Identidad
宿を探し始め程無くして見つけたそれっぽい建物で、予想だにしない事件が起きた。
「二名様のご宿泊ですね、かしこまりました。では、こちらにご記入のうえ、『身分帳』の提出をお願いいたします」
「……身分帳?記入、だと?」
聞きなれない言葉に相棒と顔を見合わせる。
すると珍しく彼女も目を白黒させて狼狽していた。
非常に貴重な光景だ。
言葉から察するに身元を確認するものらしいが、それは不味い。というかそもそも、そんなものを俺たちは持っていない。
「はい。いかがされましたか?」
宿屋の主人は柔和な笑顔を浮かべながら、怪訝そうに首を傾げている。先の主人の行動を見るに、あの羽のようなものは文字を書くための道具だろう。わずかな期待を込めて相棒へ目をやるが、彼女は小さく首を振った。
「いや……それはどうしても必要なものなのか?」
「え?えぇ。ご宿泊される皆様にお願いしておりますが」
「お願いなら別に断っても構わんよな?なら断る」
きっぱりと言い切った俺をマジマジと見つめる主人。
あまりの男らしさに惚れ惚れしたのかもしれない。
「そう申されましても……これは組合の規則でして、守っていただかねば困ります」
「さっきはお願いと言ったじゃないか」
困り果てながらも笑顔を絶やさない主人。どうやら何かの冗談だと思っているようだが、生憎こちらは本気である。
なぜなら俺たちは身分帳も無ければ、文字の読み書きも出来ないのだ。天才でも知らないものはどうしようもない。
「いえ。世界中どこの宿も同じ規則ですが――」
主人の目がほんの一瞬、ちらりと俺たちの肩越しに後方へ向けられた。それを確認して、宿へ入ってきた時に見た光景を思い出す。
(視線の先は入り口……脇に突っ立っていた大柄の男を見たのか)
目を閉じて背後に意識を向ける。
ゆっくりとこちらに近づく気配があった。
「――こんな物騒な店に泊るのは止めだ。ここじゃ冗談は拳で交わすものらしい」
目を開いてわざと大げさに両手を広げ、肩をすくめる。
同時に、背後から近づいてくる気配がピタリと止まった。
防犯意識の高い店だ。それともこの町ではこれが普通なのか。
振り返ってみれば屈強な男が入口を離れ、驚いた顔で立ち止まっていた。
「どうした?何か用か?」
「……いえ。もう無くなったようです」
男がでかい図体を横にずらし、仕草で退店をうながす。
その脇を抜けながら、背中にちくちくとした視線を感じていた。さすがに怪しまれたらしい。
「まいったな。とんだ制度だ」
「屋根のある生活は望み薄ね」
結局その後、他の宿も回ってみたがどこも対応は同じだった。身分帳の提出と宿帳への記入。この問題が解決しない限り、俺たちは道端に転がって朝を迎えなければならないのだ。それも、おそらくはこの先ずっと。
最悪それ自体は別に構わないが、浮浪者の一人も見当たらないこの町では、人目につきすぎる。
「空き家でも探すか……それかいっそどこかに押し入るか?」
「いい考えね。アンタが警ら隊に捕まらないようなら後で私もお邪魔するわ」
さすがの立ち回りをためらいなく披露する相棒。
俺の身の安全を考慮する気は一切無い。
それでいて結果だけは享受しようというのだから、大したものだ。
そうしていい加減日も落ちてきた頃。
宿を諦めた俺たちは、少しでも目立たない場所を寝床にしようという結論に達した。
二人して不満を抱えながら路地裏を歩いていると、
「……空き家、か?」
目の前に現れたのは、いまにも崩れそうな木製のボロ家だった。外張りの木はささくれ変色し、窓枠も傾いて打ち捨てられたような外観。だが見るからに立て付けが悪そうな扉の穴や隙間から、かすかな明かりが漏れている。
「宿屋みたい。一応」
