私の知らない精神病院の世界は鉄格子の中だった。
ここは何処だ? 体が動かない。それに何でこんなに臭いのだ。意識がモウロウとしている。頭の中で、記憶をたどった。何処かに運ばれてきたみたいだと思い出した。段々、意識がハッキリしてきた。ゆっくりと体を起こして周りを見て驚いた。
鉄格子の中だった。明かりがついている。でも、何でこんな所に......。
ドアは鍵がかかっていて開かない。段々怖くなってきた。思いきり叫びながらドアを叩いた。
「出してー。ここから出してー。誰かいないのー?」
今は何時なの? 太刀川ゆり子は時間が気になり、どうしたらここから出られるのか考えていた。もう、朝になるよね。夜中、麻酔を打たれてたくさん眠ったのだから。
ゆり子は暴れたのだった。暴れて男三人に押さえつけられ、注射を打たれてここに連れられてきたのだった。
静まり返っているから不気味で大きな声で、
「もとの場所に戻して! 誰かいないの? 私は何も悪いことをしていないのに、どうして閉じ込めるの? だーれーかー、いーなーいーのー!」
出せる声を思いきり出した。
すると、ドアの小さな除き見る所から女の人の顔が見えた。
必死で声をかけた。
「ここから出して! ここはどこなの? どうして刑務所みたいな所に閉じ込めるの? ねえ、今は何時なの?」
「二時四十五分よ。静かにしなさい。隣の人達も寝ているのだから」
と静かにいうと何処かに行こうとした。
「待って私は何時までここにいればいいの?」
女性は綺麗な人で二十代後半の事務をしているような人だった。余計訳が分からなくなった。どうして夜中に事務の人がいるのか......。
この病棟はどういう仕組みになっているのか分からない。
ゆり子は、側にある便器の臭いを気にしながら、ベッドにドサッと倒れるようにして眠った。まだ、麻酔の効果が効いていた。
突然夢の中から引き戻される男性の大声が聞こえた。
「さあ、朝だよ。起きた、おきた、皆起きろー」
男の声で夢の内容は忘れた。ゆり子は顔に手をやりヨダレの後が残っていたのに気がついて手で拭き取った。
こんなに早く起きたことがなかったから、眠くて横になっていた。
心地よい眠りから覚めたときには食事の時間になった。ドアの食器入れの所からいきなりご飯大盛りなのでビックリした。ご飯を起きたばかりで食べる気にはなれず殆ど食べなかった。
看護師が来て、蒸しタオルを渡され、
「これで顔を拭きなさい!」
と言われて言われた通りにした。
歯ブラシとコップを渡され歯を急いで磨き、汚い便器に吐き出した。
何をするにも鉄格子のなかでここから出ることはできなかった。
すると、左隣から女の人の声がした。看護師さんに、
「お茶ちょーだい」
と何回も軽い声でいう年配の女性の声。
男性の看護師さんが時々通る。ゆり子は、おしっこがしたくてしかたがなく、人に見られるのが恥ずかしくて我慢していた。
この狭いところは変わった作りになっていて、前は鉄格子で看護師さんが歯磨きや顔を拭くタオルを出し入れしたりするところで、後ろは食事をいれる大きなドアがあって、その厚みのあるドアはここから出ることが決まったときにだけ使う、今はしっかり鍵がかかっていた。
看護師さんが通ったので話しかけた。
「すいませーん」
「なあに、お腹空いたの? あと少しでお昼だから」
「あの、トイレ恥ずかしくて見られるんじゃないかと思って、ガラスで外の建物に丸見えだから」
「大丈夫よ、気にしないでしなさい」
と言って何処かに行ってしまった。
ゆり子は我慢ができなくなって、男性の看護師が通らないことを願っていた。大の方じゃなかったから良かったが、大がしたくなったらと考え食事を減らすことにした。
なにもすることがなかった。悲しい気持ちと不安な気持ちで落ち着かない。
昨日、この精神病院に入院したばかりで、ここの暮らしの事を殆ど家族から聞いていなく、殆ど強制的に入院することになって今、ここにいる。
軽い気持ちだった。父親から薬が体になれたらいつでも退院できると言われていたし、この病院は夜も悩みを聞いてくれる、何でも相談できる、担当の医師も優しいと聞いていたのに......。
