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レーニンの毒饅頭

作者: ウツワ玉子
掲載日:2026/02/04

クリックしていただきありがとうございます。


拙作『大坂の幻〜豊臣秀重伝〜』の筆が進まず、気分転換に書いた仮想戦記の世界を適当に書いてみました。


およそ小説とは言えない文章ではございますが、皆様の想像の翼を広げる一端になれば幸いです。

 1919年(大正八年)6月28日。フランスのベルサイユ宮殿にてベルサイユ条約が調印された。


 同じ日。スウェーデンのストックホルムにて、もう一つの条約が調印された。『同盟及び連合国とソビエト社会主義ロシア共和国との平和条約』と言われるこの条約は、歴史上『ストックホルム条約』として知られている。

 この条約は、英仏日米伊といった連合国を構成していた主要国と、1917年(大正六年)11月9日に成立したソビエト社会主義ロシア共和国との間に結ばれた平和条約であった。


 1917年(大正六年)11月7日。ウラジーミル・イリイチ・レーニン率いるボルシェビキが十月革命により政権を奪取。いわゆるソビエト政権を樹立させた。

 その後、1918年(大正七年)3月3日にソビエト政権は反革命勢力との内戦に力を注ぐため、ドイツを中心とする中央同盟国との間にブレスト=リトフスク条約を結んだ。

 この条約は後に失効したとはいえ、ソビエト政権が国内の反乱を鎮圧するために自身の利権を他国に譲渡した最初の例となった。

 そして、この条約を知った連合国は、同じことをソビエト政権に要求した。


「旧ロシア帝国が国外に持っていた利権をすべて引き渡せ。しからばソビエト政権を認める。内乱にも干渉しない」


 ストックホルムで連合国と交渉していたソビエト政権代表のマクシム・リトヴィノフに連合国の代表団はそう要求した。

 帝国主義丸出しの要求はすぐにモスクワに移っていたレーニンに伝えられた。レーニンは苦悩の末、連合国の要求を取り入れる。


「今は革命を成功させることを第一に考えよう。革命が成功し、全世界の労働者が解放されれば、自ずと戻ってこよう」


 レーニンは強硬に反対したレフ・トロツキーに涙ながらにこう言ったとされる。


 こうしてソビエト政権は、旧ロシア帝国が有していたロシア国外の利権を列強に切り売りした。


 フランス共和国には、ウクライナにおける独占的な経済利権と穀物・地下資源の優先輸出権、そしてクリミア半島の租借権(期間は50年)が与えられた。


 大英帝国には、ブラハ・アミール国を始めとする中央アジアにある君主国の保護権が与えられた。すなわち、インドの緩衝地帯であるペルシャ、アフガニスタンの北に、さらなる緩衝地帯ができたのである。


 イタリア王国には、バクー油田へのアクセス権と南コーカサス地方での経済的優先権が与えられた。


 大日本帝国には、北満州及び外蒙古にあったロシア帝国の利権すべてが与えられた。


 アメリカ合衆国には、北樺太の領有権が与えられた。


 また、ストックホルム条約とは別に、ソビエト政権は中華民国とも独自に交渉し、新疆省にあったロシアの利権を中華民国に引き渡した。こうして、ソビエト政権は皇帝ツァーリが有していた国外利権を手放し、代わりに時間を手に入れることができたのだった。





 ストックホルム条約締結の際、連合国の外交団の前に現れたソビエト政権の外交団の代表は、それまで交渉人として渡り合っていたリトヴィノフではなかった。

 代表を称するその男―――ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・スターリンは、連合国の外交団の前で演説する。


「諸君。本日、ここストックホルムにおいて、我々は長い戦争と混乱の時代に、一つの区切りを与えることとなった。それは武器によるものではなく、対話と合意によるものである。

 ロシアは、かつて大きな帝国であった。そして今、新しい国家として再出発しようとしている。その過程で我々は理解した。国家が生き延びるために最も必要なのは、敵を増やすことではなく、信頼を積み重ねることである。

