第七幕 ヴェノムの長い一日
針葉樹ばかりが密生し、豊かとは言い難い北方の森。
そこでは、冬は死の季節であった。
深雪が森を覆う、一面の銀世界。
生きる者の営みを拒む冬の森の静寂は、凄絶な美しさを醸し出していた。
さながら、白帷子をそろってまとった葬列者が辺り一面を埋め尽くしているかのようだ。
膝まで埋もれるほどに降り積もった白い雪。
さらなる吹雪が無慈悲に視界を塗りつぶし、全身に降り注ぐ。
白はデミルにとって、飢えと極寒の象徴だった。
草の葉を継ぎ合わせた、衣服とも呼べないぼろきれをまとった、餓死寸前までやせ衰えた少年。
牙も爪もなく、凍えを防ぐ体毛もない。
森の中にあって、ヒトの仔は哀れな裸の猿だった。
歯の音は合わず、痙攣のような震えを止められない。
安全で暖かな洞窟は獣に奪われ、冬の森に独り投げだされた。
死と絶望の影だけが、少年に寄りそう唯一の道連れだった。
これが夢であることを、デミルは意識のどこかで分かっていた。
幼き頃の自分。
とうに忘れ去ったはずの記憶、情景。
だが、身体に刻まれた飢えと寒さへの恐怖が、夢をリアルなものへと変えていた。
強い焦燥と恐怖に駆られる。
だが、手足を動かすことはおろか、声を上げることもかなわない。
自分の身体の感覚がない。
とうに凍てついてしまったかのようだ。
夢特有のもどかしさを感じながら、デミルは白く塗りつぶされる視界の中、ただ立ち尽くしていた。
さらなる絶望が彼を襲う。
雪の白さに紛れるように、狼の群れが少年に忍び寄っていた。
過酷な冬に飢えているのは狼も同じだ。
無防備な獲物の姿に、双眸が凶悪に光る。
狼は狩りの際に吠え声をあげることはない。
静かに獲物を見つめ、少しずつ包囲の輪を縮めてゆく。
音もなく雪上を滑る様は、熟練の暗殺者のようであった。
デミルが狼の存在に気づいた時には全てが遅かった。
完璧な連携で狼の群れは包囲の輪を完成させていた。
たとえ俊足の草食動物であったとしても、どうしようもない距離だ。
ましてや、ヒトの子が逃げおおせる術はなかった。
少年の顔に浮かんだのは、絶望というよりも諦念だった。
もうこれで寒さに打ち震えずに済む。
そんな安堵すら感じられた。
死はもはや恐怖ではなく、憧憬の対象だった。
―――ああ、ようやくこれで全部終わりだ。
その一方、そんな自分に無性に苛立つ心もあった。
自分はまだ、何も目的を果たしていない。
まだやり遂げなければならないことがあったはずだ。
こんな風にぬけぬけと死んではならないはずだ。
―――くそったれ。てめえは獣の仔だろうが。噛みつき返すくらいしてみせて、しがみついてでも生き延びやがれ。
諦念に塗りつぶされた心を、残る一かけらの意識がののしる。
だが、目的とは。
やり遂げるべきこと、とは。
それがどうしても思い出せなかった。
ただ、何かしなければならなかったはずだ、という焦燥が喉奥に引っかかった小骨のごとく、デミルの心にわだかまり続けた。
とうとう、狼の一頭が少年にとびかかる。
だが、宙に浮かんだその身体が、直後、真横に吹き飛ばされた!
