1章 SideL 3-2
「《マグロ》……?」
首を傾げたミルフィの口から、甘い調子の疑問符が浮かぶ。
こくりと頷くカリアの瞳が、ぐっと真剣なものへと変わった。
《マグロ》とは――マグロだ。
あの、赤い切り身の表面を軽く炙って、カイワレと一緒にニンニク醤油でクっと口に含むと、噛み締めた瞬間ぶ厚い断面から舌をトロけさせる肉汁をたぎらせる、アレだ。
体長3mくらいで大きな目を持ち、常に泳ぎ続けないと酸素不足で死んでしまう――以下は、説明不要だろう。
「そう。インチュア湖のどこかに『ビックバンマグロ』って呼ばれる伝説の大マグロが居るの。体長はおよそ30m。体当たりだけで船1艘が簡単に転覆しちゃう超大物よ」
「30m!? それは、美味しそうですね……」
……ミルフィの中では大きさ=味なのか。
今度から食事は全部“ふ菓子”にしてやろう。
「で、こんど漁師みんなが集まって、そのビックバンマグロを釣りに行こうって話なの。って言っても、もう何回も失敗してて危険も伴うからあんまり人は集まってないんだけど……」
「俺達はその数合わせってワケか」
「ありていに言っちゃうとね。でも人数は大事。敵が大きければ、それだけの味方を用意しなきゃいけなくなる」
彼女は少しだけ含みをもたせた様子でそう言い、顎の下で両手を組んだ。
綺麗に剃られた腋のあたりに、いい形に育った乳の肉がぐっと寄せられ撓みを作る。
「でも、わたし達そういうの素人ですよ? 私も泳ぎは得意ですけど、お魚さんより速くはちょっと難しいですし」
――ちょっとで済むのか。
この辺は内陸で泳ぐ機会も少なく、そういう練習はあまりしてないと思っていたのだが、頼もしい事である。
「良いの良いの。『冒険者が居る』ってだけで他の連中を説得しやすいというか、お守りみたいなものだと思ってもらえれば。船の上に乗っててくれればそれでいいから」
カリアは苦笑しつつ手を振って、ミルフィを諭す。
彼女の提示した条件はあまりにも虫が良く、俺は引っかかりを感じてしまった。
「仮に遭遇出来たとしたら、その時はどうすればいい」
「あはは。そしたら、そうだな――アタシが、どうにかするよ。そのために、漁師になったんだから、さ。うん。」
彼女はこちらに曖昧な表情を見せ、視線で頷いた。
自分に言い聞かせるような口調。
どう考えても因縁浅からぬ――といった雰囲気を読み取って、俺はミルフィの方をちらと見る。
整った指先を顎にあて、何やら考えこんだ後、彼女は俺に向き直り、やや葛藤を含んだ感じで口を開いた。
「わかりました。受けよっか。うさぎさん!」
「ああ、お前さんの門出にぴったりの依頼だと思うぜ。賢人への道は海に千年山に千年――まずは海から行こうじゃない」
「湖ですけどね」
「気分の問題だ」
ミルフィのツッコミを軽く受け流し、笑顔のカリアに向き直る。
これで合意成立だ。
すぐさま細かい話をしてくれた彼女は、商会への申請、それから受諾手続きを手際よく終わらせ、俺達を率いてフロアを出た。
「ありがと、二人共。出発がいつになるかわからないけど、今週中には出れるようにしてみるから」
「こちらこそ、ありがとうございます」
「宿は――ウチに泊まってく? 一人暮らしだし、魚と貝ぐらいしか出せるもの無いけど」
「良いんですか!?」
願ってもない彼女の申し出に、ミルフィは目を煌めかせる。
旅費もだいぶ減ってきたところだし、なんだかんだかかる宿代と食費を抑えられるのは正直、とても助かる。
俺もすぐさま承諾し、彼女も満足そうに頷いた。
「それからウサギ君には帰りにニンジン買ってあげるからね! 最近大豊作らしくてどこの店も余ってるらしいから」
「……そいつは、ありがたい」
生野菜は嫌いではない。