 本日締結される条約は、勝者と敗者を定めるものではない。それは、各国がそれぞれの責任と現実を認め合い、これ以上の混乱を防ぐための合意である。

 我々は、旧ロシア帝国が担ってきた多くの対外的な関与を整理し、それを諸君の国々に委ねることを決断した。この決断は、後退ではない。ロシアが自らの再建に専念するための、前向きな選択である。

 我々は約束する。ロシアは、他国の内政に干渉しない。武力によって秩序を乱さない。そして、平和的な通商と外交を重んじる。

 同時に、我々は感謝している。諸君の国々が、この困難な時期において、ロシアという国家の存続と安定を国際社会の一部として認めたことに。

 思想や制度の違いは、今後も存在するだろう。しかし、それは対立の理由にはならない。異なる国家が共存することこそが、近代の国際秩序の基礎である。

 本日ここで結ばれる合意は、永遠の同盟を約束するものではない。だが、不要な敵意を終わらせ、対話を続けるための確かな基盤となる。

 ロシアは、世界に挑むためではなく、世界と共に存在するために立ち上がる。

 本日の合意が、諸君の国々にとっても、そしてロシアにとっても、安定と予測可能性をもたらすことを願う。

 これが、新しいロシアの立場であり、我々が国際社会に示す誠意である」


 グルジア訛りが含まれているものの、穏やかな声色でそう演説したスターリンに、各国の外交団は惜しみない拍手を送った。そして、我先にと握手を求めた。


 後にこの話を聞いたウィンストン・チャーチルは、回顧録にこう書いた。


「あの日、我々は平和を買ったつもりでいた。だが実際には、利息付きの時間を借りただけだった。利息と元本は、いずれ銃剣で回収される運命にあった」


 さらに現代の、とある日本の歴史作家は、辛辣な言葉をその小説内に書き記している。


「ソビエト政権が列強に引き渡したのは、皇帝(ツァーリ)のパスハ(正教会の復活大祭に食べられるチーズを使ったケーキ)ではなかった。レーニンの毒饅頭であった」





 レーニンの毒饅頭を喰らった列強は、とりあえずその旨味を最大限に味わうことにした。


 フランス共和国は動員令の解除を中止すると、イギリス海軍の支援を受けつつも黒海になだれ込んだ。

 希土戦争の最中であったボスフォラス=ダーダネルス海峡を英仏の戦艦が押し渡り、さらにフランス兵を載せた大量の輸送船が海峡を通過した。トルコはもちろん、ギリシャですらもこの艦隊に手を出せなかった。

 英仏連合艦隊はそのままクリミア半島に到達すると、セヴァストポリ軍港にフランス兵が上陸、これを占領した。フランス軍がセヴァストポリに入ったのは、クリミア戦争でセヴァストポリが陥落して以来、64年ぶりであった。


 クリミア半島からウクライナ本土へ侵入したフランス軍は、ウクライナを支配している赤軍と交渉を行い、未だくすぶっているウクライナ人民共和国軍の残党を共同で掃討したり、他から流れてきた白軍(ロシア革命に反対する軍)を撃破すると、ウクライナ全土に散らばる鉱山や農地を接収した。


 その後、フランスは地主や自営農家(クラーク)を赤軍やウクライナ・ソビエト政府による迫害から守りつつ、ウクライナから生み出される農作物や鉱物をセヴァストポリやオデッサの港からフランスへと運び出していった。

 もっとも、1920年(大正九年)から1922年(大正十一年)、そして1931年(昭和六年)から1933年(昭和八年)まで続いた飢饉では、フランスは人道支援という観点から、ウクライナからは穀物の運び出しを行わなかった。それどころか地元のウクライナ・ソビエト共和国やソビエト連邦に格安で売却した。結果、コルホーズ(集団農場)の急進化による混乱でソビエト全土で食糧不足となりつつも、餓死者が抑えられることとなった。





