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ヴェノムの盗賊たち  作者: 倉名まさ
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第六幕 手がかりを求めて 後編

 ヴェノムに住むありとある階層の男が、一度は娼館を訪れる。

 表の権力者から貴族層、盗賊団に犯罪者まで、金を持っている限り娼婦たちは客を差別しない。

 身も心も丸裸にされた男達は、しばしば本来誰にも喋ってはならないはずの秘密を、女相手に漏らす。

 そこには、時に情報屋すらも知らない裏話が転がっているのだ。


 問題は、娼婦たちが客との睦言を、容易にはよそ者に話してくれないことだった。

 ある意味、ギケルよりも厄介な相手だ。


 デミルが娼婦街に踏み込むと、辺りの様相が一変する。

 色街は意図的に複雑に入り組んだ構造をしている。

 全体的に、建物同士が連結した長屋のような造りだった。


 あちこちに立つ客寄せの看板が、男達の欲望をかきたてる。

 それらは、派手に彩色され、露骨でひわいな図像を形作っていた。

 香水か、白粉の残り香か、官能的で甘い匂いが空気に漂っている。


 ここは、女たちの支配する魔窟だ。

 昼間であっても、その妖しく気だるげな雰囲気は変わりない。


 デミルは顔見知りを求め、色街の路地を歩く。

 娼婦たちは建物のうちに潜んでいる様子で、人の姿は見えない。


 いや―――、


 音もなく、デミルに滑り寄る影があった。

 しゃら、と鞘から剣を抜く、かすかな音がする。

 デミルは音に気づき、後ろを振り返る。

 その首筋に、ぴたりと白刃が突きつけられた。


「いますぐここから出ていきな、デミル」

「よりによってお前か……」


 デミルはげんなりと嘆息した。

 喉元に刃をあてがわれても、慌てる様子はない。


「……で、これはなんのマネだ、アスリ?」

「とぼけんな!」


 面倒くさげに問うデミルに、アスリと呼ばれた相手は声をあらげた。

 突きつけた刃は、微動だにしない。


「その格好で遊びにきたなんてんじゃないだろ。ゴタをここに持ちこまれるのはごめんだ。

 とっとと出ていけ」


 デミルはいまだ火傷と生傷を放置したままだ。

 たしかに、その姿は娼婦街では異様に映ったことだろう。


「お前の言うとおり、遊びに来たわけじゃない。ただ、人を探しているだけだ」

「人探し?」


 相手はうろんな目つきになる。

 探るようにデミルの全身を眺めまわす。

 デミルはじろじろと観察されながらも、眉一つ動かさなかった。


「たしかに……、ひどい格好だけど誰かに追われてるような足取りじゃなかったね」


 疑わしげなまなざしは消えないが、一応は納得したようだ。

 首に突きつけていた剣を引き、鞘に収める。


 刃は細身だが、切れ味鋭く、銀に輝く怜悧な刃紋が息を呑むほどに美しい。

 東方亜大陸の職人が造る、“カタナ”と呼ばれる剣だった。


 持ち主の女も、その研ぎ澄まされた刃によく似た雰囲気を宿していた。


 戦闘色魔(せんとうしきま)アスリ。


 娼婦街で、その名を知らぬものはモグリだ。

 背はデミルよりも頭一つばかり低い。

 年も若く、まだ少女の雰囲気を残していた。

 東洋系の面持ちで、肌はやや浅黒く、艶やかな黒髪を背まで伸ばしている。

 アーモンドのような黒い大きな瞳が印象的だ。

 四肢はしなやかで細身だが、それとは対照的に豊かにつきでた両の胸が男の目を引く。