ポツリと落ちた相棒の声に視線をあげる。すると確かにかすれて消えかかってはいるが、今日一日で散々目にした看板があった。
「駄目でもともと、だな」
「そうね」
取っ手に手を添え、固い扉を半ば力づくでこじあける。
その拍子に内側で金細工が、カランカランと大きな音を立てた。
「あぁ……申し訳ありません、貢金はまだ――え?」
俺たちを出迎えたのは酷く弱々しい嘆くような声だった。
声の主はげっそりとやつれた顔をした中年の男だ。
おそらく宿の主人だろう。
俺たちを見るなり表情を失ったまま、微動だにしない。
「部屋は空いているか?」
主人の見た目からは同情を誘うような、暗く陰惨な気配が感じとれた。けれど訳ありだとしても俺たちには関係ないことだ。
「あ、あぁ申し訳ございません。お客様でしたか」
弾かれたように主人の身体が跳ねる。ずいぶんと気の弱い性格らしい。慌てて取り繕うと、ぺこぺこと頭を下げながら受付の準備を始めた。その手つきはおぼつかず、本当に宿なのかさえ疑わしいものだ。察するに長く客足が絶えていたのだろう。
「えっと、まいったな……どこに仕舞ったのやら」
受付台は乱雑極まりない。おまけに主人がガサゴソと漁るたびに埃が舞いあがり、相棒が不快そうに咳ばらいを零す。
「悪いがもう日も落ちてきた。急いでるんだ」
不機嫌そうな相棒を横目に、あえて語気を強めて主人に詰め寄った。もしかすれば、これは好機なのかもしれない。
試してみる価値はある。
「あ、さ、左様でございますか、申し訳ありません。とんだ不手際を」
「記帳なら後でしてやる。先に部屋へ案内してくれ」
噛みつくように主人の言葉を遮り、無造作に金を押し付ける。
この手の人間は押されるほどに冷静な思考を失っていくものだ。
「し、承知いたしました。あの、ひとまずお客さまのお名前を教えていただけますか?」
「ダンテ・ソーヤーだ」
名前を告げて主人の様子を観察する。
せわしなく揺れる瞳からは焦りしか感じない。ちらちらと入口に向けられる視線が気になるが、偽名に違和感を覚えた様子はなかった。どうやら名前はコレで通用しそうだ。
「……イヴ・バレッタ」
背後に妙な空気を感じた後、やけに力の入った声が聞こえた。
「――っ!?お前」
耳に飛び込んできた言葉に、思わずギョッとして振り返る。
そこにあるのはいつもと変わらない無表情。相変わらず感情の読めない相棒の顔だ。だからまったくその意図が読めやしない。
なんでこいつは本名を名乗ったのか。
「あの、どうかされましたか?」
動揺を鎮めるのに時間がかかったのは久しぶりだ。
コイツは……どの口でいままで俺に「気をつけろ」などと宣っていたのか。
(――それより、いまの間は不味い)
主人に冷静さを取り戻す隙を与えてしまった。
「なんでもない。部屋の鍵をくれ」
「かしこまりました。ではその前に身分帳の確認だけ」
それ見たことか。上手くいきかけていた流れがご破算だ。
最後のチャンスだったのに。さすがに今回ばかりは文句の一つでも言ってやらねば気が済まない。
「お前な」
恨みがましい目をイヴに向け、口を開いたその時。
入り口の方から騒々しい足音が聞こえてきた。
どうやら客の来店らしい。
ただ――店主の望まない客のようだが。
イヴもその不穏な気配に気づいたのか、入口へ振り返る。
その直後。
バンッ!と勢いよく宿の扉が開き、壁に叩きつけられた。
「邪魔するぜぇ!」
「あ……」
顔を真っ青に染めた主人が震え声を上げる。怯える視線の先にはずかずかと、ことさら大きく足音を響かせながら入ってくる男たち。数は四人、首元に見覚えのある黒い鎖を下げた黒ずくめの服装だ。
――黒鎖宝龍。
確かそんな名前の連中だった気がする。