 大英帝国はロシア帝国が保護国化していた中央アジアの国々を保護国にした。といっても、イギリスは中央アジアの国々に軍隊を派遣しなかったし、経済的な進出を行わなかった。多少の武器の援助と、ハーンやアミールと呼ばれる首長やそれに仕える貴族達の子弟をイギリスに留学させることしかしなかった。


 イギリスが欲したのは最大の市場でもあり、資源の収奪地でもあったインド防衛であり、インド周辺の緩衝地帯であった。

 そして、ペルシャ、アフガニスタンの北に緩衝地帯ができたことは、イギリスにペルシャやアフガニスタンに対して強気に出られることを意味していた。

 特に、イギリスからの自由を望むアフガニスタンに対し、イギリスは軍事力を持って対応。それまでイギリスとロシアの『グレート・ゲーム』の間で綱渡りをしてきたアフガニスタンは、ソビエト・ロシアが中央アジアから手を引いたことでイギリスの軍事的圧力に屈服することとなった。

 そして、ペルシャとアフガニスタンを緩衝地帯としてでなく、自国の勢力下に置いたイギリスは、インドに対して遠慮することなく植民地化をさらに押し進めた。第一次世界大戦で独立を約束したことを忘れたかのように独立運動を弾圧した。


 また、黒海がフランスの海と化したため、中東におけるイギリスの権益を守るべく、フランスとの協調路線を押し進めた。それはつまり、パレスチナをアラブ人の独立国家にする、もしくはパレスチナにユダヤ人の国家を作る、と言う相反する約束を反故にすることと同じことであった。

 イギリスは三枚舌外交を一枚の舌に戻した。国益のために残りの二枚舌を自ら切り離すことに、戸惑いはなかった。


 そして、『グレート・ゲーム』の勝者として、中央アジアでの勢力圏を確保する間、極東の安定化のために同盟国である日本をさらに頼ろうとするのであった。





 大日本帝国は北満州と外蒙古という広大な範囲を勢力圏に置くことになった。そのあまりの広さに日本政府は喜んだ。早速、陸軍を送り込むことにした。

 元々連合国としてシベリアに出兵する予定だった兵力を、ウラジオストクではなく大連に送り込むと、そのまま満州の鉄道網で北満州にまで進出した。

 北満州に乗り込んだ日本兵が見たものは、北満州の鉄道はもちろん、鉱山、農地、都市のすべてを調査している南満州鉄道株式会社(満鉄)の社員や技術者達であった。元々独自の調査機関を有していた満鉄は、すでにロシアが有していた北満州の利権の場所や特徴をすべて把握しており、あとは社員を派遣して実際に引き継ぎを行っていたのであった。


 こうして全満州の利権を手に入れた日本は、日本国内の貧民を満州へと送り込んだ。広大な土地を開拓し、食料を確保しようとしたのだ。また、鉄道や鉱山、都市経営のためのインフラ整備やそのインフラを造る工場が建築され、これらの労働者としても日本人が雇われた。結果、多くの日本人移民が満州に渡ることとなった。

 その結果、それまで南北アメリカに向かう日本人の量が相対的に減少し、アメリカにおける日本人移民排斥の動きが鈍化する、という副次的な結果も生まれることとなった。


 北満州を把握した日本は、続いて外蒙古に進出しようとした。しかし、満蒙国境を超える鉄道がなく、日本軍は長い距離を徒歩と馬による移動しかできなかった。なんとか外蒙古の首都であるフラー(今のウランバートル)に到達すると、フラーを占拠していた中華民国の軍閥を追い出し、ロシアの傀儡政権の国家元首たるボグド・ハーンに、


「外蒙古の保護者は、皇帝(ツァーリ)から大日本帝国天皇陛下に移った」


 ことを伝えた。


 この時、行軍と兵站確保に苦労した日本軍は、鉄道だけではなく新たな機動力として自動車を重視していくことになった。また、道路の建築や、燃料の補給をスムーズにするための研究も開始することになった。結果、日本国内で官民挙げての自動車産業への育成が始まった。

