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ヴェノムの盗賊たち  作者: 倉名まさ
2/9

第二幕 揺らぐ琥珀の瞳

 女を抱こう。

 そう、襲撃者の男―――デミルが思い立ったのに深い理由はなく、ほんの気まぐれだった。

 無論、心を浮き立たせてのことではなく、むしろその逆だ。

 密輸人を狙った奇襲が終わり、隠れ家に戻ってきたのは、夜も白む早朝の頃だ。

 デミルは軽い気だるさを覚えながらも、血が逆流するような憤りに苛まれ、うまく寝つけずにいた。

 軽くまどろんでは、夢ともうつつともつかぬ情景に、昨夜の大男のにやつき顔が浮かび、屈辱で寝床をとび起きる。

 不眠の時を過ごし、アジトから起きだしてきた頃には日も傾き、西日が崩れた壁の隙間からさしこんでいた。


 西日の照るもとで見ると、彼の顔は存外にあどけない。

 縮れた濃い黒髪に、太い眉と整った目鼻立ち。

 精悍と表せる顔つきだが、その面持ちは少年の面影を脱しきっていない。

 だが、獣の如く爛々と光る目が、その人好きしそうな顔立ちの印象を裏切っていた。

 それもいまは寝不足と怒りがために、さらにぎらぎらと狂暴に輝く。

 

 デミルは一人、大通りへと身を滑らせた。

 大型の馬車がすれ違えるほどの道幅だが、夕刻の通りにはその広い道を埋め尽くすほどの人々がごった返していた。

 よその村から来た者なら何かの祭りかと思うところであろうが、これがヴェノムの日常である。

 デミルはターバンとマントで目元以外を隠しているものの、つい昨夜、強盗殺人を犯した者とは思えない堂々とした闊歩であった。

 ここは世界一人口の雑多な、そして犯罪者の街ヴェノム・シティだ。

 あれしきのことでびくついて往来を歩けないようでは、ヴェノムの住人はつとまらない。

 歩きながらも、デミルは昨夜の恥辱に憑かれ、忘れ得られずにいた。


「ドゥルガン……」


 我知らず、口の中で幾度もその名を唱えていた。

 それは昨夜大勢の者を率い、デミルから獲物を奪った大男の名前だった。


 デミルとドゥルガンの出会いは、デミルが物心つく頃までさかのぼる。

 デミルは捨子だった。

 ヴェノム・シティより北方、中央大陸辺境の森の中で獣にまみれデミルは育った。

 常識的に考えて、厳しい自然界の中でヒトの赤子が無事に育つはずがない。

 だが、デミルは生き延びていた。

「狼にでも育てらていたんじゃねえのか」と、かつての仲間は冗談まじりによくそんなことを言った。

 あるいは、そうなのかもしれない。

 いずれにせよ、デミル本人に幼い頃の記憶はなかった。

 彼がおぼろげながらに憶えているのは、飢えと寒さに苦しみ、他の獣と獲物を奪い合い、木の芽や根をかじりながら、かろうじて生きながらえていた孤独の日々だけであった。

 

 そんな彼を面白がって拾ったのが、盗賊団の頭ドゥルガンだ。

 その頃の盗賊団はまだヴェノム・シティとは縁がなく、構成員もわずか十名程度の小さな集団だった。

 ドゥルガンは部下に命じて、デミルに言葉を覚えさせ、盗賊の技術を叩き込んだ。

 いまのデミルの姿があるのは、ドゥルガンのお陰、ある意味で育ての親とも呼べる。

 その事実を抜きにしても、かつてのドゥルガンはデミルにとって、畏敬の念を込めて見上げるべき存在だった。


 残虐で狂暴ながらも、盗賊としての誇りを持っていた。

 何者にも束縛されることなく、はばかる者は力をもって叩きのめした。

 獲物を狩る時はいつも部下達の最前に立ち、怒号を上げ、自ら血刀を振るった。

 だから、容赦なく鞭で叩かれ、岩を握った拳で殴りつけられても、デミルは従順だった。

 欲しい物は力づくで奪い取るという盗賊団のありかたは、厳しい自然界を生き延びたデミルには、すんなり呑みこめるものだった。

 

