1章 SideL 3-4
出港から1時間。
湖の中央へとに近づくに連れ、視界は悪く、水は濁りを増していく。
ここはもうマナポートの領域外。即ちいつ魔族に襲われても文句が言えない領域である。
そうは言ってもこの辺りに生息しているのは殆ど水生の、それも温厚な連中ばかりだから、それほど危険という訳でもない。
「そろそろ回遊ポイントまで着くけど。……ホントにここで合ってるんでしょうね」
しっかり両手で船べりを掴み、風に頬を打たれたカリアが、吹きっ晒しの俺に尋ねる。
「さあな」
俺は短く答えると、すぐに視線を湖の中心へと向けた。
「さあなって……」
カリアの呟きが、切なさを孕んで豪雨に掠れる。
彼女の話を聞いてから、俺は心の中で、ビックバンが出て来ない方がカリアにとって良いのではないかという思いに揺さぶられていた。
彼女は、自分の両親を失うほんの切っ掛けとなったマグロを憎むことで、自分を遺した実の親を恨まずに居られてるのではないかと考えたからだ。
だとすれば、ここでヤツを討伐してしまったら、カリアは遺恨の対象を失ってしまう。
あるいはその矛先が、今もなお料亭の主人と乳繰り合っているであろう母に向かうかもしれない。
俺はその可能性がどうも気がかりで、曖昧な返事しか用意することが出来ずにいた。
(ま、なるようになるか)
いくら聞いてしまった責任が有るとはいえ、彼女も所詮は他人。
次の町、次の国に渡る頃には、俺とミルフィの記憶の中で『依頼者の一人』に成り下がっている、ただの一般人である。
戦闘になれば、ミルフィの経験が積める、ならなければ危険無く帰る事ができる。
どちらに転んでもメリットと考えれば、難しく考えること自体アホらしい。
何とか適当にやり過ごそうと、暴風の中でくにくにと体を伸ばす俺に、突然、風とは真反対のベクトルがかかった。
誰かが、竿を握ったのだろう。
こんな状況でやる気満々の奴も居るものだなと呆れつつ、俺は振り向こうとして――。
「駄目ですよ、うさぎさん」
轟音の中で、鮮明に聞こえる、透き通った声。
この数日間でどれほど聞かされたかわからないその高音に、俺は覚える所しかなかった。
「ミルフィ……」
フードを外したその桃髪が、風になびいて荒れている。
雨粒のにじむ手の甲が、力強く釣り竿を握り直した。
さっきまでダウンしていた筈なのに、今の彼女は地に足付けて、自らの力だけでこの大時化に抗っている。
「絶対、見つけて、ぶっ倒さなきゃ駄目です」
雨音が、ミルフィの柔らかな頬を叩いた。
墨で引いたかの如く肌を伝う粒が、瞳の青さを際立たせる。
甲板を踏む長靴が軋み、彼女は胸から体を張り出した。
「――だって、そうしないと、カリアさんは前に進めないじゃないですか」
一生懸命な口調であった。
父親を説得しようとする、子供の頃の自分を見ているようだ。
曇りなき眼は、どこまでも強く俺の胸を打つ。
カリアはぽかんと口を開け、二回、呆けたように瞬き。
気圧されるのではなく、納得する形で、俺はミルフィの言葉に小さく頷いた。
――本当に、お節介な奴だ。
「ふっ……わかってんじゃん」
俺はニヒルな笑いを浮かべ、猛り狂った湖面を見つめる。
「そういう事なんで。ちょっくら行ってくる」
驚くカリアに一瞥し、ぶんと両耳を交差し振った。
「ミルフィ。竿、離すんじゃねえぞ」
「超☆モチのロンです!!」
いざ。荒波へ飛び込もうとした瞬間。
――ゴシャアアアン!!!!