 また、第一次世界大戦の新兵器である戦車と航空機の研究も加速することになった。もっとも、戦車については、あくまで歩兵を支援するための兵器の範囲を超えるものではなかったが。


 その後、ロシアのウンゲルン将軍が白軍を率いて外蒙古に侵入、日本軍との戦闘になった。日本軍はボグド・ハーン政権の軍事的指導者、ダムディン・スフバートル率いるモンゴル人民革命軍と共にウンゲルン軍を撃破。ロシアに追いやることになった。


 こうして日本は外蒙古を勢力下に置くことに成功したものの、直後にボグド・ハーンやスフバートルが死去。スフバートルが作ったモンゴル人民党と軍事組織であるモンゴル人民革命軍が分裂。日本はソリーン・ダンザンのグループを支持し、エルベグドルジ・リンチノ率いるグループ(ロシア・ボルシェヴィキに近いグループ)を追放した。リンチノや彼のグループの一員であるホルローギーン・チョイバルサンはロシアに亡命した。


 これが後に、1939年(昭和十四年)5月に勃発する“蒙古の7日間戦争”“トハチェフスキーの実験”と呼ばれる蒙古戦争(ソ連による外蒙古への軍事侵攻のこと。結果、在蒙古日本軍の壊滅という大敗北)へと繋がるとは、この時の日本では誰も気が付かなかった。





 一方、レーニンの毒饅頭を喰らったものの、あまり旨味を感じなかった国もあった。


 イタリアは南コーカサス地方での経済進出を果たしたものの、イタリア特産のワインやチーズはグルジア産のチーズやワインに勝てなかった。


 また、バクー油田へのアクセス権を得たと言えど、カスピ海に面したバクー油田からイタリアへ運ぶタンカーの寄港先である黒海のポティまでの間には、鉄道があるとはいえ、長距離輸送を行う必要があった。そのため、石油を手に入れるためのコストがかえって負担となった。

 とはいえ、南コーカサス地方には豊富な地下資源があり、特にグルジアのチアトゥラで豊富に産出されるマンガンは製鉄に欠かせない鉱物であった。イタリアはこのマンガンを他国に売ることで、利益を得ることはできた。

 もっとも、このマンガンを利用してイタリアの製鉄業を成長させることには失敗した。国産の鉄鉱石は産出量が少なく、また石炭が取れないイタリアでは、製鉄業は成長しにくい産業だった。


 結局、第一次世界大戦での戦勝国でありながら勝者としての旨味を味わえなかったイタリアでは、その不満を吸収して膨張したベニート・アミルカレ・アンドレーア・ムッソリーニ率いるファシスト政権によって領土拡張を図るのであった。





 アメリカは北樺太の領有権を得た。他の列強が領有権まで得られなかったことを考えれば、アメリカへの優遇は明らかであった。特に、北樺太にはオハ油田があり、アメリカのオイルメジャーによる開発が期待されていた。

 しかし、アメリカ議会は北樺太が手に入ることに喜ばなかった。議会は北樺太の地理的条件が悪すぎることに気がついていた。

 すなわち、日本領である南樺太と国境を接し、同じく日本領である千島列島に囲まれた北樺太は、あまりにもリスクが高い土地であった。

 これで日本がアメリカの意思に従う友好国ならば問題はないのだが、国際連盟から南洋諸島(赤道以北のドイツ太平洋保護領のこと)を委任統治している日本は、ハワイ―フィリピン間を切断する潜在的な脅威としてみなされていた。さらに満州と外蒙古に勢力圏を拡大した日本と、中国で対立することは目に見えていた。


 そして、アメリカ政府とソビエト政権との間の交渉が議会に報告されると、議会はさらに反発した。

 当初、アメリカ政府はウラル山脈以西のシベリアでの経済活動の自由を要求していた。特に、シベリア鉄道の経営権とウラジオストクの租借を目指していたものの、ソビエト政府から「シベリアはロシアの領土であり、国外の利権ではない」と拒否。譲歩に次ぐ譲歩で北樺太の領有権しか認められなかったことが発覚。アメリカ政府がサハリン島の半分しか領有権を得られなかったことに反発した。