巨大な影に吹き飛ばされて。
影はとびかかろうとした狼に体当たりすると、少年と狼達の間に割って入った。
その背を、デミルは呆然と見つめた。
少しずつ、思考が追いつき、その正体を認識しはじめる。
新たな闖入者―――それもまた、狼であった。
だが、群れなしデミルに襲いかかった群れの狼とは別格―――いや、別次元の存在だった。
群れのリーダー格の狼より二回り以上も大きな巨体。
雪よりもなお清冽で眩い、銀の体毛。
剣士の握る刃の如き牙。
金色の双眸には深い知性が感じられた。
―――神獣。
そう呼ぶにふさわしい姿だった。
対峙する生物全てに、畏怖と崇敬を感じさせずにはいられない神々しき存在。
その存在に引き比べてしまうと、群れの狼など成獣と赤子以上の開きが感じられた。
―――ウォォォン。
巨狼は聞くく者の肌がびりびりと痺れるような吠え声を上げた。
圧倒的な迫力だったが、その響きは脅す、というよりも母親が幼子をたしなめるような、優しげな響きを持っていた。
狼達はそろって耳と尻尾を丸め、頭を垂れた。
リーダー格の狼がわずかに逡巡するような素振りを見せたが、やがて諦めたようにきびすを返す。
それにならい、狼の群れはデミルという獲物を残し、ぞろぞろと散開していった。
後に残るは、神々しき巨狼と、その背後で目を丸くしている少年だけだった。
巨狼はのそり、とデミルを振り向いた。
気のせいか、その双眸が細まり、口角がわずかに上がったようにデミルには見えた。
まるで、「もう安心だ」とうなずきかけるかのように。
その瞬間、少年の極限まで張りつめていた緊張の糸が、ぷつりと切れた
ぐらり、と頭が揺れ、うつぶせに倒れる。
だが、地面に伏す寸前、巨狼が少年のまとうぼろ布をくわえる。
そのまま、ひょい、と自分の背にのせる。
極上の羽毛布団に横たわるような温かさと、母の腕に抱かれるような安堵感に包まれながら、少年はゆっくりと脱力していく。
それと同時、デミルは自身の状況に困惑を感じる。
―――なんなんだ、この光景は。
デミルは、巨狼のことなど、何一つ覚えていなかった。
この夢は現実の記憶なのか。
それとも、ただの空想なのか。
戸惑いながらも、デミルの意識はゆっくりと薄れていく。
夢はいまだ覚めなかった。
その場面は移り変わる。
樹齢百年の大樹よりも分厚い城壁。
五、六階建てなど珍しくもない、巨人の手で積み上げられたような建築群。
そして、通りを埋め尽くす、蟻の行列のような人、人、人……。
いまとなっては見慣れた光景である。
だが、初めてヴェノム・シティを目にした衝撃を、デミルははっきりと覚えていた。
獣同然に森の中で生きたのち、荒野の盗賊に育てられたデミルにとって、それは異次元の眺めだった。
数えきれないほどのヒトが一つの場所に密集して暮らす、というのがデミルには理解しがたい現象であった。
それまでがデミルが目にした人間は、盗賊団一味とたまに街道を通りかかる行商人くらいだった。
先ほどの場面よりも少年は成長し、そして人間らしさを身につけていた。
ただ、野盗に育てられたためか、その物腰は粗野で、瞳は狂暴な輝きを宿していた。
その彼も、ヴェノムの威容にはただただ圧倒されるばかりだった。
いや、デミルだけではない。
荒野にたむろする野盗達は皆、初めて目にする大都会の姿に、そろってぽかんと口を開けていた。
ただ一人、一味の頭領たるドゥルガンだけが、野心に燃える目で人の渦を睨みつけていた。
彼は一同を振り返り、凄みのある笑みを浮かべた。
「ぼけっとしてんじゃねえぞ、てめえら。これから俺達はあの街でのしあがっていく。
あそこに腐るほど群がってる奴ら全員がカモだ、いいな」
「……お、おう」
ドゥルガンの飛ばした檄に、やや気押されながらも一味は応えた。
いざ、ヴェノムへ侵入しよう、というその時だった。
突如として、巨大な建築群が爆ぜた。
都市のあちこちで火の手があがり、爆発音が連なる。
「え……」
少年が唖然としている間にも、巨大都市は丸ごと業火に包まれていく。
「クククク、カカカ。実ニ素晴らシイ眺めダ」
金属がこすれるような不快な笑声が降ってわいた。
少年が驚き見上げると、ドゥルガンの風貌が一変していた。
かかしの如きやせぎすな長身、鋭いくちばしと縦長な金の瞳の面、ずたぼろの法衣。
鴉男の姿だった。
さらに、周囲の盗賊達も、いつの間にかのっぺりとした白塗りの面に黒衣をまとった魔導師の姿に変わっていた。
彼らはそろって火球を生みだし、ヴェノムの街へと放る。
鴉男は少年の背丈までかがみ、その思考を読みとろうとするように瞳をのぞきこむ。
そして、片手でデミルの頭をつかみ、軽々と持ち上げる。
