009:第0章「人生で一番最悪なバレンタイン」②
「梨名、もう出かける時間じゃないの? 航季くんの試合、始まっちゃうわよ?」
「ん……あと、もう少し……」
梨名はまだキッチンでチョコを包んでいた。
なぜ時間がかかっているのかというと、包み紙に梨名は柄を描いていたのだ。
一枚、一枚、手描きで。航季が好きなサッカーボールの柄を。
ペンで真っ直ぐ線を引くのは難しいからどうしても歪んで不格好にはなってしまうが、一口サイズの丸いチョコをそれで包めば立派なサッカーボールチョコのできあがりだ。
(コーくんなら、ぜったいによろこんでくれるよね!)
箱を開けて。きっと、わぁって驚いて。
そして、「すっげー! サッカーボールのチョコだ!」って喜んでくれる。
うん、ぜったいにそう。
「よし、できた!」
小さな箱にできたてサッカーボールチョコをいくつか並べ、フタをしたら青のストライプ柄の紙で包んで金色のリボンシールをぺたりと貼る。これで完璧なバレンタインチョコが完成だ。
「いってきまーす!」
急いでチョコを鞄に入れて、水色の手袋とマフラーを着けた梨名は慌てて玄関を飛び出した。
予定より遅れてしまったが走れば試合開始には間に合う。……と思っていたのだが、途中で息が切れてしまうのを計算ができていないのが残念だった。
◇◇◇
「もう、はじまってる……」
懸命に走ってきた梨名がグラウンドに着いた時、周辺の土手は子どもたちの家族による声援で盛り上がっていた。
けれど、腕時計を見ると試合が始まってからまだ五分ほど。試合は前半・後半ともに十五分ずつあるから、まだまだこれからだ。
「コーくんは……」
いくら土手で囲まれて見やすいとはいっても、あまりにも応援の大人たちが多くて観戦の視界は得られない。
背が低い梨名はなんとか人の隙間をかいくぐり、前に出てから航季の姿を探した。
(あ、コーくんだ! ゴールの近くにいる)
最初は敵チームのゴールかと思ったが、よく見ると自チームのゴールだ。
ということは、今日の航季は『守る』役目なのだろう。
サッカーの詳しいルールは梨名にはまだ難しいが、『守る人』と『点をとる人』がいるのは知っている。
守る役目の中で一番特別なのは手を使える『キーパー』さんで、その周りにも守る人たちがいる。
今日の航季はキーパーといっしょに『守る』役目ということだ。
(あれ? でも、コーくん、なんだか元気ないような……)
試合に集中しているからだろうか、昨日までの明るい顔つきではなくなっている。
しかも、試合は始まったばかりだというのに遠目にも疲れているように見えたのだ。
ボールを持った相手選手へと向かいはするが、すぐにパスを回されてしまって足が止まっている。
「がんばれーー! コーーくーーんっ!」
梨名はおもいっきり大声を出した。
でも、それは周りの声援に混ざってしまってグラウンドまで届いているかどうかわからない。航季の方も一度も応援席へ目を向けることがなかった。
結局、航季は前半終了間際に交替となった。
応援席からは健闘の小さな拍手がパチパチと鳴り、逆に交替して出番が回ってきた選手への大きな拍手とかけ声がかかる。
(どうして……)
航季の出番が終わってしょんぼりしていた梨名の周りでは、大人たちが今の交替についての意見を交わしていた。
「かわいそうに」
「しかたないわよね」
「でも、ハーフタイム前に変えるなんて」
梨名には何が「かわいそう」で何が「しかたない」かはよく分からない。
でも、試合がおわったわけではないのだ。
航季の出番は残念ながらおわったけれど、試合に勝てば航季もきっと喜ぶに違いない。
「みんなーー! がんばれーー!」
だから、梨名はその後もずっと応援を続けた。
けれども、ベンチに座る航季は……ずっと悔しそうに地面ばかりを見つめているのだった。
◇◇◇
「コーくん、どこーー?」
試合は逆転勝利で終わった。きっと航季も喜んでいることだろう。
だが、試合が終わるとチームの反省会だとか保護者報告会だとかいろいろあって、その間に梨名は航季を見失ってしまった。
(バレンタインのチョコ、早くわたしたいのに)
しばらくはグラウンドの近くを歩いていたが、次第に冷たくなってきた風が肩をぶるぶると震わせる。
「……さむいよ」
少しでも暖を求め、梨名は水色の手袋でふわふわのマフラーをぎゅっと掴んだ。
このままでは寒くて風邪を引いてしまうかもしれない。
「もしかして、もうお家かも?」
うん、そうだと梨名の足は自宅マンションへと向かった。
帰る場所は同じなのだから、もしかしたら途中で会えるかもしれないし、会えなければ航季の家を訪ねればいいのだ。
せっかくがんばって用意したバレンタインチョコだ。絶対に今日中に渡したい。
「あ、コーくん!」
そして、やっと家の近くの公園でスポーツバッグを肩にかけて歩く航季を見つけた。
灰色の雲が空を覆い始めたせいか、振り向いた航季の顔が陰っているように見えたが梨名は気にもしなかった。
「……りぃな」
航季が口にした愛称が白い吐息となって冷えた空気にすぐ消える。
唇を噛みしめた航季からそれ以上の言葉は出なかったが、梨名は構うことなくいそいそと鞄から贈り物の箱を取り出した。
やっと渡せる。
きっと喜んでくれる。
その気持ちで梨名は頭がいっぱいだったのだ。
「しあい、勝ってよかったね!」
おめでとう、と梨名は真っ直ぐにお祝いを伝える。
そして、青のストライブ柄の箱を航季へと差し出した。
「はい、バレンタインのチョコ!」
コーくんのために用意したんだよ、と笑顔を添えたが航季の表情は冴えないままだ。
なかなか受け取ってくれない反応に、さすがの梨名もおかしいなと思い始めた。
「コーくん、チョコ好きだったよね?」
受け取ってくれないの? と込めて返事を待つと、航季はようやく口を開いた。
「……お前さ、なんでおれにチョコくれるの?」
「え?」
航季の質問の意味が梨名にはよく分からなかった。
今まで自分たちの間には「なんで」という言葉がなかったから。
自分と航季の間にあったのは、単純なたった一つのことだけだ。
「だって、コーくんのこと好きだから」
そうでなきゃ、とくべつなチョコなんて用意しない。
そうでなきゃ、毎日をいっしょにすごしたりしない。
そんなこと、コーくんだってわかってるはずなのに。
なのに、返された答えは――――乱暴にチョコを払い落とした航季の手だった。