1章 SideMix5
(危っぶなああああああああ!!!!! 何だコイツ!!!)
――警戒していて、正解だった。
全力で肉体の強化を行ったブランが受けたダメージは、思ったほどの物でもなく、少々頬をヒリヒリさせる程度であった。
仮にも“魔神目”――アッシュの最高位である彼女は、見た目こそ酷似しているものの、その人体構造は人間より遥かに優れている。
打たれ強さや、貯蔵できるマナの量も、比較にならない。
ぴき。
手の平から氷の魔術を起動すると、ミルフィは掴まれた右脚を軸にして左のサマーソルトキックを放ち、2mほどの距離をとった。
がくり、と草原に膝をつく少女の、河豚の腹の如くツヤツヤとしたふくらはぎが、赤く霜焼けに腫れている。
肩を上下させる荒い息遣いが、心地良いほど鮮明に聞こえてきた。
――やはり、“ハッタリ”か。
ブランはミルフィの周囲に纏うマナを見て、ほんの少しだけ安堵した。
体表から白いマナが漏れるのは未熟者の証だと、サリィは言っていたのを覚えていたからだ。
(ビビって損した……と、思いたいな)
目の前の少女は胸も無く、魔術を使う様子もない。
おまけに、相手の魔術に対する抵抗力も皆無と言って良いレベルだ。
ブランはミルフィの実力――ドウマルを退けた云々というのを、何らかの偶然か、別の要因に有ると断定した。
あくまで希望的観測であったが、そう思わなければ対峙することなど出来る筈がなかった。
……帰還の魔術が、なぜか使えないのだ。
「どうした。もう息切れか」
「いえ……ちょっと、考える所があっただけです」
そう言って、ミルフィはすぐに立ち上がり、冷ややかな視線をブランに向けた。
日はもう落ちきる間近といった具合で、木々の隙間から仄かに光が筋をのばしているのを残し、天は濃い藍色に染まっている。
背丈の倍ほどもある木の陰が、じんわりと硬い地面を黒く染めている。
異様な静けさだった。
虫の声一つしない。
聞こえるものは、自分と相手の息遣い。それから足元の雑草が、その硬い葉を擦らせる音のみである。
肌寒い初秋の風が、あけすけなブランの生脚を力ませ、ミルフィのジャケットにはためきを作る。
ミルフィは左に半歩踏み出し、腕をへその位置で開いて、両手を握った。
「構えないんですか」
「ああ。必要が無いのだ」
ブランは答え、手をぶらつかせながら距離を詰める。
――疑念は、あった。
彼女の使う『クリミナル・コール』は本来、“ヒト型”をした者同士の戦闘を想定した、貴族階級の戦闘術である。
ブランの練習相手はいつもサントノーレであり、その実力はあまりにもかけ離れ、組手をやるとなっても常にあしらわれる状態であった。
寿人が来てからも、戦闘になった敵といえば巨大な生き物ばかり。
つまり事実上――初めての“実戦”なのだ。
(試させて貰おうか……)
ブランは微笑を浮かべたまま、ゆっくり、ゆっくりと地面を踏みしめ近づく。
――ハイになっていた。
いや、ハイにしていた。
本当は闘いたくなどないのに――その気持ちを押し潰すしか、今を打開する方法がなかったのだ。
やっと、『マトモなの』とやれる。
初めて壇上に立った時の緊張感とは違う、ゲームのレベル上げを終えた子供のような、無邪気な好奇心。
その導くままに、自らを鼓舞する。
「そう――」
ミルフィの後ろ足が、ぐんと地面を蹴った。
想像よりも遠い距離から、ロケットのような勢いで左の拳が伸びる。
ブランはそれを目で捉えることが出来ずに、思いっきり腹の真ん中で受ける。
「くぐっ」と、閉じた喉から空気が漏れた。