やがて盗賊団の規模は膨れ、ヴェノム・シティに拠点を移す。

とある事件をきっかけにデミルが盗賊団を抜け、独り立ちすることになった時も、ドゥルガンは鷹揚だった。

一味が「裏切り者」「恩知らず」とデミルをののしるなか、頭領であるドゥルガン一人はどこ吹く風という態度で周囲を叱りつけた。


「うるせえぞ、てめえら。しゃべるペットが一匹消えたくらいでガタガタぬかすんじゃねえ」


 そして、デミルを睨みつけて言う。


「おう。どこでくたばろうと勝手だが、俺の邪魔だけはするんじゃねえぞ」

「ああ、あんたもな」


 二人が交わした別れの言葉はそれだけであった。

 それは一種の不可侵条約だ。

 ドゥルガンは盗賊団の長として、デミルは一匹狼の野盗として、犯罪都市ヴェノムで生きる。

 互いの邪魔はしない。

 そういう約束だったはずだ。

 間違っても、獲物の横取りなどしていいはずがなかった。

 ヴェノムの盗賊団の長となってから、ドゥルガンは変わってしまった。

 どこか陰湿で、謀略や陰謀をめぐらせるようになった。

 盗賊団の頭という地位に固執するようになり、貴族や商人におもねるのにためらわなくなった。


「……くそっ、ドゥルガンめ」


 幾十度目になるか分からない悪態を、デミルは吐き捨てた。

 彼は苛立ちの元凶に気づいていなかった。

 ぬけぬけと獲物を横取りしたドゥルガンの厚顔さよりも、それをむざむざ許し、報復一つできないでいる自身の不甲斐なさこそが、最大の苛立ちの要因だった。

 それに気づかぬまま、せめてもの気晴らしに女を抱くことを思いつく。

 