突然、昨日の事務みたいな服を着た女性が現れた。私に紙切れを渡してきた。受けとると女の人はいなくなった。
紙には、隔離された理由が詳しくかかれていた。何度も読み返した。隔離されるには、ゆり子ののように暴れたり、自殺をしそうになったり、医師が判断して隔離しなければならない状態になったときなどと書き記してあった。
ゆり子は一人に慣れていて横になって妄想などをしていれば、鉄格子のなかにいても苦痛は感じなかった。
それでも、夜の時計のない暮らしは耐えられない。夜型の生活に慣れ過ぎてしまった。
横になっていると、看護師さんが来て、
「寝てばかりいては駄目、昼間は起きていなさい」
と言ってきた。
「なにもやることがないのだから、ねえ、本よみたい!」
と無理だと思ったが聞いてみると、
「荷物こっちに預かっているんだけれど、荷物のなかに読みたい本が入っていれば持ってくるけれど」
と以外な言葉が帰ってきた。
「お願いします」
と頼んだ。看護師は、何でもいいのか聞いてから、いなくなった。ゆり子は、ラッキーだと思った。本さえあればいい。
お昼になると、食事がドアのしたの入り口から入れられた。思っていたよりも豪華だった。菓子パンが三個に、ビーフシチューと、コーヒー牛乳と、イチゴで全部食べずに、菓子パンだけ食べずにおなかがすいたら食べる事にした。後で、知ったことだが一週間に一度、豪華な食事が出ることになっていて今日の昼がその日だった。
パンをとっておいたけれど、三時になって、カップ麺がおやつとして出され、まるで自分が豚になって飼育されているような気持ちになった。
夜になると、看護師さんが、
「寝るときに明かりをつけといてあげるからね」
と言ってくれた。そして時間は過ぎ、本当に夜になって食事の時間が終わると、歯を磨かないことに私は不満を持った。その事に不満を持ったのは私だけではなかった。隣の若い女の子とその母親らしき人が怒って文句を言っている声が聞こえてきたけれど、隔離されているのに親子で一つの部屋なのか疑問に思った。
薬を飲んで、眠剤も飲んだあと、眠気が襲ってきてすぐに眠ってしまった。
夜中に目が覚めた。急に寂しくなった。家族の顔を思い出した。なぜかもう家には戻れないような気がしてきた。
ゆり子は、二十歳になっていた。過去の出来事が自分の病気の発病になっている事を思い出していた。幼少期の頃から父親の虐待と中学校からの五年間の酷いいじめ。家族に迷惑だけはかけたくなくて必死にいじめのことは隠していた。いじめられていたことを知られることが恥ずかしかったのかもしれない。幼稚な顔と声がコンプレックスで失語症になったのは、いじめを受けるようになる前のことだ。いじめを受けるようになって苦しいときに、神に祈った。もう二度となおらない病気になってほしいと。祈りは神に届いた。発作が起きて幻覚が見えるようになった。そのときから、私は幻覚に悩まされた。高校の先生と母親に連れられ精神病院にかかった。そのあと、高校を中退した。過去の事を思いだし涙が出たが、今は失語症は治っている。
入院した事を後悔しはじめていたとき、音楽が流れてきた。
怖い。幻聴かと思っていた。子供の時に聞いた誰でも知っているクラシックの音楽だった。
不気味で歪んでいて気持ちが悪い。布団をかぶって震えていた。おどろおどろしい曲だ。
閉じ込められていて、どうしてこんな怖い曲を流すのかわからないから怖かった。叫びたいのを隣の患者がいるから大声を出すのを控えた。幻聴なのか現実に0時になると流される曲なのかわからなかったが、しばらくすると聴こえなくなったので、ここは自分が住んでいた、冷たい部屋を目を閉じて浮かべているうちに眠りにつくことができた。
夢など見なかった。朝になると昨日と同じことが始まる。男性の看護師に起こされ、朝食を食べて歯を磨き顔をタオルで拭く。なにもしないで一日が終わるのを待つ。何時までこんな毎日が続くのかゆり子には分からなかった。