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ヴェノムの盗賊たち  作者: 倉名まさ
3/9

第三幕 魔性の虜

 獣同然に深い森で生き抜き、野盗の一員として数多の死線をくぐりぬけた。

 盗賊団を抜け、この猛毒の街ヴェノム・シティで都市盗賊(シティ・シーフ)となってからも、命のやり取りを数えれば十指に余る。

 死を覚悟したのも一度や二度ではない。

 それでも、デミルにとって、これほどに精根尽き果て、夜明けまで熟睡した経験はそうなかった。

 少なくとも記憶には久しくない。


 薄い壁の隙間に差しこむ曙光に目を細め、デミルは寝台から起きあがった。

 全身を、水に浸かっている時のような、鈍い気だるさが覆う。

 だが、悪い心地ではなかった。

 頭はいつになく冴えわたっている。

 屈辱にまみれ、ろくに眠ることのできなかった盗り物の夜とは雲泥の差だ。


 ふと、昨夜のことが夢幻だったかのように思え、目線を落とす。

 デミルの眠っていたとなりには、朝の薄明かりにも鮮やかな銀髪が寝乱れていた。


 ―――夢ではなかったようだな。


 そんな当たり前のことに、思わず安堵している自分が意外だった。

 不意に胸の辺りに湧きあがった温もりにデミルが困惑していると、プラチナブロンドの髪の持ち主が、ごそりと寝台の中で身じろぎした。


「あら、おはよう、デミル」


 自身を覗きこんでいた目線に動じることもなく、アセナは艶然と声をかけた。

 顔に浮かべた謎めく微笑も相変わらずだ。


「なんだか憑きものが落ちたような顔をしているわね。

 まあ、わたしも愉しんだから、お互い様かしら」


 アセナはさらりと毛布をはらいのける。

 陶磁器のような真っ白な裸身が、朝日のもとにあらわになる。 

 それを目にした瞬間、デミルの肉体に昨夜の情事の感覚がまざまざとよみがえった。

 アセナは一晩中、デミルの欲望を引き出し続けた。

 純粋な技術でいえば、ヴェノムの娼婦たちの方が巧みであろう。

 だが、アセナの全身を尽くした反応は、デミルの心を捉えて離さなかった。

 攻めたてれば燃えあがり、身を引けばすかさず吸いつく。

 デミルは完全に我を忘れた。

 いつの間に深い眠りについていたのかも、覚えていなかった。


 精力を使い果たしたはずなのに、アセナの肌が目に入った瞬間、股間が充血するのを感じる。


「食い物を買ってくる」


 自分がまるでウブな小僧のような反応を見せたのを恥じ、デミルはくるりと背を向けた。


「盗んでくるのではなくて?」


 デミルの動揺を見透かしたように、アセナは忍び笑いをもらす。


「それくらいの金はある」

「そう。なら、ついでに服もお願いしていいかしら。

 冷える季節じゃないけど、いつまでも裸でいたくはないでしょう?」

「―――人間として、か?」


 デミルが先んじて言うと、アセナは鈴を転がすような声で笑った。

 釣られて、デミルの唇も笑みの形をとりそうになり、慌ててかぶりを振る。


 アセナが寝台から立ち上がる、ぎしりという音が背後から聞こえた。

 デミルを挑発して、わざと音を立てているのかもしれない。


「ああ、分かっ―――」


 ほとんど反射的にデミルは振り向きかけ、気づく。

 アセナが、その裸身に昨夜はなかった装身具を一つ、身につけていることに。

 蒼い大きな宝玉を中心に据えた、銀細工の首飾りだ。

 デミルが密輸人から奪い、ドゥルガンに投げ与えられた“分け前”である。


 ―――いつの間に!?


「返せ!」


 羞恥など一瞬で消し飛び、デミルはアセナに詰め寄った。


「いやよ。どうせ盗品でしょう」


 アセナは首飾りを手で押さえ、上目遣いにデミルを見返す。

 宝飾品それ自体が問題ではなかった。

 眠っている間に奪われた、というその事実だ。

 デミルは獣のごとく、寝ている時でも周辺の気配を察知できる。

 殺気は無論のこと、何かを盗ろうとされたなら、それに気づかないはずはないのだ。

 相手の裸身を目にしながら、首飾りの存在にすぐ気づかなかったのも、あまりに間が抜けている。


 内心の動揺が、デミルの振る舞いを乱暴にさせた。

 左腕で乱雑にアセナの銀髪をつかみ、もう片方の腕で、首飾りを引きちぎらんばかりに喉輪に手をかける。

 そうされながらも、アセナは抵抗らしい抵抗は見せず、微笑を引きこめただけで顔色一つも変えない。


「放しなさい、デミル」


 ばちり、と衝撃がデミルの指にはしった。

 痛みよりも驚きで、デミルは手を引っ込める。

 何をされたのかまったく分からなかった。

 両のてのひらを見ても外傷はまったくないが、電流に触れたようにびりびりと痺れが残っている。


 前を見やると、首飾りの宝玉が薄く発光していた。

 陽光の反射などではありえない。

 ランプの輝きのように、宝玉それ自体が神秘的な光を宿し、アセナの肌を照らす。

 光によって、銀細工の女神像に陰影が生じる。

 影の具合がまるで微笑しているようで、アセナの顔そっくりに見えた。


 ―――なんだ、何が起こっている?


