第三幕 魔性の虜
獣同然に深い森で生き抜き、野盗の一員として数多の死線をくぐりぬけた。
盗賊団を抜け、この猛毒の街ヴェノム・シティで都市盗賊となってからも、命のやり取りを数えれば十指に余る。
死を覚悟したのも一度や二度ではない。
それでも、デミルにとって、これほどに精根尽き果て、夜明けまで熟睡した経験はそうなかった。
少なくとも記憶には久しくない。
薄い壁の隙間に差しこむ曙光に目を細め、デミルは寝台から起きあがった。
全身を、水に浸かっている時のような、鈍い気だるさが覆う。
だが、悪い心地ではなかった。
頭はいつになく冴えわたっている。
屈辱にまみれ、ろくに眠ることのできなかった盗り物の夜とは雲泥の差だ。
ふと、昨夜のことが夢幻だったかのように思え、目線を落とす。
デミルの眠っていたとなりには、朝の薄明かりにも鮮やかな銀髪が寝乱れていた。
―――夢ではなかったようだな。
そんな当たり前のことに、思わず安堵している自分が意外だった。
不意に胸の辺りに湧きあがった温もりにデミルが困惑していると、プラチナブロンドの髪の持ち主が、ごそりと寝台の中で身じろぎした。
「あら、おはよう、デミル」
自身を覗きこんでいた目線に動じることもなく、アセナは艶然と声をかけた。
顔に浮かべた謎めく微笑も相変わらずだ。
「なんだか憑きものが落ちたような顔をしているわね。
まあ、わたしも愉しんだから、お互い様かしら」
アセナはさらりと毛布をはらいのける。
陶磁器のような真っ白な裸身が、朝日のもとにあらわになる。
それを目にした瞬間、デミルの肉体に昨夜の情事の感覚がまざまざとよみがえった。
アセナは一晩中、デミルの欲望を引き出し続けた。
純粋な技術でいえば、ヴェノムの娼婦たちの方が巧みであろう。
だが、アセナの全身を尽くした反応は、デミルの心を捉えて離さなかった。
攻めたてれば燃えあがり、身を引けばすかさず吸いつく。
デミルは完全に我を忘れた。
いつの間に深い眠りについていたのかも、覚えていなかった。
精力を使い果たしたはずなのに、アセナの肌が目に入った瞬間、股間が充血するのを感じる。
「食い物を買ってくる」
自分がまるでウブな小僧のような反応を見せたのを恥じ、デミルはくるりと背を向けた。
「盗んでくるのではなくて?」
デミルの動揺を見透かしたように、アセナは忍び笑いをもらす。
「それくらいの金はある」
「そう。なら、ついでに服もお願いしていいかしら。
冷える季節じゃないけど、いつまでも裸でいたくはないでしょう?」
「―――人間として、か?」
デミルが先んじて言うと、アセナは鈴を転がすような声で笑った。
釣られて、デミルの唇も笑みの形をとりそうになり、慌ててかぶりを振る。
アセナが寝台から立ち上がる、ぎしりという音が背後から聞こえた。
デミルを挑発して、わざと音を立てているのかもしれない。
「ああ、分かっ―――」
ほとんど反射的にデミルは振り向きかけ、気づく。
アセナが、その裸身に昨夜はなかった装身具を一つ、身につけていることに。
蒼い大きな宝玉を中心に据えた、銀細工の首飾りだ。
デミルが密輸人から奪い、ドゥルガンに投げ与えられた“分け前”である。
―――いつの間に!?
「返せ!」
羞恥など一瞬で消し飛び、デミルはアセナに詰め寄った。
「いやよ。どうせ盗品でしょう」
アセナは首飾りを手で押さえ、上目遣いにデミルを見返す。
宝飾品それ自体が問題ではなかった。
眠っている間に奪われた、というその事実だ。
デミルは獣のごとく、寝ている時でも周辺の気配を察知できる。
殺気は無論のこと、何かを盗ろうとされたなら、それに気づかないはずはないのだ。
相手の裸身を目にしながら、首飾りの存在にすぐ気づかなかったのも、あまりに間が抜けている。
内心の動揺が、デミルの振る舞いを乱暴にさせた。
左腕で乱雑にアセナの銀髪をつかみ、もう片方の腕で、首飾りを引きちぎらんばかりに喉輪に手をかける。
そうされながらも、アセナは抵抗らしい抵抗は見せず、微笑を引きこめただけで顔色一つも変えない。
「放しなさい、デミル」
ばちり、と衝撃がデミルの指にはしった。
痛みよりも驚きで、デミルは手を引っ込める。
何をされたのかまったく分からなかった。
両のてのひらを見ても外傷はまったくないが、電流に触れたようにびりびりと痺れが残っている。
前を見やると、首飾りの宝玉が薄く発光していた。
陽光の反射などではありえない。
ランプの輝きのように、宝玉それ自体が神秘的な光を宿し、アセナの肌を照らす。
光によって、銀細工の女神像に陰影が生じる。
影の具合がまるで微笑しているようで、アセナの顔そっくりに見えた。
―――なんだ、何が起こっている?
