1章 SideN 2-1 Blanc in Underland
「お早うございます、殿下。朝食の準備が出来ております」
――腹が、重い。
聞き心地の良い、落ち着いた声音が頭に響き、深い眠りから強制的に俺を呼び覚ます。
ブランが殿下だから、多分この声の主は給仕か何か……。
「うん゛……くぅ、まぁだ、眠い……」
きめ細やかな髪の毛が寝返りを打つたび、胃の奥底が振動で揺さぶられる。
昨日は随分遅くまで起きていたため、ブランがこう言うのも仕方がない。
俺も頭は少しずつ冴えてきたものの、瞳は未だ閉じられたままである。
「しかし殿下。本日は殿下の戴冠式の日でございまして――」
「うるさいぞサリィ……ワタシの式は……わふぅ、ワタシが決めるのだ……」
枕となった俺の腹に、ブランがひしとしがみついた。
やや乱れた寝息が生暖く体毛の上をかけずり、朝の涼し気な空気と混ざって思いの外心地が良い。
「左様でございますか。でしたら殿下は勝手に起きて勝手に食事を取って、勝手に正装を着て勝手に式の会場までおいでなさいませ」
「それ゛は、い゛やだ……!!」
「なら今すぐ起きてください。それとも、《ウェイク》をお使いになられますか?」
「それはもっと嫌だあああ!!!」
がばり、とブランは布団をはねのけ起き上がった。嫌そうに二回、大きく深呼吸した後、自然に口の端から舌打ちが漏れている。
――《ウェイク》というのは、対象者の体をカフェイン異常の状態にする魔術であり、かけられた者は動悸の高まりと不安感、それから激しい頭痛と尿意を伴って目を覚まさざるを得ないという恐ろしい効用を持っている。
いくら主人がアレとはいえ、随分と酷い脅しをする給仕だな。などと考えつつ、俺は軽くなった腹をふくふくと膨らませ、再度の眠りにつくことにした。
「あ゛ー……おはよう。サリィ、いい朝だな」
「お早うございます殿下。本日も可愛らしい寝起きでいらっしゃいますね」
「そうだろうそうだろう、ふわわ……」
大きなあくびの後、ガラスコップに注がれたモーニングドリンクを飲み、ブランは小さなため息をつく。
甘い柑橘系の香りがふわっと鼻腔を抜けていった。
「――ふぅ。サリィ。今、何時だ?」
「はい。朝の七時半でございます」
道理で眠いと思ったら、まだそんな時間なのか。
昨日寝たのが大体2時から3時。徹夜に慣れてる俺は平気だが、ボンボンのブランにはさぞ辛かろう。
――ボンボンブラン、語呂良いな。
「……早くないか? 式は何時からだ」
「午後の1時からです」
「全然時間あるじゃないか!!!」
「はい」
「ワタシは昨日の夜とんでもない大仕事をやってのけたんだ。もう少し寝てても良いじゃないか。お前が今更それを知らぬ訳でもあるまいし」
「私の知らぬ所で殿下が何をなさっていたかは、起床の時間を変更する理由にはなりませんから」
グチグチと御託を並べるブランの反論が一瞬で吹雪に流される。
昨夜は彼女が居なかったお蔭で俺が色々と自由にやれた訳だから、ある意味感謝しているのだが、お付きの給仕として自分の留守中に主人が一国滅ぼしてるなんていうのは――
「お前……もしかして怒ってるのか?」
「……YESと言えば、殿下を引っぱたく権利を頂けるのですか?」
「やはり怒っているではないか!!」
さらりと言ってのける給仕の言葉に、ブランの悲鳴がかぶさった。
直後、刺すような視線を感じて、ゾクリと喉元に冷たい汗が垂れる。
「それと、ソコの寝たふりをしている『けだま』。貴方に殿下の寝具になる許可を与えた覚えはございません。今すぐそこから立ち退き名を名乗るか、今夜の夕食になるか選びなさい」
俺のプリチーな姿を指して『毛玉』とは、自虐的に言うのはまだしも他人から言われるのは、やはり腹が立つ。
なかなか開かない瞼を短いおててでクシクシ掻く俺は、いつの間にか側部に回っていた彼女によってクレーンゲームの景品よろしく持ち上げられていた。
頭をつままれているのに気配すら感じさせない怪しさと、体温が下がるほどの寒気に、俺は反射的に目を覚ます。
――一瞬、息をするのを忘れてしまった。
「綺麗だ……」
彼女を見た瞬間、山頂から満天の星空を見上げた時の様に、勝手に口が動いていた。
名画の如く整った高い鼻。
黒目がちで底の深い瞳。
気味悪さすら感じる、薄白い肌。
朝の日差しを吸って凪ぐ、艷やかな銀髪。