「やめろ、放せ!」
デミルは必死で抗おうとするも、全身に力が入らない。
「クククク、フハハハハハ!」
鴉男の狂ったような笑声が頭痛を助長する。
激痛に苛まれながら、デミルは意識を失った。
―――夢はいまだ醒めない。
三度、場面は移り変わる。
デミルは真っ白な空間の中にいた。
上下左右も存在せず、手足の感覚もない。
まるで、魂だけが雲の中に迷いこんでしまったかのようだ。
デミルは天国も地獄も信じてはいないが、その情景は死後の世界を思わせた。
―――デミル、デミル。
茫漠と広がる白の空間のどこからか、声が聞こえてきた。
それは、残響がこだまする、不思議な響きだった。
だが、鈴を転がすような澄んだ声音に、デミルは聞き覚えがあった。
忘れようはずもない。
ずっと探し求めていた相手の声なのだから。
「アセナ! アセナなのか」
デミル自身、身体のどこから声を発しているのか分からなかった。
ただ、力いっぱいに叫ぶ。
―――デミル、目覚めたならすぐにヴェノムを出なさい。
デミルの呼びかけに応じず、アセナの声は一方的に言う。
それは強い命令の調子を帯びていた。
ちょうど、デミルが首飾りに手をかけた時、「放しなさい」と命じた時のように。
「聞こえないのか、アセナ。いまお前はどこにいる!?」
―――ヴェノムから去りなさい、デミル。
アセナの声は同じ言葉を繰り返す。
厳かな啓示を告げるかのように。
―――いますぐヴェノムを去らなければ、あなたは大切なものを失うでしょう。
「おい、アセナ、アセナ。こたえろ、アセナ!」
デミルの叫ぶ声は、無限に広がる白い空間に呑まれ、霧散していく……。
―――
自身の叫び声に殴りつけられたように、デミルは目を覚ました。
いつの間にか、寝台からがばりと半身を起こしていた。
動悸が激しく胸を打ち、乱れた呼気にあえぐ。
前髪が寝汗でぐっしょりと額に張りつき、両の手も汗ばんでいた。
「……ちっ」
動悸が収まると、デミルは汗ばんだ上衣を脱ぎ捨て、乱雑に放った。
たくましい半身があらわになる。
布で覆った傷口がいまだなまなましかった。
夢の内容をデミルは克明に覚えていた。
冬の森で巨狼に命を救われたこと。
初めて目にしたヴェノムの威容に圧倒されたこと。
ドゥルガンの姿が鴉男へと姿を変え、襲われたこと。
そして、白い空間の中、アセナの警告を受けたこと。
いますぐ、ヴェノムをたて、と。
いずれもが、とても夢とは思えない生々しい現実感をともなっていた。
もし迷信深い者であれば、この夢の内容を気にして、そのお告げに従うことも考えただろう。
だが、デミルは猛毒の街という現実を生き抜く都市盗賊だ。
夢など歯牙にもかけない。
全身の傷と焦る心が見せた悪夢に違いない、と胸中断じる。
「くそっ」
短く毒づき、デミルはローブをまとう。
―――大切なものを失う。
夢の中、アセナの声はそう告げた。
だが、一匹狼の都市盗賊に、失って惜しいものがあるとは思えなかった。
デミルは急ぎ、アジトを出た。
不覚にもまる一夜眠ってしまったらしい。
東の空には白々と曙光が昇っていた。
―――さあ、どうする。
大通に出たあと、胸中自問する。
ギケルからはまだ何の知らせもない。
一度娼婦街におもむき、アスリから成果を聞くべきか。
それとも、別の手掛かりを探し求めるべきか。
アセナを売っていた高級奴隷市場にもう一度忍び込み、奴隷商から何か情報を吐きださせるか。
いまや廃墟と化したドゥルガン砦跡をもう一度詳しく調べてみるのもいいかもしれない。
思案しながら歩いているうち、デミルは大通りの様子に微かな違和感を覚えた。
―――なんだ。
表通りは早朝であるにも関わらず、人であふれ、ざわめいている。
それ自体はいつものことだ。
だが、全体的に人々の表情が固く、緊張感が漂っているように思えた。
まるで生地の森で、嵐が起こる前の獣達を見ているようだった。
デミルが困惑しているそのわずかの間に、彼に忍び寄る影があった。
その気配から只者ではないと、感じられた。
デミルは反射的に懐に手を忍ばせた。
「いやいや、短刀をお納めください、デミル殿」
妙に明るい、あっけらかんとした声で、その者はデミルにささやいた。
聞く者の警戒心を一瞬でほぐす魔力を秘めた声だった。
デミルはその者を見やる。
糸のように細い目に、福々しく垂れさがったあご。
頭部はきれいに禿げあがった、中年の男だった。
一見すると裕福な商人といった風情で、格好もそれを装っている。
しかし、顔つきに反し、全身の筋肉は引き締まり、立ち居振る舞いに隙がない。
見る者が見れば、相当な力量の武人だと見抜けるだろう。