 道半ばで、デミルはとある人物の姿を見とがめた。

 それは抱えている怒りの火に油を注ぐ存在だった。

 デミルは人混みの間を滑るように走り、その人物に近づく。

 そして、胸ぐらをつかみ、問答無用で裏路地に引きずり込んだ。


「……ギケルッ!」

「げっ……、で、デミル!?」


 路地裏に放り出されたその男は、声によって即座に相手の正体に気づいたようだった。

 一目散に逃げだそうとするが、デミルはそのみぞおちを蹴りつけ、逃亡を防ぐ。


「げふっ……がっ……そ、そうカリカリするなって。まずは落ち着けっての」


 踏みつけにされながらも、ギケルと呼ばれた男はへらへらとしまりのない笑みを浮かべていた。

 平均よりやや痩せ型だが、どこにどう、という特徴の見出せない顔立ちであった。

 降参だ、とばかりに大仰に両手を挙げてみせる。

それを見て、デミルはゆっくりと足をどけた。


「……おー、いってえ。ったくよぉ、間抜けな密輸屋が通るって情報はどんぴしゃアタリだったろうがよ」


 腹をさすりながら、ギケルは独りごとのようにぼやく。


「情報の二重売りは御法度だったはずだ」


 のらりくらりとしたギケルの態度には付き合わず、デミルは刺すように言った。

 情報屋。それがギケルの職業だった。

 富も権力も人の生き死にですら、日々目まぐるしく錯綜するヴェノムにおいては、一つの情報が時には黄金の山ほどの価値を持つ。

 そして、一人の情報屋から買いつけられる情報は早いもの勝ちというのが、ヴェノム・シティの裏稼業でのルールであった。

 一度売った情報を情報屋は他者には漏らしてはならず、それを情報屋に強要してもならない。

 ヴェノムを無法都市と呼ばわるのは、表の世界の力無き人間達の言い分である。

 一度ヴェノムの闇に身をやつせば、そこには犯した者を即座に私刑に処す、無数の掟があった。

 だが、ギケルはどこか小馬鹿にするような目で、ちちっと舌を鳴らした。


「そいつはちげえな。

俺はあんたに『夜、光りモノを密輸した一団が裏道を通る』って情報を売った。

 で、別の団体さんに『盗賊のデミルがどこそこで狩りをするらしい』って情報を売った。

 ほら、違う情報だろ?」

「……貴様ッ!」


 いま一度胸ぐらをつかもうとしたデミルの腕を、ギケルはひょいっとよけかわした。

 腕力はないが、逃げ足と身のこなしなら盗賊にも引けをとらないのが、この男であった。

 ギケルの言い分は屁理屈に等しい。

 ドゥルガン達に情報を売ったのは自分じゃないとごまかすこともできるだろうに、ぬけぬけと言いぬける態度も小憎らしかった。


「あまり俺をナメるなよ」

「おいおい、よせよ」


 デミルが懐の短刀に手を忍ばせたのを見てとり、ギケルは再び諸手を頭上に掲げてみせた。

 そのくせ、ふてぶてしげな顔は変わりない。


「あんたの腕は百も承知だ。けどよ、いまこの街で俺がドゥルガンさんに逆らえるわけねえだろ」


 その名を耳にして、デミルの眼光がさらに鋭くなった。

 ギケルは早口になってまくしたてる。


「デミル、あんたもだ。

このおっかねえ街で独りで盗賊やれてんのはドゥルガンさんが目ぇ光らせてるお陰だろ。

 そいつを忘れちゃいけねえぜ」

「…………」


 デミルの腕が有無を言わさぬ速さで動く。

 ギケルがかわすどころか、反応すらできない間に短刀が閃く。

 だがそれは、ギケルの眼前でぴたりと寸止めされた。

 目の前にちらつく銀光に、さすがのギケルも顔を引きつらせ脂汗を流す。


「……お前の両眼が健在なのも、俺が短刀をひっこめたからだ、ということを忘れるな」


 押し殺した声でおどしつけると、デミルは情報屋に背を向けた。

 ギケルはふぅーっと全身からしぼり出すようなため息をついた。


「おい、どこいこうってんだ。そっちは金持ちしか用のねえ地区だろ」

「貴様に話す情報はない」


 デミルは鋭い声で言い捨て、再び表通りの人混みにまぎれる。

 ちょっとした雑談をしているつもりが、いつの間にか金になる情報を抜かれている。

 時にはそれが、人に知られると致命的な情報ともなりかねない。

 それがギケルという男であった。


―――


 ギケルが叫んだ通り、デミルが向かったのは色街ではなかった。

 デミルは娼婦を嫌っていた。

 いや、苦手意識がある、といったほうがより近いかもしれない。

 ヴェノムの娼婦は決して「弱者」ではない。

 寒村から身売りされた薄幸な少女を想像したら大間違いだ。

 いや、たとえ元の出自がそうだったとしても、すぐに変わる。

か弱い野菊もヴェノム・シティの毒をその身に吸い込めば、したたかな喰人花(しょくじんか)と化すのだ。

 そうなれない者は、この街では生き残れない。


 娼館には女達が創りあげた独自の自警組織があり、荒くれ者達であっても娼婦街で勝手は許されない。

 掟に反するような乱暴をはたらいたり、代金を踏み倒すようなマネをすれば、五体満足でそこから出ることはかなわないだろう。

 男は金を払い娼婦の身体を買った気でいるが、その実、相手を支配しているのは女の方であった。

 デミルもドゥルガン達に連れられ、娼婦たちに筆おろしの手ほどきを受けた身だ。

 色街の女にとって、デミルはいまだ、四つ足の獣からようやくヒトになりかけた“デミル坊”のままであった。


 とても、抱えている苛立ちをぶつけられるような相手ではない。

 だからデミルは、自分が捕食者の立場に立てる弱き相手を探すことにした。


 ―――女が欲しければ奪えばいい。ここはそういう街だ。


 一人結論付け、デミルが向かったのは奴隷市場だった。


 オルハン帝国の経済は奴隷資本なしには成り立ちえない。

 広大な農地の耕作や積荷の輸送、日々の雑事や身辺警護。

 帝都やヴェノムでは貴族のみならず、少々裕福な商人や工房を構える程の職人、土地持ちの豪農であれば、奴隷の一抱えくらい、持たない方が珍しいくらいだった。


 その中でもデミルが訪れたのは、貴族やごく一部の富裕層だけが入場を許される、高級奴隷の市場である。

 無論、表から堂々とではなく、忍びこんでのことだ。

 売買は全て屋内で行われ、その用途ごとに建物が分かれる。

 知らぬ者が見れば、公会堂(バシリカ)か何かと間違えそうな、大理石の立派な建物だった。


 個人の戦いなら獅子をも倒すと謳われる海侠族の戦士。

 読み書き算術をはじめ、高い教養を仕込まれた天外大陸の少年少女。

 奇矯な収集家(コレクター)に好まれる小人族や巨人族、両性具有族。

 美しい容姿と柔和な物腰を有した宦官(かんがん)

 高級奴隷市場は、ありとあらゆる希少な人種がひしきあう、博物館の如き様相だった。


 無論、デミルに用があるのは私娼候補の女奴隷の館だ。

 市場の至るところに見張り役の屈強な男奴隷がいたが、欲望の渦にまぎれ身を潜めるのは、デミルにとっては容易なことだった。

 女奴隷の売り場に目星をつけると、デミルは建物に侵入し、天井裏、梁の一角に陣取った。

 屋内を照らし、奴隷の陰影をどぎつく映すかがり火も、デミルの潜む天井までは届かない。

 