どの角度から見てもスッと視線を奪う、頬から顎にかけてのライン。
そして、喉の先。生きた陶器の如くなまめく首筋から、俺の体を飲み込んでしまいそうな程大きな胸が膨らんで。白雪の丘を包む漆黒のメイド服とのコントラストが視覚から冷静さを奪い去る。
服の上から見てもわかる、芸術的な腰のくびれ。身長の半分を占める不可思議なほど長い脚。
――彼女は、俺が世界中で見てきた人間の、誰よりも美しかった。
「なるほど。殿下、夕食はねこ鍋になりましたのでご承知頂けると……」
ぱちん。と、夢から覚まされた気分になる。
「ああ、待て待て。それだけは勘弁だ。見ての通り俺は猫ちゃんだけどぬいぐるみ。毛糸は煮てもしらたきにはならないんだぜ」
「ぬいぐるみは喋りませんが」
「確かに。でも君の前ならポットだって喜んで喋りだすだろうな」
口の端を上げて笑う俺を、彼女は無表情のまま放り投げた。
一周宙を舞い、翼を開いてそこに留まる。
――見たところ年齢は俺とそう変わらないくらいか、少し若い程度。そしておぞましいほどの内に秘めた魔力が自然と彼女の正体を俺に教えてくれる。
俺はちらとブランの方を見て、短い首を縦に振った。
今の俺の名を、自分から彼女に話してしまうのは悪手な気がしたからである。
ブランも恐らくそれを察したのだろう。ややむくれたまま、彼女はそっぽを向いて口を開いた。
「……そこの無礼者の名前は“デュオ”だ。昨日付けで……いや、深夜付けだが、ワタシの執事をやって貰う事にした。今の所信じられないかもしれないが――多分、悪いヤツでは無いし、きっとサリィの助けにもなると思う。“それなりに”仲良くしてやってくれ」
俺の名を聞いた途端、サリィの眼球がぴくりと動いた。
――やはり、彼女にも関係がある人物なのだろう。この“デュオ”というヤツは。
「そういうワケだ。よろしく頼むぜサリィ……いや、『ミス・サントノーレ』」
続いて、俺も右手を差し出す。
何を考えているかわからない鉄仮面で彼女は俺の肉球を握るが、その指先からは若干の警戒心が感じ取られた。
――《サントノーレ》。ブラン・レジナルドの専属メイドにして、第118回アッシュ総合魔術競技会の“実質的な”優勝者。政治的手腕や、軍師の実力も高く評価されており、当然、給仕としての腕も超一流。
立場上公の舞台に立つことは無かったが、諸侯から一目置かれる存在として、裏ではその名を知らぬ者は居ないレジナルド家の要石である。
「お前、やはり知っていたのか」
「この世で知らなくていい事は、昔の恋人の話とパパの年収だけなんだよ」
離された手をヒラヒラ振って、目を見開くブランに答えてみせる。
サリィの方はというと、驚いたというよりは不審がった感じで、ぱっちりとした二重まぶたを凝らしながら俺の顔面を見つめると、すぐに視線を離した。
息をつく間を感じることもなく、彼女はブランに正対し、その艷やかな唇を開く。
「殿下。彼を執事にするという提案に対し、私から異論はございません」
彼女の口から出たのは、あっさりと俺を肯定する言葉だった。
“執事”という非常に重要な、且つ自らの地位を脅かしかねないポジションに別の誰かが就くと聞いて、これほどあっさり了承出来るものなのだろうか。
よほど自分の技量に自身があるか、主人を信頼しているのか……。
「――ですが寝室を共にするというのはいささか問題があるかと」
続く提案も、至極まっとうなものだ。
「ん、それについては同意だな」
「そんな、あの枕気にいってたのに」
「呼んでくれたらいつでも行くさ、俺はお前の執事なんだから。代わりの部屋は用意してくれるんだろう?」
「はい」と短く答えたサリィは、空間に丸い穴を開け、その黒いスペースに片手を突っ込む。
さらっとやっているがコレは第三等級魔術、通称、《ブラックポット》……対になる座標に収納された物を引き出す魔法で、これを魔法陣無しに扱える者はアッシュ広しといえどそうは居ない。
ゆっくりと引き出された彼女の右手に握られていたものは――鋼色に輝く、鉄格子付きのケージであった。
「……なんだ、それは」
嫌な予感を感じつつ、とりあえず尋ねてみる。
「檻ですが」
「そうか」
――続きを、聞きたくないな。
「あなた用ですが」
「人の心を読むな!!」
ああわかってたさ!わかっていたけどなぁ!!