 娼婦らしく、そのメリハリに富んだ身体の稜線を強調するような、薄い朱色の羽衣をまとっていた。


 いかにも男ウケしそうな美しい少女だが、まとう雰囲気はか弱さや愛嬌とは真逆のものだ。

 触れれば切れてしまいそうな、どこか危険な匂いを全身から発散させている。

 それもそのはず。

 男社会に支配されないよう独自の自警組織を持つヴェノムの娼館だが、その中でもアスリは最強の戦闘要員だった。

 また、野獣の如き果てることのない強烈な性欲によっても有名だ。

 アスリの相手をすると、客である男の方が音を上げてしまうのが常だった。

 ヴェノムの娼婦街の怖ろしさを象徴するような少女。

 ついたあだ名が戦闘色魔、だ。


 ついでながら言い添えると、デミルの初めての相手をした娼婦でもあった。

 それもあってか、デミルはこの少女にどうと言いようのない苦手意識を持っていた。

 一対一で戦ったとして勝てないかもしれないとデミルが思う、ヴェノムでも数少ない存在の一人だった。


「まあ、立ち話もなんだ。来な」


 アスリはくるりと背を向け、歩きだす。

 そのくせ、いつでもカタナを抜き打ちできるよう、片手は腰の鞘に添えられていた。

 歩きながらもぴたりと距離を一定に保ち、デミルを決して間合いの外に出そうとしない。

 デミルは、肉食獣のなわばりに踏み込むような心地を感じていた。


 アスリがデミルを招いたのは、集合住宅(インスラ)のような建物の一室だ。

 ただし、ヴェノム最底辺の集合住宅(インスラ)よりもさらに部屋は狭く、造りも粗末だった。

 家具の類は存在せず、色あせたマットとクッションが無造作に転がっているだけだ。

 いわゆる“仕事部屋”である。


 この昼間でも娼館は繁盛しているようだ。

 薄い壁越しに、床のきしむ音と、男女の嬌声が相当な音量で漏れ聞こえてくる。

 彼女達にとっては、それが日常なのだろう。

 アスリは、隣室の情事などまったく聞こえていないかのような様子だ。

 部屋の中央にどかりとあぐらをかいて座った。

 デミルもそれにならい、その正面に腰をおろす。


「で、誰を探してるって?」


 おどす気ではないだろうが、床に座るとアスリの腰のカタナがちゃり、とかすかな音を立てた。

 居合い、といって座った状態でも彼女は瞬速で相手を斬れる。

 猛獣と一緒に檻の中に閉じ込められた心地を味わいながらも、デミルは問いに答える。


「名はアセナ。高級奴隷市場で売られていたのを、俺がさらった」


 どうやらデミルは言葉のチョイスを失敗したようだ。

 アスリのまなざしが、露骨に軽蔑を含んだものになる。

 かちゃり、と右手を添えた鞘が鳴り、デミルの背筋に冷たい悪寒が走る。


 表の立ちあいならいざ知らず、この間合い、互いに座った状態では絶対にアスリには敵わない。

 なにが火種になるか分からないような女だ。

 この娘と無防備に裸になって抱き合う男の気がしれない。

 デミルもかつてはその一人だったわけだが、その頃はヴェノムの右も左も分からなかったのだ。


「自分とこを逃げだした奴隷女を連れ戻そうってのかい。貴族様みたいな御趣味じゃないか、ええ?」

「違う。そうじゃない」


 反射的にデミルは首を横に振った。

 アセナは逃げだしたのではなく、おそらくさらわれたのだ。

 だが、デミルが否定したいのはそこではなかった。

 自分のところに連れ戻すのが、一番の目的ではない。


 ―――俺は、何を望んでいる?