重い。
先程受けた蹴りよりも、ずっと力のこもった拳であった。
ブランは苦しさに耐えつつ、ミルフィの手首を両手で掴む。
ぱちぱちと、肌の表面が凍りつく。
ミルフィの整った顔が、痛みに歪んだ。
ブランはそのまま釣り竿を振るように、少女の背中を力任せに地面に叩きつける。
「がぁっ!!」
苦悶の声を上げるミルフィの口から、飛沫が吹き出した。
受け身をとれてはいても、硬い地面に体を打ちつけられる痛みは相当の物である。
離れようと転がる女の腹を、ブランは蹴り飛ばそうとして。
そこで、何を思ったのか、――――動きを止めた。
すぐさま片手のハンドスプリングで起き上がったミルフィが、呆けたブランの顔を睨み据える。
「――どうして、蹴るのを止めたんです?」
肺から空気を大きく吐いて、ミルフィは尋ねた。
どこか不服そうな、まるで“蹴られることを覚悟していた”ような言い草に、ブランは眉を曇らせる。
「いや、何か……可愛そうになって」
頬を掻き、口を濁した。
ミルフィの悲鳴を聞いた途端、同情の念に駆られたのだ。
闘う相手が異形の物だったり、自分より圧倒的に強い者であった場合は、罪悪感や気兼ねなく闘う事が出来る。
だが――目の前に居るのは少女だ。自分と年端も変わらない、見た目だって大部分は同じな、悪性もない女の子である。
(普段、私はこんな人間も……『食い物』として見てしまっているのか)
考えると、胸が痛んだ。
戦闘の最中に憐れみなど、考えていい筈がないのに、纏まりきっていない困惑が脳裏に渦巻く。
この子を殴る、蹴る、殺す自分が、想像出来ない。
未熟さゆえのためらい。そして、彼女の境遇を考えれば至極まっとうな思考であった。
しかし当然――対面する相手は、そのような面持ちではない。
「……やっぱり、あなた、超★ムカつきますね」
ミルフィは両手を握りしめ、痛むはずの手足をもろともせずに、ブランをじっと睨んでいた。
明らかに、怒っていた。
怒りの中に、呆れのようなものすら感じられた。
何かを見透かされているような、そんな雰囲気すら感じる凛とした表情である。
体に纏わりつくマナの量が、ガスコンロのツマミを捻ったみたいに突然大きく膨れ上がり。そのプレッシャーからか、ブランの後ろ足が一歩、自然に後ずさる。
それに合わせて一歩分、ミルフィの靴底が、乾いた草を踏み潰していた。
――バチン!!
次の攻撃は、見えなかった。
体が沈み込んだと思った次の瞬間には、右手の甲に熱い痛みが走っている。
つま先で、蹴られた。
鉄球に手を弾かれたような、骨まで響く痛みであった。
木の枝葉をへし折るような軽快さで振り抜かれた脚。
暗闇の中で薄く光る、淡い桃色の肌の軌跡が、視線の先に残り、その肌色が“ぐるり”と、体の軸となって少女は回る。
回転と共に近づく一足分が、異常に近く感じる。
「くぷ!!」
―― 一瞬、意識が飛んだ。
バネ仕掛けような後ろ蹴りが、無防備の喉と顎を潰していた。
首から上が無くなってしまったような感覚。
倒れた両手に突き刺さる小石の感触で、何とか目が覚める。
「ぐ、ごへっ……ごほっ!! ひぃ゛っ、げ、え゛えっ」
ブランはその場でうずくまり、ありったけの苦しみを吐き出すようにえづいた。
息が、出来なくなっていた。
視界が朦朧として、目の前が真っ茶色に染まっている。
練習でも、組手でも受けたことのない痛みであった。
――受けてはならない痛みだからだ。
「ブランちゃん。本気でヒトに殴られたことあります?」
ミルフィの冷めた声が、ぼんやりと遠くに聞こえる。
