五十六話 越後の龍の正体なんです
信忠が去った後の塩津浜の戦場―――。
もはや勝敗の行方は誰が見ても明白であり、織田軍の壊滅はまもなくであった。
無事に総大将である信忠を逃がすことに成功して憂いを断った織田軍は、丹羽長秀の指揮で最期の抵抗をしていた。
上杉軍は残り僅かな織田軍を圧倒すべく、白頭巾の将が中心となり、柿崎隊・斎藤隊といった名だたる将が大攻勢に出る。
両軍がぶつかりあう中、戦場を大きく迂回し進む10騎ほどの騎馬部隊がひとつあったことに、上杉軍の将達は気が付いていなかった。
◇◇◇
「信忠様は、無事に逃げ果せただろうな」
そう呟き、槍を力強く振り下ろす。
敵兵の血に濡れた朱槍が風を凪ぎ、上杉兵の陣笠ごと頭を叩き割る。
長秀は織田家家臣の中では行政や軍事を支える内政部門での活躍で知られている将であるが、意外にも腕っぷしも強く、時には「鬼五郎左」なんて呼ばれることもあった。
そんな鬼五郎左の鎧は泥に汚れ、額を流れる汗には血が混じっている。その血は決して返り血だけではない。
上杉軍の「車懸かり」を真正面から受け止め続け、今この瞬間まで耐え続けてきた長秀たちは、既に満身創痍であった。
「壮絶な、人生であったわ」
槍についた血を払い飛ばし、長秀は苦笑する。
信長に仕えて二十年。信長の最も信頼する家臣として、時には友として、決して華々しいとは言えなくも主君を傍らで支え続けてきた長秀は、不思議と満足な気分であった。
「一益、氏郷、長可。これからの織田家を支えるのは、あの子らのような輝かしい若者であろうな……」
疲れで震える足を休ませる間もなく、続々と押し寄せる上杉兵をなぎ倒す。
「儂は一生『米五郎左』だ。それ以上でもそれ以下でもある必要がない。……だが、最期に一華咲かせてみせたいものだな」
長秀はもう一度、固く得物を握りしめる。それが正真正銘、最期の攻撃を仕掛ける覚悟を決めた、決意の瞬間であった。
長秀は槍を高々と掲げ、僅かになった家臣へ呼びかける。
「まだ足の動かせる者は我に続け! 上杉謙信へ、最後に一矢報いてやろうではないか!」
驚きの表情を一瞬見せた家臣達であったが、その思いはすぐに決意と覚悟へと変わる。
武士として、玉砕の覚悟を決めた主君と共にする運命を拒んだ者は、一人も居なかったという。
「佐治よ、後は託したぞ……。丹羽隊、突撃だ!」
既にこの場には居ないもう一人の将に全てを託し、丹羽隊は突撃した。
上杉軍の中枢の核を担っていた、あの白頭巾の将へ一矢報いるべく、渾身の特攻であった。
◇◇◇
最後の突撃を仕掛ける丹羽隊の中に、久助子飼いの忍衆である「夜鷹隊」の者が一人混ざっていた。
夜鷹隊には大きく分けて四つの人間がいる。一つは新助・ミケといった、久助から最大限の信頼を置かれ、その実力も一線を画する隊長クラスの者。一つは隊長格には及ばないものの、幼くから滝川家によって忍の英才教育を受け育ってきた精鋭衆。一つは実力が低く、主に簡易な偵察や情報伝達を任される下忍衆、そして最後に、ミケや新助らによってスカウトされてきた、外様衆である。
新助の命によって丹羽長秀に付けられた彼は外様衆の一人であり、元は新助の配下であった。
何故彼だけが新助の元を離れて、一般兵に混ざって長秀に付き従っているのか。
それは、彼が元・上杉軍の忍であったからである。
実は夜鷹隊の外様衆のほとんどはミケが連れてきた人員であり、そんな彼らは、元々ミケの同僚……即ち、加藤段蔵の配下であったり弟子であった、越後・甲斐の忍ばかりである。
彼も元は加藤段蔵の配下の一人であり、ミケの部下であった。
余談であるが、ミケは彼女が自称するとおり加藤段蔵の一番弟子であった。そのため段蔵の配下だった者は、基本的に序列が上であるミケの部下でもある。実力が全ての忍の世界では序列が絶対であり、彼らはミケに頭が上がらなかったりする。
女性でありながら忍衆の頂点に君臨しているミケは、アレでいて実は意外とすごいのだ。
さて、話を戻そう。
彼はミケにスカウトされて滝川家に来る前、上杉家で雇われの忍として生きていた。
そんな彼は、塩津浜の織田陣営内で唯一、上杉家の内部事情に明るい人物であったのだ。
故に、彼は一つの違和感を感じていた。
他の織田の将兵では決して気づくことすら出来ないだろう。なぜなら知らないのだから。
だが、彼だけは知っていた。その男の正体を。
彼はそれを新助に伝える。すると新助は僅かに口を釣り上げて笑い、彼にこう言った。