 売買はセリの形で行われていた。

 さながら劇場の舞台のような場所に、次々と全裸の女奴隷が立たされ、買値を叫ぶ貴族達と、それを煽りたてる奴隷商の怒号が飛び交う。


「さあさあ、つづいての商品は本日の一押し。

 いまはなきザザム王国国王陛下の一粒種、正真正銘亡国のお姫様アイリィだ。

 見てくれ、この真珠粒のような肌。下賤の者とは生まれからして違うってもんだ。

 年は十四、もちろん処女だ。

 眉は引き絞った弓弦のごとく、瞳はかもしかのよう、かんばせは雲にさしのぼった満月、つんと張った胸は若葉萌える丘陵のようじゃないか。

 それだけじゃない、彼女が歌えば草木もなびき、抱けば麝香の香りに包まれる。

 さあさあ、出し惜しみはなしだ。まずは五百ディムリオンから!」


 大仰な商人の物言いに、デミルは嘲笑の形に唇が歪むのを抑えきれなかった。


 ―――ザザム王国の王女が生きているなんて話は情報屋からも聞いたことがねえな。肌艶は油を塗ってごまかしてるし、髪色も染料のあとが見える。十四には見えねえし、未通ってのも嘘くさい。大方、膣に血糊でも仕込んでるんだろうさ。


 高級奴隷商といってもこの程度の質か、とデミルは呆れる思いだった。

 だが、そんな女奴隷も信じがたいほどの高値で落札された。

 

 女奴隷の中には、舞台の上にかがみこんでしまい、奴隷商からきつく叱責され無理矢理立たされる者もいた。

剥き出しの欲望にまみれた視線に耐えきれなかったのだろう。

 自身の境遇に絶望し、瞳からは生気が消えうせ、されるがままになる者もいた。

 気がふれたかのように泣きわめく者もいた。

 それとは対照的に、少しでも羽振りのいい客に買われようと、媚を含んだ流し目を客席に送り、ことさら自身の肢体を強調してみせる者もいた。

 どちらの態度も、デミルの心を動かすものではなかった。


 ―――つまらん見世物だな。


 ほんの気晴らしで女を抱くのであればどの娘でもいいようなものだが、デミルの気をそそる奴隷はなかなか現れなかった。

 会場の熱気が高まるのと反比例して、自身の心が興ざめしていくのを感じる。

 たしかに見目形なら美しい者も少なくないが、わざわざさらって抱くほどの気にはなれなかった。

 どうやらツキの巡りが悪い時は何をやってもダメらしい。

 嘆息一つつき、外に出ようかと身じろぎした、その時だった。


 ―――なんだ、あの女は。


 デミルの視線が、再び舞台上に引き戻された。

 それは、いままでの女奴隷とは異質な存在だった。

 奴隷商の紹介をうけ、堂々たる立ち居振る舞いで裸身をさらす。

 かといって、媚を売ったり痴態を見せるわけでもなかった。

 むしろ、自身が品定めをするかのような目つきで、客席を見回していた。

 全身から溢れんばかりに漂う矜持と気品は、とても奴隷のものとは思えない。

 商人の紹介も彼女の容姿を褒めたたえるばかりで、その出自も、なぜ奴隷に身をやつしているのかもまったく分からなかった。

 心なしか、客席も彼女の威容に気押されたかのように、低くざわついていた。


 そして何故か、デミルは憑かれたように彼女の姿から目を逸らせずにいた。

 鼓動が早くなり、妙に息苦しい。それを冷静に自覚できる判断力も失せていた。

 こんなことは、デミルにとって初めての経験であった。


 容姿だけでいえば、女はデミルの好みではないはずだった。

 女にしては長身で線が細く、肌は病的なまでに白かった。

 髪の色もまたほぼ白色に近いプラチナブロンドで、腰まで届くほど長い。

 年齢は掴みづらい。幼い少女のようにも見えるし、デミルよりもずっと年上のようにも見えた。

 