 自らの胸の内に問う。

 そして、今度はゆっくりと言葉にした。


「俺はそいつの無事をたしかめたい。もし、何かの危機に陥っているなら、救いださなければならん。そうしなければ、落ち着かない。それだけだ」

「…………」


 アスリは半ば呆然とデミルを見つめる。

 急にアスリが無言になったのを、デミルはいぶかしんだ。


 ―――またこいつは妙なことを考えているのか? 俺はただ、思うとおりを口にしただけだ。


「……あんた、ほんとにデミル?」

「は?」

「いや、あんたってもっと、寝不足の山猫みたいな目してたじゃない?」

「お前に言われたくない」


 思わずデミルはそう言い返していた。

 戦いと性欲。

 その二つの欲望を満たす時、アスリの瞳は爛々と狂暴にぎらつく。

 デミルはそれを知っていた。


「……ギケルにも似たようなことを言われた。守るもんができた奴の目だとかなんとか」

「ふぅん」


 どういう心境の変化か、アスリは腰の鞘から手を放した。

 こころなしか、警戒を解いたかのように見える。


「まあ、とにかく詳しく聞こうじゃないか。こととしだいによっちゃ、協力しないでもないかもよ」


 促され、デミルはギケルにそうしたように、これまでの経緯を語った。

 話を聞き終えたアスリは、記憶の糸をたぐるように、うっすらと目を閉じた。

 沈黙が落ちると、隣室の性交の音がはっきりと聞こえる。


「……ドゥルガンとこが潰されたってのは聞いてたけど、そんなことがあったのか。

 悪いけど、あたしはその件についちゃ何も知らない。騒動になってるってのも、さっき聞いたばっかだ」

「……そうか」


 ほんのわずかに落胆しながらも、デミルは淡々とうなずいた。

 ギケルですら、手をこまねいているような案件だ。

 ここに手がかりが何もないのなら、次の場所を探すだけだ。


 だが、アスリはさらに言葉を続けた。


「ま、ここはヴェノム中の男どもが素っ裸になってやってくるトコだ。他の姐さんたちに聞いてみるさ。

 そのカラス野郎の居どこは無理でも、奴隷商の客がいればアセナって女の由来とか、盗賊の客ならドゥルガンとこの生き残りの隠れ家とか、聞いてるかもしんないよ。

 核心じゃなくても、なんかの足しにはなるだろ?」

「……見返りはなんだ?」


 思わずデミルはそう返した。

 意外なほどに積極的なアスリの態度に、不審感がつのる。

 情報屋ほど厳密なルールではないとはいえ、娼婦達は客との睦言を外部には漏らしたがらないはずだった。

 アスリが最初にデミルを追い返そうとしたように、もめ事を色街に持ちこまれるのを嫌うからだ。

 だから、アスリのこの態度は薄気味悪くすら思えた。


「そうだね。客としてまた来てくれりゃ、と言いたいとこだけど、あんたはイイ人を見つけちまったみたいだからね。貸しにしとくよ」

「本気か? やけに協力的だな。何かワケがあるのか」


 デミルは、相手の気前良い発言を、うのみにする気にはなれなかった。

 アスリは、どこから話したものかと言葉を探すように、視線をさまよわせる。

 ややあって、ぽつりとこう尋ねた。


「ナズって()、あんたは知っているかい?」

「……いや、覚えがないな」


 デミルは記憶を探ったが、聞き覚えのない名前だった。

 アスリは構わずに、言葉を続ける。


「歳はあたしよか上だけど、泣き虫な人でさ。あたし個人はあんまし仲のいい方じゃなかった。

 戦闘訓練にも積極的な人じゃなかったしね」


 常に臨戦態勢の彼女にしては珍しく、目を細め、どこか懐かしげな顔をしていた。

 戦闘訓練。

 およそ色街には似つかわしくない語だが、その意味するところをデミルも知っていた。

 娼婦達は盗賊団や富豪、貴族など、裏の権力者達と体のつながりをもっている。

 だが、後ろ盾はそれだけでは不十分だった。

 いつ、誰が裏切り、切り捨てられるかも分からない街だ。


 色街の女たちが自らの島を守るためにとった手段。

 それは単純明快で、自ら武器を手に取ることだった。


