1章 SideMix6
日は、既に落ちきっていた。
初秋の月光が、開けた草原に、真上から強く降り注いでいる。
明るみの中に、2つの影が踊っていた。
一つの影は、地を跳ね、木の幹を蹴り。
もう一つは、飛ぶ鳥を狩る獣の如く、どっしりと構え腕を振っている。
服が裂けていた。
焼け落ち、引きずられ、繊維のほつれた隙間から、少女らしい新鮮な薄紅色が覗いている。
近づいては離れ、もみ合う二人の血と汗の香りが、大気の中に溶け落ちていた。
「『アーベル・サイズ――――Δ(デルタ)!!』」
地上3メートルの位置に、ミルフィの姿があった。
跳躍したばかりの力が、斜め上から斜め下へと、移り変わる地点である。
体を反らし、膝が自分の額に届くあたりまで脚を振り上げている。
背中に、月光を蓄えていた。
踵の落下地点には、肉食生物の如き瞳でミルフィを見上げ、開いた左手を掲げるブランの姿がある。
落下の勢いを乗せた右脚を、その脳天に向かって振り下ろす算段であった。
『踵落とし』は格闘技において、実践的な技とはされていない。
片足を地につけた状態で脚を上げたとしても、よほどの身長差がない限り、踵の最高到達点と相手の脳天との距離はさほどでもない。
そのまま振り下ろしたとして、威力は殆ど無いに等しい。
ゆえに本来は、上段蹴りからの変化、あるいは別の蹴りへの繋ぎとして使われる技である。
その威力をミルフィは、ビルの二階ほどの高さから降下する事によって極大化させていた。
当然、人間相手に使う技ではない。
空中で自由に動く手段がない以上、長い滞空時間とこれほどの隙が有って、人間のような動く相手に、当たれという方が難しい。
本来は植物目に類する動かない敵や、強大な的を仕留める為の手段であった。
ミルフィはそれを、ブランに対して使ったのである。
避けないという、確証があったからだ。
「ぐぅっ!!」
めりッ……!!
案の定、ブランはそれを、両腕をクロスさせ上段に構える事で受け止めていた。
衝撃を殺しきれず、へし曲がったブランの手首が、鈍い音を立て頭部に当たる。
肉がたわみ、細い腕の、骨まで軋む手応えが、スニーカーの底を通して伝わってきた。
瞬間的に、体が沈む。
地面に後ろ足の先がつき、それを蹴り出す。
片足のバク宙で、距離をとる。
やった、と思った。
そこに、ブランのレバー――下からすくい上げるような左拳が迫っていた。
(もう動ける!?)
条件反射で体が避ける。
その距離が足らず、擂粉木のようなパンチが、アバラの肉を削り取る。
悶え、退がった。
脇腹の辺りに、鉄ヤスリで擦られたような痛みが走り、同時に、空気の焼ける匂いを感じた。
ブランの右手が、燃えている。
「熱ッ!!」
炎を纏ったブランの拳が、肩を掠めて服を焼いた。
カウンター気味に放ったパンチが額に当たるも、下がりながらゆえ、威力が足りない。
ふっと、目の前にあった筈の体が消えた。
――タックル!
膝を相手の胸に押し当てるようにして蹴り放ち、どうにか間合いをとる。
「はぁっ――。はぁっ、はぁ、ふうっ……」
――しぶとい。
ミルフィの額に、濃い汗が浮かんでいた。
諦めの悪い奴の事をよく『雑草のようだ』と形容するが、ブランはまさにそれであった。
それも、倒れたら立ち上がる系の、ヒロイックなしぶとさではない。
倒れないのだ。
普段なら決め技になるような一撃が、ノックアウト必至の拳が、一介のダメージソースに成り下がるのである。
体躯は普通の少女のそれと大差ない。
しかし、その中身が根本的に、人間とは違う感触を持っている。
マナ――専らミルフィが速筋の強化に当てている力を、脂肪や筋繊維の強さに充当しているとしても、あの異様な芯のしたたかさは、まさに化物のそれであった。
甘い攻撃が入ると、自傷をもろともしないカウンターが、ものすごい勢いで返ってくる。
テレフォンパンチにヤクザキック。
フォームは滅茶苦茶だが、反動を使うだけあって当たると鈍い痛みが肉に染み込んでくる。
単発の威力を上げようとすると、隙が生じて攻め込まれた。
寝技は、肌を物理的に焼かれるリスクのほうがよほど大きい。
誤魔化しだろうが未完成だろうが、魔術の使える分、間合いはブランの方が長い。
厄介だ。
魔術に耐性のなかった事を、これほど悔やんだ事は無かった。
立ち会いを始めたばかりの頃、ミルフィとブランの負傷率は1対9といったところであった。
それが今は3対7、そして4対6へと移行しつつある。
ミルフィの四肢は火傷や凍傷の跡が目立つようになり、ダメージは着実に体の動きを鈍らせていた。
「随分と、当たるようになってきたな」
「そっちこそ、そろそろマナが限界なんじゃないですか……?」
ブランの顔が、図星を突かれたように歪む。
ミルフィとて、ただ相手のペースに付き合っていたわけではなかった。
ブランの使う技はマナの力ありき――つまり、それを出し尽くさせてしまえば、後に残るのは少し頑丈なだけの幼気な少女である。