 そこで、議会は政府に勧告を行う。


「ハワイ―フィリピン間の航路を確保するため、北樺太と南洋諸島を交換するよう、日本と交渉するべし」


 こうして、アメリカ政府は日本との交渉を始めた。


 日本国内では海軍を中心に「先の大戦(第一次世界大戦のこと)で手に入れた領土・・・ではなく委任統治領を手放すことはできない」という声が上がったものの、陸軍や他の省より、


「南洋諸島の防衛よりも、北方の防衛に力を入れるべき」


「日本の勢力圏の真ん中に米国領があるのは危険だ。南洋諸島を手放してでも、入り組んだ領土を解消すべき」


「アメリカは北樺太の油田も日本に譲渡しようとしている。油田が手に入るのであれば、多くの燃料を消費する海軍にとっても利点であろう」


 という声が大多数となった。


 しかし、問題は南洋諸島は日本の領土ではなく、日本が国際連盟から託された委任統治領なことであった。当時、アメリカは国際連盟には加入していないため、国際連盟を通じてアメリカへの委任統治などできなかった。

 日本はイギリスやフランス、イタリアの常任理事国と協議した結果、本来独立するには難しいC式であった南洋諸島を無理やり独立させた後、アメリカが保護国として管理することとなった。


 こうして、日本とアメリカはワシントン軍縮会議が行われている最中に、ワシントンD.C郊外にあるベセスダという町で条約を締結。北樺太・南洋諸島に関する日米の条約(通称ベセスダ条約)が締結されることになった。

 結果、北樺太は日本領となり、住民は一部の白系ロシア人がアメリカ国籍を得てアメリカに移住した者以外は全員が日本国籍を有することになった。そして、北樺太にあった油田はすべて日本に売却された。金額は高かったものの、日本はこの時初めて『日の丸油田』を持つことができた。


 そしてワシントン軍縮会議が合意のもとで終了し、世界は海軍休日ネイバル・ホリデーを迎えた。対米英比率6割を受け入れた日本は、ロンドン軍縮会議でもその姿勢を続け(ただし、日本海やオホーツク海の荒波を考慮し、特型駆逐艦の量産は認められた)、さらに第二次ロンドン軍縮会議でもその姿勢を続けた。日本が対英米6割の海軍力に甘んじたのは、総じて満州・外蒙古に自動車化された陸軍を配備するためであった。


 また、この会議の後、日本とイギリスは同盟を結び直した。これは、ユーラシア大陸における日英の勢力範囲を確認することにあった。一方で、アメリカを刺激しないよう、日本とイギリスはそれぞれアメリカと協商を結んだ。日米は太平洋での勢力範囲を確認し、米英は大西洋での勢力範囲を確認した。


 アメリカはハワイから南洋諸島を抜けてフィリピンへ向かう安全なルートを手に入れた。ワシントン条約で南洋諸島の非要塞化が確認されたため、軍隊を駐留させることはしなかったものの、南洋諸島の各地に飛行場や港湾施設を建造していった。これらのインフラ整備はアメリカ経済を刺激し、一部を下支えし、特定産業の成長を促した。

 飛行艇による太平洋航路が最盛期を迎えたのもこの頃であり、日本の航空会社による横浜―サイパン間の飛行艇空路との接続で日本―アメリカ間の空路がより安全に、快適になったのもこの頃であった。


 そして、太平洋を横断したアメリカ資本は、欧州が不安定さを増す中で相対的に開放的であった中国市場に目を向け、世界恐慌を迎える前に次々となだれ込んでいったのであった。