――が、この畜生扱いだけは、何とかして頂きたいな。と、俺は再び自分の身の上を呪うのであった。
◆
カリアの家で一夜を明かし、ブランチを腹に収めた俺達は、『視察』の名目でインチュア湖のほとりまで来ていた。
湖面は快晴の日にあてられて、硝子を砕いたみたいに輝き、頬を掠める水の香りに、どこか懐かしさすら感じる。
「――で、なんですか、この仕掛け」
ミルフィが持っているのは一本の釣竿。
リールが付いているタイプの最新モデルを、近くの釣具屋から借りてきたモノである。
そして、その先端に付けられている釣り餌こそ。
「『ルアー・オブ・うさぎさん』だ」
「自分から名乗るんですか……」
――俺である。
竿の先っぽで湖風に任せ、ぷらりぷらりと左右に振れる体。
小さな輪が取り付けられた背中に、釣り糸が硬く結ばれている。
ぬいぐるみである俺は呼吸をする必要が無いため、窒息死する事もない。
これぞ、自動追尾システム完備かつ絶対に消失する事のない完璧なルアーである。
「で、ルアー・オブ・うさぎさんはそんな間抜けな格好で何をするんですか」
「“間抜け”じゃない。“ラブリィ”だ」
と、俺は一言釘を刺し。
「『情報戦を制する者、マグロを制す』」
「何ですか?それ」
「マグロを狩りたければ正しい情報を知らなければならないという意味だ。俺は今から湖に潜って、ターゲットについて調べてくる」
「調べてくる……って、どうやって」
「魚類の一匹や二匹コマせないようじゃウサギの面汚しだ。ま、お前さんは合図をしたらリールを回して俺を引き上げてくれるだけでいい」
教授の勧めも有り、俺は大学の科目で「マグロ語」を選択していた。
世界中を飛び回るにあたって魚から得られる情報は有益なものが多く、彼らに命を救われた事も一度や二度ではない。
「でも、ワザワザわたし達が調べごとする必要無いと思うんですけど。ただ船に乗ってれば良いんですよね」
「そんな事言ったってな、どう見てもカリアは訳有じゃねーか」
「だから?」
「せめて、ビックバンの姿くらいは見せてやろうと思うのが一宿一飯の恩義ってヤツだろ」
そう言い訳する表情に、何か引っかかる物を感じたのだろう。
ミルフィは吊られた俺を確かめるように顔を近づけ、わざとらしく語気を強める。
「へぇ~……うさぎさん、随分と協力的ですね。ああいう娘がタイプなんですか?」
「本当にそう思うか?」
「……」
俺の逆質問に、ミルフィは肩をすくませ黙り込む。
少し考えたあと、納得がいかない様子で彼女は正解を求めてきた。
「じゃ、どうして」
「そりゃ――」
ふらり。と天を見上げた。
さんさんと降りこむ日差しが、白い額を熱く焦がす。
「お前さんの初めての仕事が、突っ立ってるだけじゃつまらないだろうと思って」
やや素っ気なく、俺は答えた。
――何というか、魔が差したのだ。
「ふへっ?」
彼女は素っ頓狂な声を上げ、その後一瞬真顔になった。
言葉の意味を、咀嚼しているのだろう。
そして、喉の奥の方からこみ上げてきた流れに従い、ミルフィの頬がつり上がる。
ぴくりと低い鼻が震えて、目の中に無数の光が灯った。
滑らかな腹の内側に、ぎゅううっと力が入るのが俺にも見て取れる。
「ふふ……ふへへへへへへ……今日は素直ですね! うさぎさん!!」
火照った頬を誤魔化さぬまま、彼女は俺をからかった。
――純粋に、嬉しかったのだろう。
「うるせえ!! 気持ち悪い笑いすんな、さっさと降ろせガキ!!」
俺は数秒前の言動を繕うように、わざと否定の声を荒げた。
「はいはい。照れない照れない!」
ミルフィが竿を振る動作と同時に、俺の世界は逆さまになる。
ジリジリと音を立て、伸びる釣り糸。
着水に備え瞼を閉じて――
飛沫と共に、俺の視界は深い青に染まった。
◆
「まったく……ちょっとデレてやったらすーぐコレだ」