俺は噛みつきたくなる気持ちを抑え、小さく息をつき、うなだれる。
「――ま、仕方がない。こんなケモノ一匹に部屋与える価値は見いだせないだろうし、屋根が有るだけマシと思うよ」
「……随分と素直ですね」
「厨房係にタテついても良い事は無いからな。認めて欲しけりゃ実力で何とかするさ」
そう言って俺は自分から、彼女の持つ狭いケージの中に潜り込むと、背中を鉄の床につけ大きく腹を膨らませた。
カチャリと音を立て扉が閉まり、寝転んだ俺を見つめるブランと、視線が合う。
獄中で見る景色……オーストラリアで密漁団と間違われて警官200人に取り押さえられた時以来か。
「それでは殿下。彼を廊下の端まで連れていきますので、帰ってくるまでには着替えを終わらせておいて下さいませ」
深々と頭を下げ、部屋の扉へと向かうサリィ。
俺を連れ、物音一つ立てず歩く彼女をブランはわざとらしく涙目で見送る。
「うぅ……また朝食の場でな」
「ああ」
どなどなどーなーどーなー↑
お辞儀と共に目線が下がり、木製の扉がきしんで閉まる。
長い廊下を吹き抜ける風が、脱力した俺の毛皮をさらりと撫でた。
◆
「殿下と、仲がおよろしいのですね」
張り詰めた空気を断ち切るように、サリィの冷たい声が耳を震わせる。
硬質な廊下を早足で歩いているのに、両手で持たれた俺のケージは一切揺れている感覚が無い。
「だろう。嫉妬したかい?」
「いえ、私の方が百億倍仲良いので。調子のらないで下さいよけだま」
意地っ張りか!!
檻の天井が遮って見えないはずなのに、漆黒の瞳で威嚇された事を知覚し、心臓を掴まれた気分になる。
あれだ、イヌワシにさらわれるネコ。あんな感じの、完全に捕食関係が出来あがっている雰囲気。
いわゆる針のむしろというやつだ。
「……許して、くれるのか?」
数秒の沈黙の後、間を見計らって口を開いた。
こうやって自分から聞いてしまうことで、少しでも楽になろうと思ったからだ。
「別に。昨晩の件は、殿下が御自分でお決めになった事ですので私に否定する権限はございません」
「俺が彼女をそそのかしたとしても?」
「いずれはこうなっていた事ですから」
ドライな女、というわけではなく、俺に対して内心を語る必要が無いと判断しているのだろう。
サリィの魅力的な声色は出会った時から何一つ変わらず、未だに考えている事がさっぱりわからない。
外を見ようとケージの端へと体を寄せ、格子の間を覗くと、1階から最上階まで続く吹き抜けの空間が、透明な壁の向こうに見えた。
「……目的は、何です」
少し歩いたのち、サリィはケージを顔前に持ち上げ、無表情のまま俺に尋ねた。
純粋な疑問というよりは、一応聞いてみる、に近い便宜的な雰囲気。
友好な関係を築くためにはここで喋れるだけ喋っておいた方が良いのかもしれないが、俺の捻くれた部分がそれを良しとしてくれない。
「決まってるじゃないか。ブラン様を立派な帝にしてさしあげる事さ」
「それで、貴方に何のメリットが有るのです」
「キミみたいな美人と話が出来る……って言ったら?」
「私にそのような台詞を吐いた人で、殿下の役に立った者はこれまで一人としておりませんでした」
「なら、俺が一人目だ。良かったな、今まで変な男に引っかからなくて」
にこりと笑って答えると、サリィの強い眼力がじとっとした目線へと変わった。
空のペンダントがしゃなりと揺れて、薄く紅の塗られた唇の間から小さく息をつく。
――表情に動きは無いが、割と感情は豊かに見えた。
「……では、質問を変えましょう。貴方は“どこから”この城まできたのですか?」
――『屋根から入ろうとしたらおたくの殿下に連れ込まれた』なんていうのは、恐らくわかりきっている事だろう。
多分、聞きたいのは侵入経路では無く、俺の出自、出生の部分。
これさえ分かれば俺のことを多少信用出来る、若しくは排除の選択が出来ると踏んでいるのだろうが……
「さぁな。俺を届けたサンタクロースにでも聞いてくれ」
教えて、あーげない!!
