報告
グレンの執務室にアズマを残し、退室すると近衛騎士から声を掛けられた。
「アナベル様、お部屋に婚約者様がいらしております」
先程の件で不審に思い、アナベルを訪ねて来たのだろうかと思案したが、態々訪ねて来てくれたのが嬉しくなり、足早に自室へと急ぐ。
扉の前で息を整えるとゆっくりと扉を開けた。部屋の中で所在無さげにソワソワしている亜麻色が目に留まる。それが、なんだか小動物のようで可愛らしい。
「ジル」
そう呼ぶとジルベルトは、あからさまにホッとしたように目尻を下げて優しく微笑んだ。
「アナ」
アナベルは自分だけを写す彼の優しい鳶色の瞳が一番好きだ。
優しい…、優し過ぎるジルベルトは、滅多に怒らない。そんな穏和なジルベルトが、アナベルにとって何よりも大切だ。
そんな何よりも替え難い彼を傷付けたライラが赦せなかった。そんな彼女が逃げた。一瞬、私刑を下す事も考えもした。
「どうしたんだい?」
「はい。先程まで一緒でしたが、会いたくなってしまいまして。来てしまいました」
ジルベルトが、ふわっと柔らかく笑う。アナベルの大輪の薔薇のような艶やかさは無く、一輪の菫の花の様に慎ましい。そんな彼の笑顔が翳ってしまうと思うとライラへの私刑に尻込みしてしまう。
「私も会いたかったよ」
会いたくて、抱き締めたくて…でも、出来なかった日々を思えば、今は幸せだ。例え、罪人が野放しになっているとしても。この時間が愛しく、大切だ。
ライラがもしも、ジルベルトの目の前に現れれば、容赦なく排除する。
「お菓子を持ってきたんです。先程は、食べられなかったでしょう?一緒に食べませんか?」
そう言うと、既に用意されていたお茶を注ぎ、持ってきてくれたクッキーを皿へ取り分けてくれた。
「ふふ、美味しそうだね」
さりげなく、隣へ座るとお茶を一口飲んだ。ジルベルトはニコニコしながら、アナベルの世話を焼き始めた。
「どうですか?」
ジルベルトが持って来てくれたクッキーを一口食べる。サクッとした食感と口の中でホロッと解け、ほんのり甘く、紅茶の香りがした。
「うん。美味しいよ」
「良かったです。これ、僕が焼いたんですよ。アナは、あまり甘いものが得意ではないですからね」
「ジルの手作りかい。では、大事に食べるよ」
そう言うと、ジルベルトは照れ臭そうに笑った。それから、少し遅いティータイムを二人でゆったりと過ごす。
控え目に扉がノックされるので、入室の許可を出すと侍女が入ってきた。
「アナベル様、そろそろ灯りの準備をお願い致します」
侍女にそう言われたので二人が、窓の外を見ると太陽が傾き、夜の帳が下り始めていた。
「では、僕はこれで帰りますね」
「泊まって行っても良いよ」
アナベルがそう言うと、ジルベルトが顔を真っ赤にさせて限界まで目を見開いた。
「なななな、どどどどど」
慌てふためきながら吃ってしまうジルベルトに愛し過ぎてアナベルの胸が締め付けられる。なんて、可愛いんだろうと頬が上気するのが、自分でも分かってしまった。
そんな二人が、顔を赤くして見詰め合っているのを無表情で侍女が待機している。侍女の内心は、「なんて初々しいのでしょう」と身悶えているのだが、そんな様子をおくびにも出さない。
「ふふ。冗談だよ」
「……冗談が過ぎますよ。では、僕は帰りますね」
すると、アナベルは目を閉じた。それを見て、何をするのか察したジルベルトがボヒュッと音がしそうな勢いで首まで真っ赤にした。
視線をさ迷わせるジルベルトは、侍女を見た。しかし、彼女は目を合わせてくれない。無表情だ。涙目で意を決して、アナベルの頬に触れるか触れないかのキスをする。
「ん?」
小首を傾げるアナベル。これでは、駄目なのだろうかと、もう一度試す。今度は、しっかりとアナベルの柔かな頬に唇を落とす。
「んん?」
また、小首を傾げるアナベル。ジルベルトも小首をアナベルが傾げている方に倒す。何処かで「ぶほっ」と聞こえたが気のせいだろうか。
「ジル」
「なんですか?」
「別れの挨拶は唇にして欲しいのだけどね」
「唇ですか!?」
それでも目を閉じたままのアナベルに顔が真っ赤なままのジルベルトは、彼女の顎を持ち、目蓋を伏せて、唇へと自分の唇を近付けた瞬間、
「んんっ!!!」
アナベルが、後頭部と腰を手で押さえてジルベルトの唇を奪った。押し退けようとするが、何故か身体強化したアナベルには、敵わなかった。
深く口づけされ、そろそろ酸欠になりそうな頃にやっと解放された。
「…アナ」
「ふふ。ジルベルトの唇は甘いね。ご馳走さま」
ペロリと舌舐めずりしたアナベル。先程まで触れていた柔らかな感触が思い出されて、また赤面するジルベルト。
侍女は、それを無表情で見守る……静かに鼻血を垂らしながら。
「…!今度こそ、帰ります!!」
「またね」
ふらつく背中が見えなくなるまで見守り、部屋へと戻った。
すると、部屋の中に榛色の瞳と長い茶色の髪をポニーテールにした少女が立っていた。
「やあ、イオリ」
「主様、お久し振りです」
「そうだね。で、どんな具合だい?」
「はい、彼奴は隣国に入国し、近くの村で暮らし始めました」
実は、ライラには監視としてアナベルの私兵が張り付いている。それの定期報告の為、彼女は戻ってきたのだ。
「それだけかい?」
「いえ、『天からの御遣い』と名乗り、村に来た兵士と町へ同行しました」
「予想通りの動きだね」
「はっ」
「ところで、報告なら念話で良いんだよ?」
「主様の麗しい御顔が見たかったので」
「…一人にされる彼が、不憫だね」
何故か、イオリはアナベルの事を異常なほどに敬愛していた。任務で各国を飛び交っているが、少しでも時間を見つけては、アナベルの顔を見に来る。
「何かあれば、念話で良いからね。引き続き宜しくね」
「御意!それと、これが報告書です」
恭しく報告書をアナベルに渡すと一歩下がり、アナベルが報告書に目を落とし、視線を元に戻すとイオリは消えていた。
アナベルは、疲れたようにソファに体を沈み込ませると、天井をぼんやり見てから先程イオリから渡された報告書に目を通す。そこには、キッチリとした文字でライラの行動が書き込まれていた。
「彼らしいね」
晩餐までの間に事細かく書かれていた報告書を侍女が呼びに来るまで読んでいた。その日は、お風呂に入った後は、細々とした雑務を熟して就寝した。
読んでいただき、ありがとうございます。
アナベルが積極的です。