デミルはその者に見覚えがある気がしたが、誰だったかまでは思い出せない。
「ギケル様の違いで参りました。名前は……そうですな。ハサンとでもお呼びください」
「……キサマか」
男の口上に、デミルはそれが誰だったかを思い出した。
昨日、ギケルと交渉した際、酒場にいた男だ。
デミルに飛び道具の気配だけでおどしをかけた、相当な手練だ。
その時は一瞥しただけだったが、顔つきがずいぶん違う印象だ。
おそらくは、変装を得意としているのだろう。
ハサン、というのもこの街ではもっともありふれた名前の一つだ。
まず間違いなく偽名であろう。
男はデミルの鋭い眼光もそしらぬふうで、軽く頭を下げてみせた。
「通りで立ち話では少々目立ちますな。歩きながら話すとしましょう」
ハサンと名乗った男はそう言うと、デミルの斜め前に位置どり、歩きはじめた。
背中をさらしてみせたのは、敵意がないことの表明だ。
しかし、デミルの気配は背中越しでもしっかり捉えているようで、人混みのなかでも一定の距離を保ち続ける。
「なにか情報が入ったのか」
「はっは。そうきかれるということは、まだご存じないようですな」
二人は目線を合わせず、距離も一定に空けていた。
傍目には会話をしているようには見えないだろう。
「……なにをだ」
「昨夜の話ですよ。あちらさんの方から大きな動きがありましてな」
ハサンは通りの角を曲がった。
適当に通りを流しているのかとデミルは思っていたが、どうやら目的地があるらしい。
「官庁舎、大貴族の屋敷、各盗賊団のアジト、職業組合の本部などなど……、主だったヴェノムの中枢機関に投げ込まれたのですよ」
「……投げこまれた?」
「犯行予告状です」
ハサンは肩越しにデミルを振り返る。
そして、にっと口角を上げてみせた。
とっておきの冗談を言い放つ時のように。
デミルも一瞬、吹きだしたいような衝動に駆られた。
「それはまた、古風なことだな」
「ええ。古式ゆかしい男のロマンというヤツです」
ハサンはがさごそと懐から紙きれをとりだした。
話の流れからすると、それが犯行予告状というものだろう。
どこから入手したのかは分からないが。
だが、デミルは字が読めない。
ハサンが見せようとするのを、手で制す。
「書状にはこうあります。
自分達はオルハン帝国に滅ぼされた魔術師の民、ホクポトク族である、と」
「……ホクポトク? 聞いたことがないな」
「ええ。ギケル様もご存じないということでした。おそらくは、なんらかの理由で歴史の闇に消された民族なのではないか、と」
遠征王ハルク皇帝は領土拡大の戦を繰り返しているが、征服地の施策は寛大なものだ。
一民族を滅ぼすような強硬策は滅多に用いない男だった。
ホクポトクというのは、その数少ない例外だろう。
彼らが、魔術という人智を超えでた力を用いるのが、皇帝の目に不気味にうつったのかもしれない。
というのが、情報屋ギケルの見解だった。
正直、デミルにとってはどうでもいい話だった。
「彼らは予告状でオルハン帝国への復讐を綿々と謳っています。
曰く、猛毒の街ヴェノムは帝国の腐乱と俗悪の象徴である。
住民は罪を犯して恥じず、享楽に耽り、犯罪と暴力に手を染めぬものはない。
まあ、それはその通りでしょうな」
「……つづけろ」
「よって神に選ばれし民であるホクポトク一族が、この街に神罰を下す。
ドゥルガン一味の砦を爆破したのは予告に過ぎない。
ヴェノムの民は自らの血をもって罪を贖うべきである。
と、まあ、ざっとこんなような内容ですな」
「ふん」
デミルの脳裏に今朝の夢がよぎった。
目の前で爆発炎上したヴェノムの街並み。
そして、アセナいますぐここを去れ、という言葉。
だが、デミルはその符丁をすぐにくだらないこと、と打ち消した。
「さて、盗賊のデミル殿ならご存じでしょうが、犯行予告状などというものをわざわざ送りつける理由は、おおざっぱに分けて二つ考えられます。
一つは相手の反応を愉しむ愉快犯の類。
予告状を額面通り受けとるなら、今回はヴェノムの民に悔悟の念を促しているということですが、まあこれも前者に分類してよいでしょう。
そして、もう一つの可能性は―――」
「陽動、か?」
「ご名答」
ハサンが背を向けてもはっきりと分かるように、うなずいた。
「別の目的を遂げるための、いわばカモフラージュですな。その場合、演出は派手なほどいい」
その時、爆音が空気を震わせた。
デミルは目を見開き、音のした方を見やった。
通りにいた群衆の驚きはその比ではなかった。
軽い恐慌を起こし、人の渦が巻く。
「ふむ、はじまったようですな」
ただ一人、ハサンだけは平然とそうつぶやく。