長期戦に持ち込めれば、十二分に勝機はある。
ミルフィはそう考えていたのだが――。
「くっ!!」
右のハイキックを放った瞬間。
ひやりとした感覚が、みぞおちの下の方で蠢いた。
ブランの左手に軽く当たった脚の甲を引き、大きなステップで距離をとる。
(まずい……)
ぎゅう、と、下半身に力を込める。
溜まっていた物が、自覚できる領域まで侵食してきていた。
荒ぶる呼吸をムリヤリ抑えこみ、口をすぼめて息を吐く。
「どうした。焦ってるのか?」
ブランの視点からは、そう見えたらしい。
確かに今のミルフィは全体的にそわそわした様子で、動きも鈍く、精彩を欠いている。
内腿のそばを吹く風に怯え、額には脂汗が浮かんでいた。
「は、はは……焦ってますよ」
ミルフィは砂のついた頬をにやけさせ、答えた。
言ってしまったほうが、楽になると思ったからだ。
「限界なんですよ――――“下の方”が!!」
――思い出して頂きたい。
なぜ、ミルフィとブランがこの場所へと辿り着いたかを。
あれから、もう1時間ばかりが経過しているのだ。
それも、張り詰めるような緊張の中で、である。
「あ゛っ」
ブランは「あ」と「が」の真ん中くらいの濁った声を出し、動きを止めた。
次の瞬間、火照っていた頬が、さっと青ざめるのが見える。
「な、なっ――」
開かれた脚の歩幅が、半歩分小さくなっていた。
「な゛ん゛て゛今゛言゛っ゛た゛ん゛だ゛よ゛おおおおおおおおおおおおおお!!!」
ブランは泣きそうになりながら、奥歯をガチガチ鳴らし、叫んだ。
――彼女もまた、排尿感に襲われていたのだ。
「必死に忘れようとしてたのに!!!!!!!!」
その怒りの矛先は、むろん、ミルフィの方へと向けられていた。
ピアニストのような指でズバシィ!とこちらを指し、目を吊り上げて八つ当たる。
「貴様のせいだからな! ワタシが漏らしたら貴様が責任とれよ!!」
「なんでですか! どうやって!!」
「舐めるに決まってるだろうが、ジュルジュルと無様なラクダのように!!」
「絶ッッッ対お断りです」
「ああ、ワタシも自分で言って絵面に寒気がしたよ!!」
――息があがる。
同時に、尻の筋肉を締め付けるような尿意がこみ上げてくる。
ミルフィとブランは三歩分程の距離を空け、睨み合ったまま動けずにいた。
少し跳べば、拳の届く距離である。
下腹部に、緩急をつけて力を加えつつ、攻撃の時期を伺う。
閉じた口の内側で歯を食いしばり、呼吸する事と目の前の相手だけに集中しようと、無理に思考を巡らせていた。
ブランもミルフィも、共に齢16。
周囲に他の誰も居ないとはいえ、他人、それも敵に失禁を見られるなど、恥辱にもほどがある。
それに、虚しい。
『相手よりも先に漏らさなければいい』という目標が出来たことだけは僥倖であったが、それ以上に、こんな内容で魔族の王と競わなければならないという状況が、あまりにも情けなかった。
臨界点は、着実に近づいている。
確実に勝てる道理は無かった。
良くて五分五分――そう思った瞬間、ブランの右の掌がこちらに向けて開かれていた。
(炎が、来る!!!)
左か右。
跳ぼうとした脚が、固まっていた。
動いたらアカンやつだった。
咄嗟に左手が前に出る。
振り払う熱気は――――さしたる威力もなく、ミルフィの袖をほんの少し温めただけであった。
「あ……あれ……?」
間の抜けた声が、耳に届く。
片目を開き覗く視線の先で、ブランは青ざめ震えていた。
確かめるように、何度も右手を握り、開く。
悲鳴にも似た叫喚。
特徴的な眉が、慌てふためいた様子で釣り上がっていた。
――狙い通り、マナが枯渇したのだ。
(好機……!)
ミルフィは力を振り絞り、ブランの方へと脚を踏み出す。
マナが無ければ、耐久力も落ちる筈。
拳が届きさえすれば、一撃で吹き飛ばせる自信があった。
ざり、と靴底が地面を滑る。
唇の隙間から、白い歯が覗く。
固く握られた拳が振り上がり――
途端。
ふっ。と、ミルフィの中で何かが切れた。
纏っていた気が一気に消え、全身の肉が痛むような脱力感に襲われる。
「あっ……あぁぁあぁあぁあぁあ~~~~」
消え入るような叫びが、口から零れ出た。
げっそりと眉が歪み、目の焦点がぐらりとブレる。
――当然の、現象であった。
ミルフィだって、相当の時間全身に魔術を張り巡らせていたのである。
彼女もまた、ブランと同様、マナの枯渇に見舞われていたのだ。
「「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ああああああああッ!!!」」
二人は叫び、何かを振り切るように前に出た。
もう、叫ぶしか無かったのだ。
傷だらけになった相手の顔面が、ぐんと目の前に迫ってくる。
極端に近い間合いで、相手を押し倒すべく、伸ばされた手が絡み合う。
――ガツッッ!!!