 彼女達は自治のためにしか戦わないが、こと色街内での市街戦では、娼婦達を制圧するには、一軍隊をもってこなければ敵わないと云われていた。


 力無き者は滅び去るのが、ヴェノムの(ことわり)である。


 それゆえ、娼婦達にとって戦闘訓練は欠かせない義務だった。

 だが、なかにはそうは思わない女もいたらしい。

 アスリはさらに話を続けた。


「そのナズ姐さんにとある客がついた。どうってことない男さ。

 田舎農家の長男坊で、ヴェノムには野菜を売りさばきにきてた。

 その帰り道だ。せっかく大都会まで来たんだから、一つ色街で遊んでやろうって思ったんだろうね」


 デミルはおとなしく聞いていたが、話の行き着く先が見えなかった。

 およそデミルの要件とは無関係に思えるが……。


「それが大騒動の始まりさ。

 ナズ姐も長男の兄さんも、たった一晩で双方一目惚れ。

 男の方は嫁に迎えて田舎に連れて帰るって言ってきかないし、姐さんは姐さんでこの人と添い遂げられないなら、ナイフで喉を突くとか言って泣きわめいてさ」

「そんなことがありうるのか?」


 思わずデミルは口を挟んだ。

 アスリはため息を吐きながら首を振る。


「あたしもそんなのはおとぎ話だと思ってたさ。現実に起こるまではね」


 そして、自嘲気味な薄笑いとともにこう継ぐ。


「どんなにあがいたって、あたしらが日銭と引き換えに大勢の男と寝た事実は消えない。

 あんたらが人を殺して奪った金で飯食ってる事実が消えないようにね」

「…………」


 デミルは沈黙をもって、アスリの言葉を肯定した。

 ちょうどその時、隣室の男が果てたのか、くぐもったうめき声をあげ、床のきしみが止んだ。


「けど、あの男はそれを差し引いてもナズ姐と結婚したがった。いや、そんな過去は一切関係ないっていう目だったね。

 二人が本気なのが分かったあたしらはてんやわんやさ。

 ヴェノムで娼婦が抜けるってのはそう楽な話じゃない。

 みんなでなけなしの金を集めて、ナズ姐に持たせて、あっちこっちに賄賂を送って、色目を使ってさ。最後は男の荷馬車に姐さんを隠して、みんなで送り出した。

 今頃は、ヴァルデン地方の片田舎でよろしくやってるんだろうさ」


 その時の騒動を思い出してか、アスリはふぅーっと腹の底から長い息を吐いた。


「普段は面倒事が嫌いなあたしらだけど、どっかで二人に憧れみたいな気持ちがあったんだろうね。協力を嫌がる人はなかったよ。

 ―――それで、だ」


 アスリは話を戻す、とばかりにデミルと目を合わせた。


「いまのあんたが、その農家の長男坊そっくりの顔してる」

「む……」


 デミルとしては、不意打ちを喰らった気分だった。


「どうも人が恋に落ちるってのは、避けられない事故みたいなもんらしいね」

「……そのようだな」


 デミルはなにかうまい返しをしたかったが、思いつけない。

 渋々ながらうなずくしかなかった。

 その農家の男の心情が理解できてしまったからだ。


 まさか男は、娼婦街に嫁探しで向かったわけではないだろう。

 ほんの気晴らしだったはずだ。

 ちょうど、デミルが奴隷市場に女奴隷をさらいに行ったように。

 なんとも、身につまされるような話だった。


「あたしは何十人か何百人かの男と抱き合ったけど、そんな想いになったことは一度もないな。

 そりゃ、硬くて長持ちするモノ持ってる客だったら、もう一度来てほしいくらいには思うけどね。

 そいつのことが頭から離れなくてどうしようもない、なんてのは理解できないよ」


 いかにも戦闘色魔らしい、あけすけな物言いだった。


 デミルはふと、この女が男に惚れたところを想像してみた。

 一度抱き合った男のことが忘れ得られず、窓際で頬づえをつき、空を眺めては、ため息ばかりついているアスリ……。

 果てしなく似合わなかった。


「デミル」


 チャリ、と鯉口を切る音が響いた。

 いつの間にか、アスリの手が再びカタナの鞘に添えられていた。