 その中国こと中華民国であるが、ソビエト政権から新疆省の利権を返還してもらったものの、その利権を活かすことはできなかった。内戦で忙しかったからである。

 中華民国北京政府は孫文の跡を継いだ蒋介石率いる国民革命軍により崩壊。北京政府の最大実力者である張作霖は本拠地である奉天へと逃れた。

 そこで満州の利権を利用して北京への返り咲きを図ろうとするが、満蒙の利権確保と新領土である北樺太の統治安定化を目指すために中華民国と事を構えるのを嫌がる日本とで摩擦が発生した。結果、日本はイギリスとアメリカの黙認の下で張作霖・張学良親子を逮捕。その身柄を蒋介石に引き渡した。彼等は長い間、南京にて監禁されることになった。

 この結果、中華民国は満蒙へ手を出さず、日本も満蒙から南下することもなかった。蒋介石は満蒙の抗日運動には手を貸さず、日本も華北や華南での抗日運動を無視した。華北や華南での日本企業は、抗日運動を受けて満蒙に脱出したが、それらの企業を受け入れるだけの余裕を、満蒙はまだ持っていた。


 その後、蒋介石はソ連に近づいたりドイツに近づいたりとフラフラしながらも、結局はアメリカに近づいた。アメリカに中国内での経済活動の優先権を与える見返りに、資金と武器弾薬を受け取ることができた。この援助で、蒋介石は中国共産党と追い詰めつつ、自らの権力基盤を固めていった。

 一方のアメリカは、他の列強がレーニンの毒饅頭を味わっているのを尻目に、中国市場との結びつきを静かに深めていった。それは勝利でも選択でもなく、ただ、太平洋を渡った資本が行き着いた先が、そこだったというだけの話であった。





 第一次世界大戦で勝利した連合国は、その後20年にわたって勝者の平和を享受した。だが、その20年間はソビエト政府に貴重な時間を与えた。


 外国の支援を受けない反革命勢力は、レフ・トロツキー率いる赤軍によって早期に粉砕された。そのため、当初計画されていた戦時共産主義は計画だけに終わり、そのまま新経済政策(通称ネップ)に移行した。ニコライ・ブハーリン指導による漸進的な社会主義経済は、革命後のロシアを癒やし、着実に国力を上げていった。そして、ヨシフ・スターリンによる国内の締付けにより、共産党による一党独裁政治が完成していった。

 1922年(大正十一年)にロシア・ソビエト社会主義共和国とカザフ・ソビエト人民社会主義共和国、白ロシア・ソビエト社会主義共和国でソビエト社会主義共和国連邦が成立した後は、外国資本を受け入れつつもさらに国内の安定化を図った。

 1924年(大正十三年)にレーニンが死去。その後はトロツキー、ブハーリン、スターリンによる三頭政治の下、五ヶ年計画による重工業の発展、トハチェフスキーによる軍事改革を経て再び軍事力を強大化させていった。それは、レーニンが手放した利権を再び手に入れるためのものであった。


 そして1939年(昭和十四年)5月。外蒙古から回収を始めた。それが、かつてレーニンが時間と引き換えに差し出した饅頭が、毒であったことを世界が理解し始めた瞬間であった。




 最後に、ドイツはどうなったか?敗戦国として没落したドイツは混乱の後、アドルフ・ヒトラー率いるナチスが政権を掌握。経済を立て直すと拡張主義を取り入れるようになった。特にヒトラーは東方生存圏として、フランスが甘い汁を吸っているウクライナへの野心を持ち始めるようになった。

 ドイツのウクライナへの野心は、ソ連がレーニンが手放した利権の回収を始めた直後、1939年(昭和十四年)9月に行われたポーランド侵攻で決定的となる。ヒトラーはウクライナへの玄関としてのポーランドを手に入れたからだ。

 しかし、ヒトラーはここで軍を止める。何故ならば、ウクライナを手に入れる方法は、直接的な手段だけではないからだった。ここで、ヒトラーの心の中に分け入ってみよう。


「ポーランドからウクライナへの道は開かれている。しかし、それを黙ってみているようなソ連ではあるまい。我がドイツ陸軍(ヘーア)がウクライナへなだれ込んだ瞬間、モンゴルで日本を叩き潰した赤軍の機械化部隊が、ドイツ陸軍の側面を突くことは間違いないだろう。しかし、精強で鳴らすドイツ陸軍ならば、これを打ち砕くことは可能ではないか?」