それまでの女奴隷と引き比べても遜色ない、どころか他が色あせてしまうほどの佳人であったが、デミルは白い肌も痩躯(そうく)も好まない。

 寒さに打ち震え、飢えに苦しんだ、生地の森の冬を想起させるからだ。

 デミルの好みはどちらかというと、肉つきよく、褐色の肌色をした南方系の女だ。

 それにも関わらず、デミルはその姿に目を奪われたままだ。


 ―――あの目だ。


 と、気づく。

 女の琥珀色をした両眼は、複雑に光を宿し、その奥が覗きこめない。

 その瞳が、無性にデミルを挑発する。

 そして、ほんのわずかに浮かべる微笑だ。

 それは客席に向けた愛想などではまったくなく、女の胸中を謎めいてみせる、魔性の微笑みであった。

 あの女を抱き、その胸の内を覗いてみたい。

 それは、昨夜から引きずり続けた憤りを一瞬で忘れるほどの、狂おしい衝動だった。

 

 すると、女が何かに気づいたように、ふと上を向いた。

 建物の天井―――、ちょうどデミルのいる場所に向かって微笑を投げかける。


 ―――俺に気づいた?


 そんな馬鹿な、と思う。

 それは一瞬のできごとで、女はもう客席の方しか向いていなかった。

 あるいはただの錯覚であったかもしれない。

 だが、一瞬目が合った、という思いがデミルの決断を後押しした。


 ―――いいだろう。


 願望を抱くのとほぼ同時に、デミルは行動に移していた。

 即断即決もまた、この街で生き残る秘訣の一つである。

 懐から火打ち金を取り出し、石英板とこすり合わせる。

 生まれた火花を用い、手製の発煙筒に火を点け、会場に放りこむ。


 途端、会場は自身の鼻先すら見えない、白い濃霧に包まれた。

 煙の正体は、ヴェノムの裏市場で取引される特殊な茸だった。

 乾燥させ火を点けると、大量の煙を発生する。

 煙いだけでほぼ人体には無害だが、すわ火事か、と場内は騒然となった。

 客達は周囲も見えない状況で出口に殺到しだす。

 大混乱の中、デミルは音もなく舞台に降りたった。

 そして、短刀の柄で女に当て身をくらわせ、担ぎあげる。

 あとは、あらかじめ見当をつけておいた裏口から出て、いまだ混乱の続く会場を後にするだけだ。


 市場を出る頃には完全に日も落ち、辺りは夜のとばりに包まれていた。

 昨夜と同じく、煌々と月の照る夜だったが、問題はない。

 女一人抱えたくらいで動きの鈍るデミルではなかった。

 人目につかないよう、素早く裏路地に紛れこむ。


 デミルが女を連れ込んだのは、普段のねぐらとは別の空き家だった。

 奴隷市場の会場とさほど離れてはいない場所だが、追手の心配はしていない。

 でたらめに乱開発され、生者と死者も目まぐるしく立ち変わる大都市ヴェノム・シティである。

 隠れ家の候補にはことかかない。

 行き止まりに見える場所に抜け道があり、人家に見える場所が廃屋だったりする。

 さらに地下道なども含めれば、都市全体が一つの迷宮の様相を呈していた。

 デミルとて、その全貌は到底把握できないが、人目につかない逃走経路の候補は、街のどこにいても常に複数、頭の中に存在していた。


 デミルに運ばれる途中、女が目を覚ました気配があり、負う背が軽くなった。

 だが、女は特に声を上げて騒ぐでもなく、抵抗するそぶりも見せなかった。

 空き家に着くとデミルの背からみずから下り、裸であるのもかまわず、家の中を探って回った。

 デミルの方を振り向いた時も、顔色一つ変えない。


「ここは安全なのかしら」


 その声音も落ち着きはらったものだ。

 まるで馬車で邸宅に送られた貴婦人かのように、平然と問う。

 これにはさすがのデミルも面喰らった。


「ああ、まず誰にも見つからん」


 間が抜けていると思いつつも、そう答えてしまう。


「そう、便利な街ね」


 女は怯えるどころか、優雅ともいえる所作で適当な臥台に腰かけ、「あなたも座れば」と目線でデミルに促した。

 こいつは状況をまるで分かってないのか、とデミルは思う。

 女の立ち居振る舞いは何気なくしていても優雅で洗練されて見える。

 薄い壁の隙間から洩れる月明かりに照らされた裸身には傷一つなく、大理石の彫刻のようだ。

 ほっそりと伸びる指先などは、装身具よりも重いものを持ったことがない、と言われても納得してしまいそうだ。

 