「あんた、なにか失礼な想像してないかい?」

「気のせいだ」


 デミルは即答した。

 会話のみならず、頭の中の想像ですら、戦闘色魔との対峙は命懸けであった。

 アスリは疑わしげな目線を向けたものの、一応はカタナに添えた指をほどいた。


「ともかくそんなわけで、いまはみんなナズ姐の一件で情にほだされてるからね。

 獣のデミルが人間のメスのつがいを見つけたらしいって言えば、面白がって協力してくれるさ」

「そんなものか」


 当のデミルはおもちゃにされているようで、面白くもなんともない。

 とはいえ、情報が集まるのであれば、これ以上にありがたい話はなかった。


「だが、無理はするな。奴らのことを探ってたギケルの部下が、何人か消されたらしい」


 デミルは正直にそう話した。

 少しでも情報を集めたいのはやまやまだが、危険性について話さないのはフェアではない。

 それ以上に、娼婦達に恨みを買うのは、あとが怖かった。


「ゾッとしない話だね」


 アスリは軽く肩をすくめたが、それだけだった。


「ま、ギケルんとこみたいにあれこれ探り入れようってわけじゃないんだ。

 井戸端に集まって噂話に華を咲かせるのは、女の特権さ」


 気安く請け負うアスリの姿が頼もしく見えた。


「すまんな」

「いいさ。しばらく経ったらもう一度来なよ。聞けるだけのことは聞いとくよ」


 デミルはごく自然と頭を下げていた。


 ―――


 娼婦街を出たデミルの足取りは、来た時よりもはるかに軽かった。

 アセナに関する手がかりが集うかは分からない。

 だが、一人で広範なヴェノム中を駆けずりまわるよりは、はるかにマシなはずだ。


 正直、娼婦街での交渉はギケルの時以上に難航すると、デミルは思っていた。

 色街の番犬たる、戦闘色魔アスリに最初に出会ってしまったからなおさらだ。


 ところが、実際には望んでいた以上に協力的な姿勢を示された。

 デミルが女に惚れこんでいるらしいという、その一事によってだ。


 ―――分からんものだな。


 デミルは胸中一人ごちる。

 人情やしがらみなど、猛毒の街には存在しないものと思っていた。

 そんなものに捉われては、足元をすくわれるどころか明日の朝日を拝めなくなるような街だ。

 ましてや、デミルは一匹狼の都市盗賊(シティ・シーフ)なのだ。


 それが、さして親しい間柄でもない情報屋のギケルや、娼婦アスリに情義のようなものを感じている。

 もし、今回の一件が片付いた後、彼らに何か問題が起こった時は、力を貸してもいい、とすら思った。


 まだ、何か手掛かりをつかんだわけではない。

 いまもデミルは、次の情報源を求めて、街を歩いている。

 だが、情報屋と娼婦街という、打てる一番の手を打って、気がゆるんだのかもしれない。


 不意に、視界がぐらりと揺れた。

 意識が遠のきかけ、片膝をつく。


「くっ……」


 いままでずっと放っていたが、仮面の男達から受けた怪我は軽いものではなかった。

 いまになって、その傷の痛みがデミルを(さいな)んだ。

 失血のためか、体に力がうまく入らない。

 はやる気持ちはあるものの、いざギケルあたりから情報を得た時、「怪我がひどくて動けない」では笑い話にもならない。


「一度戻るしかない、か」


 アジトには薬草や薬油の類が蓄えてある。

 デミルは方角を変え、足早にアジトへの帰路を急いだ。


 ―――


 デミルが人通りもなく、日差しもろくに届かない裏路地に差しかかった時、

 風を切って何かが飛来する、鋭い音を聞いた。


 デミルは反射的に壁に張りつくように、身をよじった。

 その直後、ナイフの投擲(とうてき)がデミルの顔をかすめた。

 薄い血の筋が頬を伝う。


「盗賊のデミルだな! その首もらうぞ」

「ドゥルガンはもういねえ。覚悟しろ」


 見やると、通路の両側に一人ずつ男が立っていた。

 ヴェノムのどこにでも転がっているような、盗賊風の男達だ。