 不可思議な現象に、さしものデミルもどうしていいか分からず、呆然と立ち尽くす。


「ほぅら、これもわたしのものになりたがっているみたいよ」


 一方のアセナは青い光を浴びながらも、いささかも動揺を見せなかった。

 光は、あけもどろの幻であったかのごとく、すぐに止んでしまった。


「ふぅ……。少し寝なおすわ」


 アセナは、デミルの手で乱された髪を軽くかきあげ、再び寝台に腰をおろす。

 そして、もう話すことはないとばかりに、毛布にくるまり横になってしまった。


「食べ物と服、よろしくね」


 デミルは憮然となる。

 だが、その言葉に従い、空家を出る以外の行動を思いつけなかった。


---


「食い物を買ってくる、だと……?」


 デミルは己の言葉の異常さに、表に出るまで気づかずにいた。

 いままでに、さらった女と一夜以上を共にしたことなどなかった。

 コトが済めば、怯える相手を路上に放り出すか、場合によっては口封じのために殺していた。

 それで良心の呵責など感じることもなければ、未練もなかった。


 ところが、アセナ相手には、それが当然のように空家にいることを許してしまっている。

 あまつさえ、首飾りをすられたことにも気づかずに、熟睡してしまった。

 感覚が狂っているとしか思えなかった。

 一匹狼の都市盗賊(シティ・シーフ)にとって、その狂いは致命的なものだ。


 ―――かわいそうな人。

 ―――わたしに出会ってしまったからよ。


 昨夜のアセナの言葉が胸によぎる。

 まるで、自分がこんな状態になるのを見透かされたようだ。


 ―――あの女は、放っておくべきだ。


 デミルの内に眠る獣の危機意識が、そう告げる。

 放置する。

 それが最良の答えと思えた。

 殺すのも路上に放るのもなしだ。

 もし引き返し、再びアセナに相まみえれば、また魔性のとりこになりかねない。

 もとより、あの空家は本拠にしている隠れ家ではなく、この街に幾つも用意している仮の拠点に過ぎない。

 このままもう、あの場所を放棄すれば、それで全てが済む。

 だが、一人になると、かえってアセナの姿が脳裏によみがえり、まぶたからはなれなかった。

 幻影を振り払おうとすればするほど、身体に刻まれた肌の記憶がよみがえる。


「おっ、ダンナ、お目が高いね」


 声をかけられ、デミルは初めて自分が何に目を留めていたかに気づいた。

 声の主は、通りの脇の露天商だった。

 そのテントに吊るされていたのは、麻の貫頭衣だ。

 草木によって深い茶褐色に染められていて、アセナの白い肌によく似合いそうだった。

 もちろん、女物の衣服だ。


「こいつは正真正銘、帝国領ガレア産の麻で織り上げた、最高級の一品でさぁ。

 服のついでに、ピアスに指輪、飾り紐も各色ご用意がありますぜ。

 どうです、奥方様の手土産に一つ」

「いらん」


 放っておくと無限に続きそうな商人の口上を一言で切り捨て、デミルは足早にその場をあとにした。


 ―――思った以上に重症だな、これは。


 頭痛がする気がして、デミルは額をおさえた。


 ―――


 食料と衣服の調達という目的を大きく外れ、デミルは街の郊外までやってきた。

 貧民窟、闇市場、娼館、闇市場、野盗達の根城などが散在する、犯罪都市ヴェノムでも、最も治安の悪い区域だ。

 質の悪い建物の塗装はあちこち崩れ、道は細く陽光もろくに届かない。

 すえたかび臭い匂いが充満し、物乞いや酔漢、あるいは賭博に有り金を使い果たした人生の落伍者達が、ぼろきれのように路上に横たわっている。


 デミルはその光景に、むしろほっと息をつく思いだった。

 このいかがわしい場所にやってきて、ようやく本来の自分に立ち戻れたような気になった。

 ようやく、アセナの甘い幻影から逃れられた気がする。


 ―――いっそ追いはぎでも襲いかかってくれれば、感覚が完全に戻りそうなものだがな。


 そんな物騒なことを思う。


 せっかくここまで来たのだから、酒場とは名ばかりの悪党どもの溜まり場にでも寄って、仕事(・・)を探すか。

 情報屋ギケルをはじめ、盗賊相手に情報を売る裏稼業は、この街には幾つも存在する。

 そんなことを考え、デミルがさらに旧市街の奥地に足を踏み入れた、その時だった。


 地面が揺れた。

 ついで耳をつんざくような轟音が、辺りに響く。

 それは、どごん、という空気を震わせる破裂音だった。


「……なんだ?」


 ここが冬の森であれば、雪崩でも起きたのかと思うところだ。

 頭上を見上げると、空の一部が茜色に染まっていた。

 朝の日差しでもはっきり分かるほどだ。

 その方向だけ、夕焼けが訪れたように赤く染まっている。

 相当大規模な炎が燃えているのが分かる。


 ―――火災、か?


 だが、失火では先ほどの轟音の説明がつかない。

 見ている間にも、空の朱色は色濃くなってゆく。


「あっ」


 思わずデミルは声を上げた。

 火の手が上がっているだろう方角に、何があるのかを思い出したのだ。

 異変の要因は分からない。

 だが、ともかく向かってみるべきだ。

 デミルは、轟音と地揺れに混乱する旧市街を抜け、一人駆けだした。


少し短いですが、話の区切りの関係でここで一幕とさせていただきます。

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