答えられる、筈がなかった。
――何も考えられない。息も整わない。
ブランは愛らしい顔をぐしゃぐしゃに淀ませながら、地面に転がる石ころの一つをじっと見つめている。
口の中ではたくさんの唾と、それから内頬を切った血が溢れ、突き出された短い舌を伝って、顎から喉までを斑に濡らしていた。
不意に、首が吊り上げられた。
髪を掴まれたのだ。
サントノーレに結ってもらった毛の根元が、ふつふつと音を立て千切れていた。
両手両足が風にさらされ、片手で持ち上げられたのがわかる。
抵抗しようと思ったが、体が動かず、とてもじゃないが集中力を要する魔術を張れるような状態ではない。
ミルフィは、ひどく苦しそうなブランの表情を一瞥し、右の拳をゆっくりと引いた。
――めしゃり。
目を瞑った瞬間、激しい衝撃が顔の一点で炸裂する。
鼻っ柱に、冷たい感覚が走った。
受け身も取れぬまま、ブランは壊れた人形の如く地面を上を、ただベクトルの許すままに転がり――太い木の根元に、後頭部を打ち付けた。
四肢が、痺れる。
中指の骨の当たる感触が、未だに人中――鼻と上唇の間に張り付いていた。
「これが、本気で殴られるって事です」
ざく。ざく。
ガラスを踏み潰すような靴音が、近づいてくる。
「それで」
――――ずむ。
無抵抗の腹に、右のつま先がめり込んでいた。
「これが、蹴られるって事です」
ブランは口の中の物を一瞬吐き出しそうになり、喉まで出かけた塊を、必死に飲み込んだ。
咳き込む。
息を吸う。
また、涙まじりの咳をする。
エネルギーの逃げ場が無い――所謂、串刺し状態のフロントキックというやつであった。
内臓の中身が全部、ザクロの実の様に潰れてしまったかと思った。
『痛い』とか、『苦しい』とか、そういった単語では表せぬ、ただひたすらの“辛さ”が、少女の細い体を蝕む。
感じたことのない、苦しみ。
全身の血を搾り取るような震えが、ブランを挫けさせようと、関節のそこかしこから滲み出てくる。
「止゛まれッ!!!」
叫び。
拳が、地面を叩いた。
ずり、と鈍い音がして、指の隙間を生血が垂れる。
「はぁ……はぁ。ごほっ、ッ……」
――ブランは後ろ手で木の幹を探りながら、ゆっくり膝を曲げ、立ち上がり始めていた。
瞳は充血し、息も絶え絶えであったが、踏みしめる脚の靭やかさだけは、妙に鮮明なものがある。
根性と、気迫であった。
ただ、立ち上がらなければならないという、その意志のみが、両足に力を込めさせていた。
慟哭する喉の奥から、鉄サビの味が染み出す。
歯を、食いしばる。
ミルフィは目を見張り、小さく感嘆の息を漏らす。
――ブランの顔に、笑みが浮かんでいた。
「……恩に着るぞ、ミルフィ。その言葉を初めてワタシに言ったのが、“お前みたいなやつ”で良かったよ」
赤い瞳の中央に、ミルフィの上体を丸々写し込むようにして、ブランは言葉を絞り出した。
膝から崩れそうになるのを、こらえる。
前傾姿勢のまま、両膝を掴んだ。
いつの間にか、木にもたれなくとも、立てるようになっている。
「そして、礼のついでに一つ、ワタシからも教えてやろう」
ざむ。
一歩だけ、足が前へと進む。
踏みしめる地面の感触が、しっかりと腿まで伝わってくる。
攻め気であった。
怖くないのだ。
ブランはあれだけボロボロにされてなお、ミルフィの様相から『殺気』とも言うべき無形の威圧を感じずにいた。
そして、その理由が今、煮え千切れそうになる懊悩の中でぼんやりと理解出来たのだ。
――ミルフィの所作には、心が入っていない。