 無論、手にはそれぞれ武器を握っている。

 粗雑な造りの、廉価な剣だ。


 そう呼びかけられても、デミルは男達にまったく見覚えがなかった。

 心当たりもない。

 いや、ありすぎるといった方が正確か。

 デミルの首を手土産に、ドゥルガン一味と敵対していた盗賊団に取り入ろうとしているのか。

 かつて強盗を働いた豪商か貴族が雇った殺し屋か。

 身内を殺された者の私怨か。


 いずれにせよ、大した手合いではなさそうだった。

 それは、彼らの物腰からすぐ読みとれた。

 鴉男とは無関係なことは、ほぼ間違いないだろう。


 普段のデミルであれば、まったくてこずるような相手ではない。

 だが、いまは手負いの身だ。

 最初のナイフも、普段であれば余裕でかわせていたはずだ。

 もしあの刃に毒が塗ってあれば、いまごろデミルはこの世にはいない。


 ―――()くか?


 という考えが一瞬頭をよぎった。

 だが、万一アジトまで付けられては面倒だ。

 やはり、ここで始末するしかないだろう。


「ドゥルガンなんざ関係ねえ。俺は元々独りの都市盗賊だ!」


 決断を下せば、デミルの行動ははやい。

 吠え声を上げ、男の一人に向かって駆けた。


 ―――


「ふぅ……」


 横たわる二人の死体を見下ろし、珍しくデミルはため息を漏らした。

 少々傷にさわったものの、苦戦はまったくしなかった。

 短刀の一振りずつで、男達は絶命した。

 この程度の命のやり取りは、彼にとって日常事だ。


 だが、それがいまは妙に虚しかった。

 娼婦街でのやり取りで、いつにない生温かな心地になっていた。

 そこに冷水を浴びせられた気分だった。


 ―――あんたらが人を殺して奪った金で飯食ってる事実が消えないようにね。


 アスリの言葉が胸をよぎる。

 目の前の死体が「これが現実だ。あんたは現実(ヴェノム)から決して抜けられない」と語りかけているようだった。

 デミルは農家の長男坊とは違う。

 その手は血に染まりきっている。

 犯罪と暴力の街の猛毒が全身の血に分かちがたく染み込んでいるのだ。


「くそっ」


 短く毒づき、開きかけた傷口を押さえながら、デミルはアジトへと戻った。


 ―――


 家具と呼べるものもろくにない殺風景な部屋。

 それでも、勝手知ったる我が家だ。

 アジトに戻ったデミルは、張りつめていた気がほぐれ、小さく安堵の息を漏らす。

 気を緩めたその隙をつくように、疲労と怪我の痛みが一挙にのしかかってきた。


「ぐっ……」


 床に倒れそうになるのを歯を喰いしばってこらえる。

 手をつっぱり寝台に腰かけ、傷薬を取り出す。

 深い森の中を独り生き延びたデミルは、薬草や薬油の知識が豊富だった。

 アジトには、怪我や火傷に効く治療薬が十分に蓄えてある。 


 ―――いや。


 自身の記憶に、デミルは微かな違和感を覚えた。

 本当にそれは、一人で手に入れた知識だっただろうか?

 ごく幼い頃、誰かに教わったのではなかったか?

 そう、たしか、崖から落ちるかして死にかけた時に、助けられて……。


「ちっ」


 森での記憶にはもやがかかり、うまく思い出せなかった。

 無理に思いだそうとすると、頭痛がひどくなる気がした。

 もとより、獣同然に生きた過去はデミルにとって忌まわしいものでしかない。

 いま、無理に記憶の糸を辿る必要はないはずだ。

 結局、デミルはその違和感を、怪我で意識が朦朧としているせいだ、と結論付け、考えるのを止めた。


 治療を終えると、もう堪えきれなかった。

 再び寝台から起きあがる気力が湧かず、疲労に屈するように横たわる。

 全身に重い鉛をくくりつけられたような感覚だった。

 嫌でも、強烈な睡魔に襲われる。

 それは決して心地良い眠りではなかった。

 己が意思に逆らい、精神が暗い闇の淵へと落ちてゆくような、昏睡状態だった。



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