不可思議な現象に、さしものデミルもどうしていいか分からず、呆然と立ち尽くす。
「ほぅら、これもわたしのものになりたがっているみたいよ」
一方のアセナは青い光を浴びながらも、いささかも動揺を見せなかった。
光は、あけもどろの幻であったかのごとく、すぐに止んでしまった。
「ふぅ……。少し寝なおすわ」
アセナは、デミルの手で乱された髪を軽くかきあげ、再び寝台に腰をおろす。
そして、もう話すことはないとばかりに、毛布にくるまり横になってしまった。
「食べ物と服、よろしくね」
デミルは憮然となる。
だが、その言葉に従い、空家を出る以外の行動を思いつけなかった。
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「食い物を買ってくる、だと……?」
デミルは己の言葉の異常さに、表に出るまで気づかずにいた。
いままでに、さらった女と一夜以上を共にしたことなどなかった。
コトが済めば、怯える相手を路上に放り出すか、場合によっては口封じのために殺していた。
それで良心の呵責など感じることもなければ、未練もなかった。
ところが、アセナ相手には、それが当然のように空家にいることを許してしまっている。
あまつさえ、首飾りをすられたことにも気づかずに、熟睡してしまった。
感覚が狂っているとしか思えなかった。
一匹狼の都市盗賊にとって、その狂いは致命的なものだ。
―――かわいそうな人。
―――わたしに出会ってしまったからよ。
昨夜のアセナの言葉が胸によぎる。
まるで、自分がこんな状態になるのを見透かされたようだ。
―――あの女は、放っておくべきだ。
デミルの内に眠る獣の危機意識が、そう告げる。
放置する。
それが最良の答えと思えた。
殺すのも路上に放るのもなしだ。
もし引き返し、再びアセナに相まみえれば、また魔性のとりこになりかねない。
もとより、あの空家は本拠にしている隠れ家ではなく、この街に幾つも用意している仮の拠点に過ぎない。
このままもう、あの場所を放棄すれば、それで全てが済む。
だが、一人になると、かえってアセナの姿が脳裏によみがえり、まぶたからはなれなかった。
幻影を振り払おうとすればするほど、身体に刻まれた肌の記憶がよみがえる。
「おっ、ダンナ、お目が高いね」
声をかけられ、デミルは初めて自分が何に目を留めていたかに気づいた。
声の主は、通りの脇の露天商だった。
そのテントに吊るされていたのは、麻の貫頭衣だ。
草木によって深い茶褐色に染められていて、アセナの白い肌によく似合いそうだった。
もちろん、女物の衣服だ。
「こいつは正真正銘、帝国領ガレア産の麻で織り上げた、最高級の一品でさぁ。
服のついでに、ピアスに指輪、飾り紐も各色ご用意がありますぜ。
どうです、奥方様の手土産に一つ」
「いらん」
放っておくと無限に続きそうな商人の口上を一言で切り捨て、デミルは足早にその場をあとにした。
―――思った以上に重症だな、これは。
頭痛がする気がして、デミルは額をおさえた。
―――
食料と衣服の調達という目的を大きく外れ、デミルは街の郊外までやってきた。
貧民窟、闇市場、娼館、闇市場、野盗達の根城などが散在する、犯罪都市ヴェノムでも、最も治安の悪い区域だ。
質の悪い建物の塗装はあちこち崩れ、道は細く陽光もろくに届かない。
すえたかび臭い匂いが充満し、物乞いや酔漢、あるいは賭博に有り金を使い果たした人生の落伍者達が、ぼろきれのように路上に横たわっている。
デミルはその光景に、むしろほっと息をつく思いだった。
このいかがわしい場所にやってきて、ようやく本来の自分に立ち戻れたような気になった。
ようやく、アセナの甘い幻影から逃れられた気がする。
―――いっそ追いはぎでも襲いかかってくれれば、感覚が完全に戻りそうなものだがな。
そんな物騒なことを思う。
せっかくここまで来たのだから、酒場とは名ばかりの悪党どもの溜まり場にでも寄って、仕事を探すか。
情報屋ギケルをはじめ、盗賊相手に情報を売る裏稼業は、この街には幾つも存在する。
そんなことを考え、デミルがさらに旧市街の奥地に足を踏み入れた、その時だった。
地面が揺れた。
ついで耳をつんざくような轟音が、辺りに響く。
それは、どごん、という空気を震わせる破裂音だった。
「……なんだ?」
ここが冬の森であれば、雪崩でも起きたのかと思うところだ。
頭上を見上げると、空の一部が茜色に染まっていた。
朝の日差しでもはっきり分かるほどだ。
その方向だけ、夕焼けが訪れたように赤く染まっている。
相当大規模な炎が燃えているのが分かる。
―――火災、か?
だが、失火では先ほどの轟音の説明がつかない。
見ている間にも、空の朱色は色濃くなってゆく。
「あっ」
思わずデミルは声を上げた。
火の手が上がっているだろう方角に、何があるのかを思い出したのだ。
異変の要因は分からない。
だが、ともかく向かってみるべきだ。
デミルは、轟音と地揺れに混乱する旧市街を抜け、一人駆けだした。
少し短いですが、話の区切りの関係でここで一幕とさせていただきます。