「「ぐう!!」」
額が、衝突した。
脳の揺れを、歯を食いしばって耐える。
じわり、と鼻頭の辺りまで痛みが染み出し、その痛みを押し付けるように、ゴリゴリと眉間を擦り合わせた。
潤みをもった視線が、睫毛の先で触れ合う。
相手の吐息が唇を湿らせるほどの距離。
腕を曲げ、右脚を大きく踏み出した、手四つの体勢である。
「はっ、はっ、はっ……はっ……」
「はぁっ、はぁ……っ、ふぐ……」
息遣いの中に、涙声が混ざっていた。
握り込む掌が、汗でどっぷりと濡れている。
両方の脚に、有るだけの力を込めているのに、倒れるどころか動きもしない。
呼吸をするための喉が、ひぃひぃと分娩の如き慟哭を始める。
腕を押す、ブランの力が膨らんだ。
唸り、押し返す。
生意気に反る小さな胸が、薄い布を隔てて二人の中央で鍔競り合う。
「ぐ…ううっ! ブルジョアのくせに、随分と諦めがわるいんですね!!」
「あ゛あっ……!! 黙れ、貴様のような奴に負けたら末代までの恥だ!!」
全身が、張り詰めた風船のようだった。
足の指先から、額の頂点まで。全ての肉が熱く軋み、悲鳴を上げている。
薄く霞む視界の先に、顎を引き苦しむブランの顔が映り、それを直視しないよう、両目を強く閉じた。
濁った汗が額から垂れ、互いのそれが鼻先で混じる。
太ももの筋肉がぷるぷると震え、大きく突き出された腰のラインが、半月型にしなっている。
――意地に、なっていた。
こんなの、軽くいなせば良いのに、そう出来ない自分が居る。
対抗心とか、正々堂々とか、そういった子供臭いこと、嫌っていた筈なのに。
目が、離せないのだ。
――何分、何秒経ったのか、わからない。
互いの身体が耐えられる限りの時間、ブランとミルフィは、がっしりとその手を組み合わせ、固まっていた。
木々の匂いを運ぶ風が、一迅。強く肌を叩く。
「あぁ」
どちらかが、声を漏らした。
悔しさを煮て固めたような声であった。
身体の中央に、どくりと震えがこみ上げる。
その、数瞬後。
じゅぅぅぅぅぅぅっ……
――パンティの内側に、吸い付くようなハリと、ぬるみが広がっていった。
「「あ、ああっ……!!」」
ミルフィとブランの瞳から、同時に涙の粒が零れた。
絡ませあった指の先が、ちり、と相手の手の甲を掻く。
じんわりと、恥丘の湿る範囲が膨らむごとに、屈辱の思いが大きくなっていく。
一瞬、膀胱に力を入れてみたが、絶え間なく溢れ出る間欠泉の如き自らの尿道を、いまさらどうこうするのがバカらしくなって、すぐに辞めてしまった。
ひたり、ひたり。
食い込んだパンツの中央から、硝子色の雫が月を映して滴り落ちる。
内腿を伝う水滴に、風の冷たさが染みて、“出し切ってしまった”後の体が、腰の上から震えていた。
「「――――」」
しんと、辺りの音が止んでいる。
ミルフィとブランは互いの右肩に顎を乗せた形のまま、両手をだらんと下に垂らしていた。
先程まで荒い呼吸をしていた二人が、まるで心を失ったように静止している。
薄く閉じられた瞳に力は無く、緩んだ下瞼から、しくしくと涙の粒が溢れている。
瞼の内側で、ミルフィの瞳が動いた。
その視線が、ブランのそれと重なっていた。
体に力の入らない中で、心臓だけが、淡々と拍動をつづけている。
「ブランちゃん」
ミルフィは呟いた。
「なんだ」
隣で、ぶっきらぼうにブランが答える。
「ツノ、邪魔」
「ああ」
きゅる、と音を立て、目の前にあった角がピンと天を向くように立つ。
ミルフィは少しむくれつつ、口を小さく空けて、こもった声を出した。
「まだ、やる気ですか」
「……」
返事は、返ってこない。
少しだけ、心臓の音が大きくなった気がして、その後、斜め後ろで長い長いため息が聞こえる。
「帰れないんだ」
消え入るような、声だった。
「お前を倒さなきゃ、たぶん」
次の言葉は、はっきりと聞こえた。
“ずん”と、隣の存在が大きくなったのを感じる。
「だから」
ジャケットの後ろを掴む指が、深い皺を作り。
身体が宙を舞う。
背中を打ち付け。哭声を漏らす。
――少女一人分の重みが、腹の上に乗っていた。
「素直にやられてくれよ……。ミルフィ・アントルメ!!」