一瞬、天地がひっくり返る程の勢いで、船体が跳ねた。
船員は皆足が地面から離れ、船べりに手を付いていない者は落ちる衝撃で体を打つ。
何事か、と俺は耳をパタめかせ、船首に向かって飛び立つと。
未だ大仰に揺れる船の先、その真正面の湖面の波が――真っ黒な影に染まっていた。
「――取舵!!」
漁師の一人が叫ぶ。
間に合う筈がない。
さっきのは恐らく、何かが船底にぶつかった衝撃。だとすれば今目の前に有るコイツが浮かんできたら。
ちゃぷ……。
浮かんで、きたら。
ちゃぱ……。
――俺に見えたのは、鋼色の小さな山。
荒れた湖面の中央からそれが、ゆっくりと、ゆ―――――っくりと上がってきて、やっと正体が『くちばし』であると分かる。
黒と銀が混ざり、光る魚肌。
美しい口の流線型に、ちら、とだけ覗くノコギリの如き細かい牙。
市場で見るカシラの、数倍はありそうなそれが。まるで俺達の船を気遣うように、波より穏やかに上がってくる。
「マグロ、だよな……」
「マグロ?」「まぐろ」「マグ……ロ?」「マグロぉ??」
船員は口々にその正体の名を呟く。
いや、そりゃそうだろう。
普通こういうボス級のヤツって、ざぱあああん!!!って上がってくるモンじゃん。
なんだこの肩透かしみたいなのは。
富士急ハイランドの船ゆらゆらするアトラクションの方がよっぽど遠慮がねえぞ。
巨大な顎と、一メートル近くありそうな瞳が、同時に湖面にせり上がる。
普段なら愛らしさすら感じる真ん丸な目も、ここまで大きいとそれなりの威圧感があった。
小さく小さく喉をくねらせるように、俺達の前に姿を現すそれは、最後に“ぽこんっ”っと音を立て、首から上の全貌をこちらに見せた。
「浮き輪の付いた――マグロ?」
彼を示すのに最も適切な言葉を、ミルフィがつぶやく。
そうだ。
あの巨大な、顔の大きさだけで俺達の船を影で包んでしまうような魚は紛れもなく――首に浮き輪を付けたマグロ、であった。
ごぱ、と空気の音を立て、閉じられていた巨大な口が、少しこちらに傾き開く。
「ご機嫌麗しゅう、皆様」
――えっ?
一瞬、自分の耳を疑った。
古ぼけたスピーカーでぼかしたような『声』が、聞こえた気がしたからだ。
聞こえてきた方向は、間違いなく目の前の湖上。
あの、洞穴の如き大きな唇の間から――。
「え……いま、喋っ……」
「本日ははるばるご足労頂き誠にありがとうございます」
振り向くと、ミルフィ以外の全員が口をぽかんと開けて固まっていた。
互いに顔を合わせる船員。
これは――間違いでは、ない、ようだ。
「マグロが、喋った……!?」
俺は叫びたい気持ちを押し殺し、震えた。
「はい」と響く彼の声に、確信と衝撃を受けた船乗り共が、一斉に声を上げ慌てだす。
かくいう俺も、全く資料に載ってなかった事ゆえに驚きを隠せず、丸い目をさらに丸くしながら、頬を伝う冷や汗を撫でた。
一方で、隣のミルフィはというと――
「どうしてうさぎさんが驚いてるんですか?」
まったくもって、平然としていた。
「なんで逆にお前さんは驚かねえんだよ!!」
あ、俺で慣れてるからか……ってそうはならんだろ!!
魚だぞ!魚!!
声帯どうなってるんだとか考えるだろ!!!
「おっと、お騒がせして申し訳ございません……」
そう言った彼は両胸ビレを伸ばし、ドードルオーシャン号の船体を安定させてくれた。
紳士的だ……!!
「お……お前!!」
巨大なマグロの顔に向け、震えた声でカリアが叫ぶ。
手には銛を持ち、両足を踏みしめているものの、その顔色は決して良いものではない。
銀色の、薄べったい顎がこちらを見る。それでもヤツはカリアを一飲みに出来てしまうほど巨大だ。
「ああ、申し遅れました。ワタクシ、マグロの『ノス』と申します。お恥ずかしながらワタクシはそちらの根菜に目が無い性分でございまして、しかし勝手に他所様のものを頂くというのはいささか憚られる次第でございます。ゆえに一言ご了承を頂こうかと……。ワタクシも本能のままに生きるだけの動物ではございませんからね」
彼は小さくお辞儀をし、名と現れた理由を返した。
カリアの罵声に答えようとしたのだろうが、その解答に一番反応したのは俺である。
人間の言う『魔族』には、『人間に害意を与えうる』という要件が存在する。逆に『アッシュ』にはそのような括りは無く、アッシュから生まれた子、若しくは種目長から名を受けた普通の動物がこれに当たる。
今まで俺達が『ビックバン』と呼んでいたこいつは、本来『アッシュでも魔族でもない動物 (マグロ)』。しかし彼のように名前を貰った者は『アッシュ』の一員として認められる。
即ち彼は『魔族ではないがアッシュではある』という位置づけに有るのだ。
「その名は誰から貰った物だ?」
俺は多少の確信を持って聞いた。
マグロ語を使っても良いのだが、一応船員達が理解できる言語のほうが都合も良いだろう。