さんざん駄々をこねてたクセに、欲しいもの買ってやるって言った途端笑顔になる5歳児のようだ。
妙にリアルなイメージを想起しつつ、俺は長い耳をスクリューの如く回転させ、速いスピードで潜行していく。
探しているのは手頃なメスのマグロ。
ある程度モノを知ってる年齢で、自己主張を抑えきれてない模様のヤツ……。
居た。
眼前5m。素知らぬ顔で尻ビレを振るマグロ♀。あいつをターゲットにしよう。
俺は耳のエンジンをフル回転させ、すいっと彼女の隣に出る。
今川焼き程の大きな瞳が、チラとこちらを向いて、すぐに前へと向き直る。
――マグロの特徴は非常に低い知能。そして、ベタな物言いに弱いトコロだ。
「マグーグ(訳:やあ、小離鰭(背びれの後ろにある三角の水除け)の綺麗なお嬢さん)」
「マグ(訳:おチビさん。ここは貴方みたいなヒレ無しが来る所じゃないの。貴方の居場所は“あっち”よ)」
そう言って、彼女は胸びれで丘を指す。
一見すると冷たい台詞、しかし、会話に応じた時点で彼女は俺の術中に嵌っているのだ。
「マロロー?(訳:そんな事言って、湿った奴ばっかりで飽きてきたんじゃないか? たまには別の刺激も味わわないとDHAが不足するぜ?)」
「マーグ(訳:ふんっ。そんなルアーに釣られる程私は安いマグロじゃないわ)」
ちっ。このマグロ、脳みそ2センチのくせに随分とガードが硬い。
だが、こっちにはまだ秘密兵器が有る。
「マッグロ(訳:これを見てもそんな事言えるのかな)」
俺は懐から、一尾の小魚を取り出してみせた。
瞬間、彼女の顔つきが、飢えた子猫のそれへと変わる。
「マギョギョ!!(訳:そ、それはウルクランマサバ!!)」
HIT!!
「マグ……(訳:ど、どこでこれを……)」
近くの魚屋で250ミュルクだ。
この湖では滅多に手に入らないウルクランマサバを前にして、抗えるマグロなど居ない!!
「マググーマ(訳:俺もダテに哺乳類やってるワケじゃないのサ)」
俺は肉球を差し出して、ヌラヌラと輝く彼女の肌を撫でる。
ぞくり、と赤身に迸る情欲のかたまりを爪先で感じて、俺は最後に頬を寄せる。
「ママッロ……!(訳:これでも拒絶するのかい? ――俺の瞳の中に君が映っているうちに、答えを出して欲しいな)」
ダリアの如き黒い瞳が、ほんの数ミリの距離で切なげに震えていた。
彼女の熱が、塩水を通して伝わってくる。
本気の体であった。
女として、オスを受け入れる覚悟の有るカマトロをしていた。
しかし、俺からしてみれば彼女はまな板の上のマグロ……所詮はメシを食っていく為のオカズの一品でしか無い。
「マグーロ……(訳:良いわ、続きはワカメの上でしましょう……)」
優しい声に、俺は内心で感謝した。
「マグマーロ(訳:ああ。忘れられない夜にしてやるぜ。マイ・スイート・ツナ……)」
◆
ざぱぁ。
俺の合図で釣り糸が引かれ、ダルそうに竿を持つミルフィと目が合った。
「ただいま」
「おかえり」
ずぶ濡れの俺は糸を外して、久しぶりの大地を踏みしめる。
「あの女……容赦なく噛みやがって。これだからマグロは嫌いなんだ」
肩をすくめて体を震わせ、毛先から水を振り払った。
あー、これは水の匂いが……。後で洗ってもらおう。
「何して来たんですか?」
ミルフィは退屈そうに、くぁとあくびをしてこちらに視線を向ける。
俺が水中に居た時間は一時間そこそこ。
活発的な彼女からすれば、釣り糸を見つめるだけというのは退屈で仕方がなかったのだろう。
草露が染み込み、座り込んだお尻がぐっしょりと濡れていて、少し可哀想だ。
「“おはなし”だよ。おかげで有力な情報が手に入った」
俺は要点を簡単に告げて、大地にねそべり溜息をついた。
今日の夕飯は――せめて焼き野菜にして頂こう。




