始業式前夜
「始業式前夜」
弘君は明日の始業式が憂鬱でした。
夏休みの宿題は終わっています。でも、学校には行きたくなかったのです。
居間でテレビを見ながらビールを飲んでいるお父さんの側に座り、愚痴をこぼしてみました。
「ああ、明日は学校に行きたくないなあ」
お父さんは振り返って弘君の方を見ます。
「なんだ、弘。だらしがないぞ。そんなことでどうする。来年は高校受験だぞ。いいか、人生というものはな、戦いの連続だ。周りのやつらを蹴散らして勝ち抜いていかないと金持ちになれないぞ」
そうですか、と気のない返事をして弘君は部屋を出ました。
台所では、お母さんが夕食の後片付けをしています。
何気ない振りをして母の側に行き、ため息をつきました。
「明日は学校に行きたくないなあ……」
お母さんは食器を洗う手を止めて弘君を見ます。
「何を言ってんのよ、弘ちゃん。学校に行かなければ勉強が遅れて成績が下がるでしょ。それに内申書も悪くなるから受験に不利だし……」
うん、とうなずく弘君。
「学校で何かあったの? 先生に相談してみようか?」
「いや、別に何もないよ。夏休みで少しだらけたんだよ。なんでもないよ」
そう言って弘君は台所から出ます。
学校でいじめられていることなど相談しても仕方がないと思っていたからです。以前、先生に言ってみましたが、先生は加害者の生徒に軽く注意しただけで、問題は何も解決しなかったのです。それどころか、いじめは先生の見えないところで陰湿に行われるようになりました。
弘君は途方に暮れて、自分の部屋に向かいます。
「ああ、もう死んじゃおうかな……」
小さくつぶやくと、本当に死んでもいいやと思えてきました。
廊下を歩いていると、おばあさんの部屋からお経が聞こえてきます。
ふすまを少し開けて中を覗くと、おばあさんが仏壇に向かって手を合わせていました。
弘君は、おばあさんの後ろに座ります。
「どうしたんだい。ヒロちゃん」
「うん、明日は登校日なんだけど、行きたくないんだよな」
「そう……」
おばあさんは、じっと弘君の顔をうかがいました。
「何かあったのかい?」
「うん……、まあ友達とね……うまくいかなくて」
おばあさんはしばらく黙っていましたが、やがて口を開きます。
「だったら行かなきゃいいじゃないか」
えっと言って、おばさんの顔を見ました。
「どうしても行きたくないんだったら、行かなければいいんだよ」
「でも、でも……そうなると勉強も遅れるし学校からも何か言われるでしょ。それに世間体が悪いだろ」
「ヒロちゃんは学校が嫌で仕方がないんだろ」
小さくうなずきます。
「学校に行くのが嫌でいやでしょうがないのなら、行かなくていいんだよ。死にたい思いをしてまで行く価値のない場所だよ学校は」
弘君の心が空白になりました。おばあさんは弘君の心中を察していたのです。
「ヒロちゃんは良い子だよ。ヒロちゃんが悪いんじゃないよ。無理しなくていいんだよ。そのままでいいんだよ」
弘君の目から涙があふれます。
「学校に行かなくても何とかなるよ。数年後には笑い話になるさ」
おばあさんの胸に抱きつきました。今まで自分はダメだと思っていた劣等感を消してくれたのです。弘君は声を出して泣きました。
「どうしても嫌だったら逃げだせばいいのさ。それは恥ずかしいことじゃないんだよ」
おばあさんの声が優しく聞こえます。
弘君は、やっと自分の居場所を見つけたのでした。