ブランを今まであんな所に閉じ込めてスパルタやってた罰だ。
そもそも執事とメイドなら執事の方が立場上なんだぞ?
今は便宜的に“オトモ”で居てやるが、ポジションが明確になったらしこたま命令してやるからな――なんて。
がらん、とオリごと投げ捨てられた。重たい格子の中で体が二周、旋回し、地面に落ちる寸前で空中に停止。
ゆっくりと地に着いた鉄のケージが一瞬光って地面に固着する。
――この少ない挙動にどんだけマナ使うんだよコイツは!!
気がつくとそこは廊下のカド。空洞になった中心を四角く囲うようにつくられたフロアのうち、ブランの部屋から最も遠い場所だった。
「本来、最上階に部屋を持てるのは帝の御子息及び筆頭使用人のみ。今のブラン様にはご兄弟がいらっしゃらないので一室が物置となっておりますが、そこを使わせられるかは貴方の今後次第とさせて頂きます。今は……先々代がお飼いになられていたペットのカゴがここに置かれていたという事で、同様の扱いをさせて頂きます」
「なるほど……豪勢なペントハウスで結構なことだ。何より風通しが良い」
背後の壁に幾つも爪痕を修正した様子が見えるのも、センスの良いウォールペーパーだと思えば割と住みやすいのかもしれない。
正直な話、ここまでして貰えれば今の自分としては最上級の扱いに近いと、俺は考えていた。
昨日の今日で事件を起こした張本人。家主から気に入られているとはいえ彼女は年齢的にも性格的にもそれほどの権限を持っているとは思えない。むしろ雑事を決定するのはサリィの役目だろう。
本来ならばブランを泣かせてでも今すぐつまみ出すべき危険生物に違いない。
一体、どうして。
「カギはかけたままにさせて頂きますが、朝食は後ほどお運び致します。殿下は一緒にと申しておりましたが、本日一杯は勘弁して頂くつもりです。それでは私はブラン様をお呼びに行かなくてはなりませんので」
「待ってくれ。サリィ」
振り返りなびく銀髪を、呼び止める。
向き直った彼女は、頭の両側から伸びた太い角をこちらに向けるようにして、小さな檻を見下した。
「……“サントノーレ”とお呼び下さい」
「ああ、わかった。サントノーレ。どうして君は俺を――」
そこまで言って、喋りを止めた。
コレを聞いた所で、自分の待遇を悪くするだけだと思ったからだ。
「いや、なんでもない」と俯く俺の目の前に、サントノーレの黒靴が並ぶ。
膝を曲げ、腰をかがめた彼女の両目が、ケージの中にいる俺を見世物みたいに覗き込み――
「“女の勘”です」
――意地悪げに、笑った。
立ち上がり際、ふわ、と舞い上がるスカートの風が、俺の肌を青春の夏凪の如くさわがせる。
全てを見透す、細めた目尻の小さなハリが、脳に焼き付いて離れない。
あまりの驚きと興奮に、俺はその場に立ち尽くし、左胸を手で握ったまま、もうそこにはない残り香を反芻する事しか出来ずにいた。