感情のままに闘うのなら、今、ブランが意識を保てる状態であることすら可笑しいのだ。
ミルフィの動き、台詞。それはまるで、刷り込まれた物語の演技を再現しているかの如く、ブランの目には映った。
殴り、蹴り、凄んだあの一連の動作すら、“ブランを怯えさせる”為の物だ。
本当に自信があるのなら、わざとこちらを否定するような言葉を吐く必要など無いのに。
なぜ、と考えた瞬間、ブランの脳裏に浮かんだのは、ほんの数秒前に見た、ミルフィの驚いた表情であった。
その瞳の奥に、ブランは恐怖を見た。
ブランがミルフィに対し一瞬でも恐怖の念を抱いたように、ミルフィもまた、ブランを恐れていたのだ。
恐れているから、自分と相手の差を、思い知らせる為に、わざと、大仰に、自分の中にある“強者の像”を、押し付けているだけなのだ。
だから、怖くない。
だから、嗤う。
自分に怯えている者を、勝手に誇張して恐怖するなど、馬鹿らしい。
怖いのは、敗れた先にある、不確定な未来だけである。
そんなものは――――どんとこいだ。
「なぜ、ワタシの家系が代々《混沌の帝》の位を継承しているか――貴様にわかるか」
ブランは尋ねた。
ミルフィの大きな瞳が、虚を突かれたように瞬く。
グローブに包まれた手がオレンジ色の襟を掴み、暗闇の奥を見つめるように、首を捻った。
そして、はっと口を開く。
「えっ? あ……なんか、かっこいい事言う流れですか?」
――相変わらず、空気の読めない女である。
ブランの目尻に、涙の粒がじわりと浮かび上がっていた。
「かっこいい、こと……言おうと思ったのにいいいいいいいいいいいいいいいい!!!!!!!!!!!!!」
ブランは叫んだ。
叫んだと同時に、右の手を開き前にかざす。
ぴんと張り詰めた肌の表面から、ゴウと音を立て、オレンジ色の炎が吹き出していた。
「出せたァ!!」
何度やっても出来なかった、『遠距離まで届く攻撃魔術』。
それが、今初めて成功したのだった。
ビーチボール大の火球は、敵に向かって真っ直ぐ飛んでいく。
炎の赤が、ミルフィの両目を瞑らせた。
ミルフィは咄嗟に地面を蹴り、回避しようと姿勢を低くする。
そこに。
――みしっ。
膝蹴りを、叩き込んだ。
力任せの飛び膝である。
炎を軽減するために、顔の前まで上げられた、腕一本のガード。
それを上からへし折る為の、暴力的な一撃であった。
火球の通った跡の熱気が、頬を乾かす。
肉を穿つ感触――膝の先で歯の鳴る音が、ブランの胸を沸かせていた。
「ッあぁ!!」
ミルフィは叫び、威力を逃がすように地面を転がる。
衝動の許すまま、それを追う。
グローブを嵌めた右手を地面に着き立ち上がる、その間際。
拳を叩き込もうとしたブランに向かって、何か、黒い塊のような物が音もなく飛来した。
塊は、礫であった。
ぐずり。と鈍い音を立て、投げられた石は頬に深い傷口を作り、ブランの足を止める。
その間に、ミルフィは体勢を整えている。
アッシュを示す黒い血が、上気する頬を伝っていた。
「今のキック――すっごく良かったですよ」
ミルフィはそう言って、薄べったい唇を、“にっ”と持ち上げた。
「やっと、熱いのが胸にグッと来ました……!」
「フンっ。後悔するがいい……ワタシをやる気にさせた事をな!!」
――全身の肉が、熱く火照る。
視線を交わすミルフィとブランの間に、得体の知れない神経の糸のようなものが走っていた。
その糸を伝って、互いの脈動が流れ込んでくる。
闘気が体にまとわりつき、動き出したのは――二人同時であった。