「・・・いや、未だ戦争準備ができていないフランス本土になだれ込み、さっさと降伏させたほうが良いのではなかろうか?そしてウクライナ利権をドイツに渡すことのみを条件として講和すればよいではないか。寛大な条件でフランスを降せば、イギリスも反発こそすれ、これ以上戦おうとは思うまい。仮に戦争継続となっても、ドイツ海軍(クリークスマリーネ)での海上封鎖とドイツ空軍(ルフトヴァッフェ)による空爆でイギリスを抑え込めるであろう。そうなれば、イギリス国内は厭戦気分となり、講和にこぎつけるであろう。

 あとはフランスとの講和で得たウクライナへゆっくりと入ればよいではないか。ソ連もウクライナを欲するだろうが、こちらは合法的にウクライナを譲られたのだ。手放したソ連にどうこう言われる筋合いはない。仮に赤軍を動かしたとなれば、それはそれで戦って勝利すれば良い」


 ヒトラーは、ウクライナの泥濘期(ラスプーティツァ)が終わる12月までに決断しなければならなかった。





 利権を取り返したいソ連と、膨張を隠さないドイツ。そして現状の平和を貪る列強。世界は再び大戦への道を進むのであった。


昔から第二次世界大戦の仮想戦記が好きで、一度でいいから書いてみたいな、と思っていました。


そのプロットを色々作っていくうちにできたのが、この『もしもブレスト=リトフスク条約の連合国版があったら』というIFでした。


この世界線でいろんな小説を書いてみたかったんですが、あまりにも派生する小説が多く、また短編としてではなく長編として長く書く羽目になりそうなことが分かり、この世界線での小説の執筆を断念しました。


ただ、せっかく作った世界線ですので、これを投稿し、皆様でこの世界線の第二次世界大戦がどうなるのか?を考えて楽しんでいただけたら良いな、と思っています。

また、以下のような細かい設定については、小説内で明記しておりません。


・対英米6割に甘んじる日本海軍の具体的な姿

・機械化された日本陸軍の具体的な姿

・戦闘機を始めとする航空機の変化

・日英関係

・日米関係

・日仏関係

・日独関係

・独ソ関係(独ソ不可侵条約やポーランド分割の有無)

・英ソ関係(中央アジアでの対立?対ドイツ協力?)

・ソ連の蒙古戦争後の戦略(次に狙うは満州?ウクライナ?中央アジア?)

・小説内にあったヒトラーの決断(狙うはフランス本土?それともウクライナ?)

・蒋介石はどう動く?(満蒙奪還?それとも日本を盾にする?)

・アメリカの選択(中立?参戦?参戦するならどの陣営?)


これらの設定を自由に組み合わせて、どんな第二次世界大戦になるのか、を想像していただければ幸いです。


ちなみに、複数のAIに第二次世界大戦をシミュレートしてもらいましたが、共通しているのが『疲弊する世界と一人勝ちするアメリカ』でした。まあ、『過去の勝者だった日英仏』と『挑戦者ドイツ』と『元本と利息を回収する元気なソ連』の三つ巴じゃあそうなりますよね、という結果でした。

また、『満州事変は起きない。よって満州国も成立しない』となっています。確かに、蒋介石が抗日運動を満州でしなければ、事変を起こす必要ないですもんね。

あ、イタリアはAIによっては日英仏側についたり、ドイツについたり、中立だったりと結論が分かれています。ここらへんはAIもイタリアの地政学やムッソリーニの虚栄心をどう判断するか、分かれているみたいです。


なお、この世界線とは関係ない別のWW2を舞台にした仮想戦記を執筆中です。こちらも拙作『大坂の幻〜豊臣秀重伝』の息抜きとして書いたものですが、筆が乗ってしまい短編ではなく中編となっています。機会があれば投稿したいと思っております。


それでは、最後まで読んでいただきありがとうございました。

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