 没落した大貴族の御令嬢、そんなところだろうか。

 だとすれば、デミルのことも父母に雇われ、救出に来た召使いくらいに思っているのかもしれない。

 これほどの上玉なら、奴隷商もぞんざいには扱わないだろう。

 世間知らずのお嬢様なら、そのうち迎えが来ると思いこんでいても不思議はない。

 自分が奴隷の身に堕ちた、ということすら正しく認識できていないのかもしれない。


 だが、女はデミルの推測をあっさりと裏切り、さもおかしげにつぶやく。


「奴隷にされたヒロインが脂ぎった金持ちに売られそうなところを、盗賊が横からさらっていく。

 帝都ではやった三文芝居みたいな筋書きだけど、まさか現実に起こったりするのね」


 他人事のように言っているが、自分が盗賊にさらわれたという認識はあるらしい。

 それでもなお平然としていられるのは、もしや気狂いだからだろうか。

 だとすれば面倒な拾いものをしたことになるが、女の言動からは確かな知性が感じられ、正気を失っているようにも見えない。


「お前は帝都の人間なのか?」


 デミルが問うと、女はさもおかしげに「あはははは」と声に出して笑った。

 あけっぴろげで無邪気な笑いだった。


「おかしなことを訊くのね。

 ……ええ、昔はね。でも、今はご存じの通り、奴隷の身よ」


 たしかに、相手が商品でしかない奴隷だとすれば、デミルが発したのは的外れな問いだ。

 しかしデミルは、その事実を忘れそうになる。

 女から奴隷にはないはずの、強い“意志”の力を感じるからだ。


「盗賊さん、お名前は?」

「……デミルだ」

「デミル、ね。わたしはアセナ。

 ご用があるのはわたしの身体だけかもしれないけど、挨拶くらいはしておきましょう。

 人間(・・)として、ね」


 アセナと名乗った女は軽く背をのけぞらせ、またもおかしげに哄笑をあげる。

 そんなに俺の問いがおかしかったか、とデミルは憮然となる。

 このやりとりなども、とても盗賊とさらわれた奴隷のものとは思えない。

 他の女であれば、会話をかわすどころか、怯える相手を力任せに押し倒し、コトを済ますだけだ。

 そうした行為にいまさら痛痒を覚えるデミルではなかった。

 だが、どうしたことか、アセナと名乗ったこの奴隷相手には、場の主導権を握られつづけているような気がする。

 より不可解なのは、その状況をさして不快に思っていない自分がいることだった。


「デミル、お仲間はいるの?」

「……いや、群れるのは嫌いだ」


 何故、自分は問われるままに応えているのか。

 自分がナメられているなら、何故それで平気なのか。

 短刀を突きつけるなりなんなりして、女の態度をあらためさせようとしないのか。

 考えてもデミルには答えが出なかった。


「そう。かわいそうな人ね」


 一瞬、アセナは微笑を消し、いたましげに眉尻を下げた。

 その顔には、演技とは思えない同情の念が宿って見えた。

 デミルには、何故自分がそんな視線を向けられたのか分からない。


「それは俺が独りだから、という意味か?」

「いいえ」


 アセナは小さくかぶりをふる。

 そして、次の瞬間にぐいと顔を近づけ、耳元にささやく。

 デミルは耳たぶを噛みちぎられるような心地がして、一瞬硬直してしまう。


「わたしに出会ってしまったからよ」


 ささやき声を乗せた息吹きがデミルの耳孔をくすぐる。

 それは甘い毒となって、耳の穴から脳髄まで届き、デミルの思考を麻痺させた。

 アセナは乗り出した上体を戻すと、至近距離からデミルの両眼を覗きこむ。

 謎めいた微笑は相変わらずだが、それはどこか獲物を捕えた狩人のようにも見えた。


 ―――いま、俺はなにをされた?


 初めて奴隷市場で彼女の姿を見た時以上に、デミルの鼓動が早鐘を打ち、全身の血管が暴れるような胸苦しさを感じる。

 混乱するデミルをよそに、アセナは数歩ゆっくりと後ずさる。

 その所作もまた、仔猫が爪先立ちになるような蠱惑的なものだった。


「さ、寝台にいきましょう。

 そのためにわたしをさらったのでしょう?」


 デミルにはもう、言葉をもって返答する余裕はなかった。

 ごくり、と生唾を呑み、見えない糸に引き寄せられるように、アセナの元へ歩み寄る。

 琥珀色の、底ののぞけない瞳に魅入り、目を逸らせなかった。

 女の好みなど、なんの関係もなかった。

 剥き出しの白き四肢が魔性の魅惑を放って見えた。

 この夜、デミルは、娼婦に仕込まれた床上での手練手管をすべて忘れた。

 ただ、一体の獣へと立ちかえり、無我夢中でアセナの上へと覆いかぶさった。


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