別することは出来なかった。
しかし、一つだけ、伝わった事がある。
『ミルフィはこの台詞を言うためだけに戦っていた』ということだ。
しゃがみ、覗き込む体から、達成感がしみ出ていた。
息切れが、ずたぼろになった首のうしろに降りかかる。
「う゛う……ッ……」
呻きつつ、ブランは土の匂いを嗅いだ。
月光を葉に映す草や、角ばった小石が、汚れた頬をさめざめと冷やす。
苦しい。
自分の内から湧いてくる痛みに、溺れてしまいそうだった。
肉体ではない、心の痛みである。
遠く昔――まだ小さな頃に何度も味わった筈なのに。
(……惜しい)
自分が今まで目を逸らしてきていた、恐ろしいほど根源的な気持ちが、ブランの全身を満たしていた。
悔しさ、と言ってしまえば、それでまとまってしまうのかもしれない。
しかし、悔しさというのは、こんなにも苦しいものだったか。
指先が、こわばっていた。
捨てられ、雨にさらされる子犬のような惨めさが、じわじわと肢体を締め上げる。
喉も、体も乾ききっているのに、目頭にだけ、熱いものがこみ上げてきた。
だんだん、口の中であぶくと混ざる、砂利の味がはっきりしてくる。
すると、頬の辺りに血が集まり、止まっていた心臓が動き始めた。
けっして、いい気持ちではなかった。
空焚きの風呂のように、中身が無いものを無理矢理熱くしているような感覚である。
(悔しい……くやしい、から、さ)
だが、今のブランからすればそれで十分だった。
「――いや、だ」
喉から、掠れた声が漏れる。
聞こえるか聞こえないか、かろうじて判別できるくらいの、蚊の鳴くような声である。
しかし、ミルフィにはその声が届いたようで、立ち上がろうとする腰が、少し持ち上がりその場で止まった。
うつ伏せのまま、ブランの細い指が、這うように地面を動いていた。
(だから、もう少しだけ――――足掻かせてくれ!!!)
「嫌だぁッ!!!」
ブランは獣の如く叫び、即座にミルフィのふくらはぎを掴んだ。
驚くほど、手に力が籠もっていた。
そのまま、肉が剥き出しの脛に、犬歯を突き立てる。
歯の先が皮膚の繊維をめくり、噴き出した血がスニーカーの踵を赤く染める。
「あ゛ぁ゛あぁあぁああああああああ!!」
ミルフィの悲鳴が、鼓膜にはりつく。
生傷の残る痛々しい腹が、振り絞られるように大きく反る。
ブランは唇に真っ赤な血を貼り付けたまま、ミルフィの左足を抱えて立った。
後頭部が、地面とぶつかる音がした。
「やめ――」
「やだ!! やだ!! やらっ!!!」
ぼずっ、ざぐ、ぐちっ――
仰向けになったミルフィに、立ったまま蹴りを何度も叩き込む。
顔だけではない。腕に、腹に、脇に。とにかく膝のバネで蹴り込み、当たる場所ならどこでも良かった。
柔らかな肉の潰れていく感覚が、生々しく伝わってくる。
抱えた脛が汗に濡れ、魚のヒレのように跳ね回っていた。
ブランの瞳からは涙がとめどなく溢れ、ひっきりなしに否定を繰り返すその姿は、小さな子どもの姿そのものである。
「はなせッ!! 離してえええ!!」
「だまってろ!!」
よじれる腹を、力の限り踏みつける。
ストンピングだとか、そういった意識ではない。ただ、痛そうだから踏んだのだ。
ミルフィの口から、大きな咳込みと共に吐瀉物が溢れ出る。
悲痛そうに歪む顔を見て、ブランは再度、同じ位置に踵を落とした。
がくり、と大きく振れる、桃色の髪。
それと同時に、少女とは思えぬ低い呻きが、細い喉からひり出てくる。
全身を襲う恐怖の念が、ミルフィの熱い肌を大きく波打たせ、ブランの腋下で暴れる脚を蹴り上げさせる。
ブランは全身に力を込めて、抵抗を押し止めようと、うなった。
うなりながら、蹴りを放っていく。
ミルフィの姿は、見えていなかった。
ブランは目を瞑り、泣きながら、肉の感触だけを頼りに脚を蹴り出しているのだ。
それを、何度も、何度も、攻めている自分の体が張り裂けてしまうくらいまで、繰り返す。
十度、二十度。
膝が上がらなくなっても、地面を擦るような、膝下だけのキックを、ミルフィの腕に叩き込んだ。
それもできなくなると、つま先を上げ、手の指を踏み潰した。
地面と靴の間で、骨の砕ける音が聞こえる。
それが聞こえた途端、ふくらはぎの辺りで何かが切れたような感じがして、急な痛みに引き戻される。
「はぁ……はぁ、はぁっ……」
息を切らし、大きく天を見つめた。
冷たい風の中に、星月の光が、美しく輝いている。
その光を瞳にたずさえたまま、ブランはゆっくり真下へと、視線を移す。
――ミルフィの体が、まるで背骨を引き抜かれでもしたかの如く、静止していた。
首は、横を向いていた。
ぼろぼろになった下着から、薄い鎖骨が覗いている。
「はぁ、はぁ、はぁ――」
腕には無数の靴跡と、打撲の腫れが目立っていた。
なだらかな腹が、死に際の震えをスローモーション化したみたいに、上下している。
ずん。
抱えていた脛が重みを増した。
肩から力が抜けていく、その、次の瞬間であった。
「――グ!!」
ミルフィの右――抱えていない側の脚が蹴り出され、ブランの顎をカチあげた。
鈍い痛みが脳天を突き抜ける。
それでも、満身創痍の蹴りでは、ブランの意識を刈り取るには至らなかった。
のけぞった瞬間、手を離す。
尻込みするミルフィに、上から押しつぶすように乗りかかる。
ブランの両手の指が、ミルフィの首筋にかかっていた。




