三十六話 予想外の転進なんです
新しい「金ヶ崎の戦い」が幕を開ける……。ハズであったのだ。
◇◇◇
織田信忠・滝川一益が率いる織田家援軍部隊は、浅井領である近江を北に向かい進軍を進めていた。
浅井家の裏切りの可能性がほぼ確実と判断したあの後。大垣城を出立した我々は、あたかも浅井家の背信に気付いていないような素振りで、悠々と小谷城脇を通過した。
その際に浅井方の反応はこれといって無く、浅井家としてはあくまでも朝倉家と挟撃できる最高のタイミングを狙っているようであると考えられた。
信忠軍は、様々な罠を仕掛けながら更に北上を続けた。このまま浅井が動かないならそれでよい。もし動くのであれば、後ろから強襲してくる浅井家を迎え撃つためだ。
ミケを筆頭とした忍衆・夜鷹隊による浅井家と朝倉家の動向の観察を行いながら、慎重に進軍を続けていた。
そして北近江を抜けて越前に差し掛かり、もう数日で織田軍本隊が待つ金ヶ崎城に到達しようかという頃、遂に浅井家が動いたとの報告があった。
浅井は織田との同盟よりも朝倉との同盟を取り、織田家との敵対を宣言。それと同時におよそ一万の軍勢で小谷城を出陣し、織田家を挟撃するため信忠軍を追うように北を目指して進軍を開始しようという状態らしい。
この流れは久助の予想通り……というか史実通りであり、信忠軍のまさに術中、思う壺であった。
信忠軍は直ちに転進し賤ケ岳付近に布陣。信忠軍の虚を突いたと思い込んでいるだろう浅井軍を万全の構えで向かい打つ。それが信忠の策であった。
まるで三方原の戦いで徳川軍を迎え撃つ武田軍のように。信忠軍は飛んで火に居る夏の虫を待ち受けるのであった……。
だが、事態は信忠軍の予想外の動きを見せたのだった。
◇◇◇
「はぁ!? 撤退!?」
「そうですにゃ。我が軍が布陣後、浅井家は予想通り北上を開始しました。ですが、我が軍に到達する前に突如引き返してしまいました。私にも何が起きたのかさっぱりですにゃ……」
ミケの報告を受けた俺は、思わず驚愕の声を上げてしまった。
近江・小谷城と越前・金ヶ崎城を結ぶ道中、賤ケ岳の付近で浅井軍を今か今かと待ち受けていた俺は、浅井軍の余りに予想外の転進に肩透かしを喰らった。
「どういうことだ……? 我が軍の待ち伏せを察知されたのか、それとも何か敵軍内部で不測の事態が起きたのか……。」
まず考えられるのは、敵方が何らかの方法で信忠軍の待ち伏せを察知し、それを警戒して引いたという説。
待ち伏せされているのがわかっているのであれば、態々そこに突っ込んでいくことなどしないであろう。お互いに様子見する状況になれば遠征軍であるこちらが次第に不利になってしまうため、余り良くない状況であると言えるだろう。
敵軍の斥候は夜鷹隊に狩らせていたために自軍の情報は漏れてないと思っていたのだが……。
次に考えられるのは、敵方の軍内部で何かしらの不測の事態が起き、戦争どころではなくなってしまったということ。
織田軍と戦うのが困難になり、軍をぶつける前から撤退してしまったということだ。
ただ、ミケはそれらしい噂は聞かなかったという。
結局、浅井家が転進した理由は恐らく前者だと思うのだが、確信を持てるだけの情報は得られなかったのだ。
「信長様の本隊と連携は取れているか?」
「はいですにゃ。信長様の本隊にも浅井裏切りの報は予め伝えておきました。金ヶ崎城を放棄し、既に京へ向けて撤退を開始しています。
対して朝倉家は積極的に織田軍を追撃する様子は見られず、我が軍を挟撃に来る可能性は低いかと思われますにゃ。一応、監視と罠の仕掛けは継続していますにゃ」
流石の神速で知られる信長様。攻め落とした金ヶ崎城を早々に放棄し、既に撤退を開始しているようだ。
そしてそれを追撃するはずの朝倉軍の動きも、どうやら芳しくはないらしい。
「浅井も朝倉も動きが鈍いということは……互いの連携が上手くいっていないのかもしれぬな」
と、信忠が言う。
浅井軍の裏切りを事前に察知していた信忠軍が割り込んだせいで、浅井も朝倉も思うように動けなくなった結果がこの有様……ということも考えられる。
「何にしても、浅井の動向が読めない以上は無暗に動くべきではないと思うぞ」
「というか、それしか無いな……」
信忠の提案に、俺はガックリとうなだれてそれを肯定する。
信長様の本隊が撤退し、それを朝倉軍が追っていない以上、北進する理由がなくなった。そうなれば浅井の動きを見てから判断するしかないのだ。
「ミケ、夜鷹隊は引き続き諜報を頼む。各将はこのまま浅井軍への警戒を続けよ」
信忠は味方に指示を出し、俺達はそれに頷いた。
ここから始まるのは、浅井軍との腹の探り合いである……ハズであったのだが。
◇◇◇
「……どうしてこうなったッ!」
思わず俺は声を荒げてしまった。
現在、俺達信忠軍はどうしているかというと、『浅井軍が籠る小谷城を包囲している』のだ。
どうしてこうなったのか……。俺達にそれが真意がわかる者はいないだろう。
あの時、突如転進した浅井軍。信忠軍の待ち伏せを察知して後退し、陣を敷きなおすのかと我々は考えていたのだが、なんと浅井軍はそのまま小谷城まで帰ってしまい、城に籠城してしまったのだ。
信忠軍の退路を塞ぐのなら籠城は勿論下策だ。逃げる軍に対し、城に籠っても足止めになりやしないのだから。
つまりのところ……
浅井軍は意気揚々と謀反を宣言したのはいいものの、朝倉と上手く連携を取ることが出来なかった。自軍は信忠軍が邪魔で信長を追撃出来ず、頼みの朝倉軍も信長に簡単に逃げられてしまった。
結果どうすることも出来ずに、浅井家は織田の報復を恐れ、早々に攻撃を諦めて城に籠ってしまった。恐らく、まとめるならばこんなところだろう……。
「とんだ腰抜け集団だな!」
氏郷がケラケラと笑って言う。ストレートな貶しっぷりに、俺も信忠も思わず苦笑い。
だが、こちらの軍も小谷城を攻略できるほどの戦力は無い。攻城戦とは数倍の戦力がないと厳しいものだ。
なのでお互いにどうにもできない泥沼状態。互いに攻めように攻められない堂々巡りであった。
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数日間の睨み合いを続けた後、信忠軍は包囲を解き、岐阜に帰還した。
その際の浅井軍の追撃も細やかなもので、本当に最後まで何がしたかったのかよくわからない浅井軍であった。
こうしてかの有名な金ヶ崎撤退戦は、織田軍本隊も信忠軍の援軍も、ロクに戦闘をせず無事に帰還を果たすという、なんとも拍子抜けな結果に終わった。
浅井家と朝倉家の不思議な動向の真意、そしてその背後に渦巻く陰謀に気が付かないまま、久助達は次の戦いに臨むことになるのであった……。
1570年、春。
なんとも不完全燃焼な形で金ヶ崎撤退戦を無事に終えた織田軍。
そして次なる戦いは、態勢を立て直した織田軍の逆襲--姉川の戦いが、久助達を待ち受けるのです。
浅井・朝倉の真意とは一体……。
金ヶ崎撤退戦での激しい戦闘を期待していた方はスミマセン。
次回から姉川の戦い編です。