「ワタクシごときが申し上げるのもおこがましい方でございます。この湖の支配を任される上で、彼の配下の方から賜りました」
「ジュライの事か」
ヤツの名を出した瞬間、びくり、と巨身が波を打つ。
大きな波が船を揺らすが、それ以上に『ノス』の焦りの色は顕著であった。
(――あのシャチ野郎。塩水のある所だったらドコにでも目付けてやがるのか。チャラい見た目しといて仕事熱心な事で感心するぜ)
ごしゅうう……と吐き出される、生臭い息。
少し落ち着きを取り戻した様子で、彼は俺に疑念の視線を向けた。
「……貴方もワタクシと同じ、アッシュというわけですか」
「残念。俺はそんな枠に収まるようなちっちぇえウサギじゃ無いんだよ。メダカの学校からやり直してきな」
肩をすくめて答えると、『ノス』の瞼が半眼に閉じられた。
眼光の先のカリアは怯えつつ、カッパに包まれた腕に力を込める。
「湖の支配だって……つーことはやっぱりお前が、インチュア湖のヌシって訳か!!」
未だ収拾がつかない様子で、彼女は声を張り上げた。
「はい。近年この湖に住むマグロの数が減少傾向にありまして、その原因の一端に人間による乱獲があると。そこで、湖の生態系を保つために、突然変異であったワタクシがこの湖を取り仕切り、あなた方の手から幾分かの魚を守るよう、使命とマナを賜ったのです。」
なんつー現実的な理由なんだ。
まさかこっちの世界でマグロの漁獲量問題を考えさせられるとは思ってもみなかった。
「その方法が船の転覆!? やりすぎにも程があるだろ!!」
「あれは不慮の事故でございます。我らが同胞の回遊ルート上で、漁師の方々が突然魔術を行使してきたものですから……」
「不慮の……事故だって……」
銛を握る拳が、ぎゅうと切ない音を立てる。
カリアの震えは、恐怖を示すそれから怒りへと転換されていた。
彼女の憎しみは逆恨みに他ならないが、何人もが命を失っているというのも事実である。
喋れなければ自然現象で解決していたかもしれないものを……会話が通じるゆえに起こる軋轢、であった。
「それで、それで許されるかああああ!!!!」
カリアは体に薄光を纏い、雄叫びと共に駆け出した。
瞳に雨では無い水の粒を溜めて、顎が軋むほど歯を食いしばる。
右腕を力強く伸ばし、大きなテイクバックから、弧を描くように腕を振り抜く。
なめらかなその動きは、ひと目見ただけで何度も練習をかさねたのであろう事が分かるくらいに美しく。
高速で放たれた三叉の銛は、マグロの顔面めがけて一直線に突き抜けて――
じゅぐっ……。
到達したそれは、間違いなく“ノス”の額を射抜いていた。
たらり、と一筋、黒い血液が銀の鱗を滑っておちる。
だが、足りない。
あの厚い皮を撃ち抜くためにはあまりにも、力が、得物が、物量が足りないのだ。
ぶん。と“ノス”が首を振ると、カリアの隣にすっぽり抜けた銛が転がった。
もう、彼の頭の血は止まっている。
人間で言えば、頬にまち針の先が刺さったくらいの痛みであろうか。
どちらにせよ、カリアが目的を達する為には、何もかもが不足していた。
「あ、ああ……」
がくり、と膝から崩れ落ちるカリアに、マグロの視線が注がれる。
彼は怒りと呆れを孕んで、大きく濁った嘆声を吐いた。
「ご満足頂けましたか?」
迫る影が、静かな気を纏い、そびえる。
ひたり、と甲板に一滴溢れる、生臭い黒の血液。
船乗り達は一斉にたじろぎ、カリアは嗚咽の混じった息を、キャンドル蝋の如くべったりと地に吐き出した。
斜め上を見上げる船員共の視線には、深い絶望感と、強い反抗心が入り混じっている。
――そうか、彼らも、失った仲間がいたのかもしれない。
俺は両耳をふわふわさせて、周囲を一度見渡した。
さっきまで隣りに居た、ミルフィの姿が消えている。
こんな大事な時にアイツは何処へ……
「これが皆様の結論であれば、残念ながら、あなた方にはお帰り頂かなければなりませ――――」
――開いた“ノス”の口元に、鈍い光がギラリと輝く。
ぶしゃあああああああああああああああ!!!!!!!
真っ黒な、雨。
生臭く、質感を持ち、ビニールに張り付くその液体が、マグロの血である事はすぐにわかった。
目を焼くような熱と臭気が、甲板を……いや、船全体をアッシュの色に染めていく。
直後。船首の目の前に巨大な水の柱が上がった。
切り落とされたマグロの下唇が、どぷりと沈んで浮き上がらない。
“ノス”は唖然とした目のままで、口から大量の泡を吹く。
そこで、とすん。と俺の目の前、舳先に降り立つ、一人の少女の姿が有った。
「魚の分際でぺらぺらぺらぺらと―――――」
若々しくも、ドスの利く声。
雨で下ろされたピンクの髪が、ゆらりゆらりと持ち上がる。
両手に握った包丁へと付着した、黒い血液を振り払い。
切っ先を突きつけ、ミルフィは叫んだ。
「キモいっ!!」