「お前は丹羽殿に伝え、奴の正体を看破せよ。そしてそれを信忠様と久助様に伝えるのだ」
「はっ! では、佐治様は……」
「ああ、俺は―――、龍の首をあげてくるとしようか」
◇◇◇
「かかれぇ!! 奴の首を冥土への手土産とするのだ!」
怒涛の勢いで上杉軍の前線を突破し、中枢へと迫る長秀。
はじめに白頭巾の将の正体についての報告を受けた時、なんの冗談かと彼は思った。
「上杉の毘沙門天」といえば、上杉謙信以外の人物を想像する者が居るだろうか。
それだけ、あの白頭巾に頭部を包んだ独特の風貌は多くの人間が知るところであり、もはや疑いようのないことであったのだ。
だが、あの白頭巾が上杉謙信では無いことに、疑わしきが無いことも無かった。
第一に武田の存在だ。
上杉と武田はどちらも反織田勢として織田に攻め込んでいる最中であるが、その両者は互いに同盟を結んでいるわけでも、同盟関係であるわけでもない。
武田という最大の脅威がいるにも関わらず、柿崎・斎藤・直江といった重鎮だけでなく、謙信本人までもが国をガラ空きにして出て来ることなどあるだろうか。
それに、仮に謙信が軍を率いているとしよう。
戦力でも地の利でも圧倒している上杉軍にとって、織田軍を叩くのに態々総大将自らが態々渦中に立つ必要があるのだろうか。
勿論総大将が自ら戦場に立つことによって味方の士気は格段に上がるが、それを考えても身を晒す危険とは釣り合わない。
そして、長秀は聞いたことがあった。
かつて川中島の戦いで、上杉軍の殿を努めた一人の将のことを。
その将は見事な指揮ぶりから「謙信本人が殿軍を努めていたのでは」と勘違いさせるほどであったという逸話を。
だから長秀は信じたのだ。白頭巾が上杉謙信ではない可能性を。
そして新助が「本物の上杉謙信を討つ」ための策を。
「その首ッ……貰ったぁ!!」
白頭巾を目掛けて強引に突撃する丹羽隊。そして遂に、織田軍の槍がその将に襲いかかる。
白頭巾の将はそれを躱すも、槍は頭巾を掠め、顔の大部分を隠していた頭巾はハラリと地に落ちた。
「やはり……予想は間違っていなかった!」
夜鷹隊の男は呟いた。顕になったその顔は、上杉家中では下っ端であった彼でも知る、侍大将の顔。
「甘粕、甘粕近江守景持ッ!!」
◇◇◇
それとほぼ同刻である。
佐治新介は駆けていた。戦場を丹羽殿に託し、夜鷹隊の部下の中でも特に戦闘に長けた、精鋭衆を数騎のみ従えて。
最も厳しい役回りを丹羽殿に託してしまったが、彼は「若者は自由に駆けよ」と言って、美味しいところを笑いながら自分に譲ってくれた。
丹羽殿には感謝しかない。こうして、久助様からの策を成す最後の機会を生み出すことが出来たのだから。
「(久助様は言った。『例え味方が1万死に、敵は1人しか死ななかったとしても、その一人が総大将であれば、それは即ち我らの勝ちである』と)」
戦場を大きく迂回し、遂に辿り着いた。眼前に見えるは上杉軍の本陣。
「(要は大将首を取れば我らの勝ちである。そして主力が丹羽殿に釘付けである今が、奇襲を仕掛けるのには最大の好機であると!!)」
味方の数は僅かであっても、暗器を扱い忍の術で戦う忍衆の戦闘部隊は対人戦闘のプロである。懐に入り込んでさえしまえば可能性は十分にありえる。そう新助は考えていた。
「(逝くぞ、例え相討ちとなろうとも、必ずや龍を地に落とすのだ!)」
新助たちは一気に上杉軍本陣へと突撃する。
それに気付いた上杉兵たちは新介達を止めようとするが、その程度の防衛に妨害される新助たちではない。
柵を突き破り、敵兵を蹴散らし、奥へ奥へと切り込む。そして遂に、遂にその手は本陣の最奥へと届いた。
「我こそは織田軍が将・佐治新介! 上杉謙信よ、覚悟ォ!!」
陣幕を騎馬ごと突っ込んで突き破り、遂に上杉謙信と対峙する新助。
だが、総大将であることを示す畳床机に座って彼らを待ち受けていた人物は……。
「きゃぁっ!? て、敵襲!?」
「……はっ?」
余りに想定外の光景に、新介たち侵入者は言葉を失った。
それは武具に身を包んだ、靡く黒髪が美しい少女であった―――。
1570年、秋。
塩津浜の上杉軍を指揮していた白頭巾の将の正体は、上杉謙信ではなく甘粕景持という武将であった。
そして本物の謙信が待ち受けるはずの本陣にも謙信の姿は無く、そこに居たのは一人の美少女だったのです。
新助「どういうことなの……?」
意外! それは謙信さんではなく、謙信ちゃんであったのだ!
……一応言っておきますが、彼女は上杉謙信ではありません。詳しくは次回に。




