006:第1章「魔王と勇者と修道女」⑥
「魔王城まで来い。お前は俺と――――『番い』になってもらう」
「…………え?」
番い。それは一対の雄と雌。一組の男女を指す言葉だ。
(そ、それって……え? まさか、ふ……夫婦……ってこと!?)
言葉の意味を理解したリィナの心臓がドキりと跳ね、顔を真っ赤に沸騰させる。
それは怒りなのか、羞恥なのか、混乱なのか。ごちゃ混ぜの熱が身体をカッと熱くさせた。
「い、いきなり、なにを言ってるのよっ! 初対面なのに、つ、番い……とか! 結婚なんてできるわけないでしょう!?」
誰かにここまで激しく言葉をぶつけたのは初めてだ。
相手の気を悪くさせるとか、客に失礼だとか、そんなことを考える暇もなかった。
だが、リィナの訴えにも青年は表情一つ変えることはなく、リィナを掴む手の力を緩めることはしない。
「必要だからだ。お前が『レテーネ村の修道女』……その胸にある星砂を持つ使徒であるかぎり」
(必要? 星砂?)
彼の言っていることは頭を余計に混乱させる。
星砂ならば彼だって右手首にある銀の腕輪に持っているではないか。
使徒が他者の星砂を欲するなんて話は聞いたことがない。
「詳しい話はあとだ。このまま俺の城に――――」
だが、彼の招待はコツリと響いた足音で止まった。
夕陽を背にしたシルエットが、ふたたび聖堂内に長く伸びる。
「――――誰だ!?」
魔族の青年がリィナを捕らえたまま入口に立つ者を厳しく誰何する。
だが、鋭い蒼の双眸に物怖じすることなく、新たな来訪者は穏やかな声音で返してきた。
「ただの旅人だよ。モーリさんって人に頼まれてね。この教会の様子を見に来たんだ。なにか困りごとはないかい?」
青みがかった黒髪の優しげな青年が聖堂内へ足を踏み入れる。
着慣れた様子の丈夫な布地の服に、左胸にはピンブローチで留められた星砂の水晶。
旅に適したマントからちらりと見えたのは、腰に佩いた一振りの剣。
そして、先ほど挙げられたモーリの名に、リィナは心当たりが一つだけ頭によぎる。
(もしかして、今度こそ本当に……)
「た……たす……け……」
唇から息は出る。けれど、弱い。か細い。
これでは伝わらない。もっと大きな声でないと。
けれど、相手がその人でなかったら?
それに、誰かに助けを求めるなんて迷惑では?
トラブルに他人を巻き込むわけには……。
「…………っ」
声が、出ない。
声を出していいのかが判断つかない。
でも、このままでは自分がどうなってしまうかも分からない。
(……怖い)
自分の行く末も。
声を発することも。
どうすれば正解なのか、自分はどうするべきなのか、幾つもの選択肢が頭の中でぐるぐると回る。だけど、
『――――だから、考えないことにした』
ふと、記憶の中で声が聞こえた。
少し不思議な考え方をする同級生の言葉。
あの時、彼の素直さが羨ましいと心から思った。
(……ほんの少しでいい。素直になれる勇気を)
彼みたいに。とリィナは祈りを込めて息を吸い込んだ。
「た……助けてくださいっ! お願いです、勇者様!」
「勇者だと!?」
勇気を出して叫んだその名に魔族の青年も驚き、リィナの顎を掴んでいた手を離した。警戒として片手を空けておくためだ。
しかし、コツコツと靴音と共に聖堂へ入ってきた青年は穏やかな態度を崩さなかった。
「勇者か。確かにそう呼ばれることもあるけど、僕はただの剣士だよ。剣士・カナタ」
「カナタ……様」
剣士。主に剣で戦う前衛タイプの使徒だ。
けれど、彼こそが件の『勇者』で間違いないだろう。人々を助ける者の二つ名だ。
「で、そこの翼の君は? そっちの彼女は困っているようだけれど?」
あくまで穏やかに対話で仲介を試みるカナタに魔族の青年は見据える視線をより鋭くさせる。
「失せろ。こいつは俺と番いになる娘。いわば、俺の婚約者だ。部外者は口出ししないでもらおう」
「そうなの? 彼、君の恋人? 痴話喧嘩?」
「ち、ちがいますっ! 赤の他人です!」
リィナは慌てて完全なる否定で返す。
どこをどう見たら恋人などに見えるのだろう。
けれど、彼の瞳は純粋に問うものだったから、もしかしたら騙されやすいタイプの人なのかもしれない。
「この人が言っていることはデタラメです! 私は、つ……番いとか婚約とか……了承していません!」
リィナは必死に訴えるもののカナタは黙って思案顔だ。
どちらの言うことが本当なのかを考えているのだろう。
(もし、ここで見捨てられたら)
きっと自分は魔王城とかいう城に拐かされてしまうのだろう。
こんなに突然、災害のようなトラブルに巻き込まれた挙げ句、助けてくれると思った人に信じてもらうことすらできなかったら……。
そう考えると、恐怖よりも悔しさと惨めさで、じわりと涙がこみ上げてくるのが自分でもわかった。
「……っ、勇者様、お願いです! 信じてくださいっ!」
もう一度だけ、勇気を振り絞って懸命に叫ぶ。
涙で声が揺らいだが、それでも必死に声を出した。
「うん、信じるよ」
「え?」
考え込んでいたわりにはあっさりと返ってきたカナタからの返事に、思わずきょとんと戸惑ってしまう。
どうして? とリィナが視線で問うと、彼はこれまたあっさりと解説を添えた。
「さっき言ったよね、モーリさんに頼まれたって。僕が受けた依頼は『教会の困りごと』じゃない、君の……『修道女の困りごと』なんだよ」
「勇者様……!」
本当に自分の言葉が彼に届いたのだとわかって萎縮していた心がほぐれた気がした。
「ということで」
カナタが魔族の青年を見据え、鞘から抜いた剣をかざす。
穏やかだった空色の双眸が、次第に真剣さを帯び始めた。
「彼女を放してくれないかな? そこの君」
「――――シリウスだ。俺の名は」
「きゃっ!」
黒き翼をバサリと広げ、リィナを左腕で抱きかかえて宙に飛ぶ。
彼が空いた右手を頭上に掲げると、教会の真上の空にゴロゴロと低く鳴動する黒雲が召喚された。
「俺は魔族を統べるもの――――魔王・シリウス!」
「……魔王っ!?』
リィナとカナタが同時に驚きの声をあげた途端、振り下ろした腕に合わせて稲妻が屋根をぶち破った。
「キャアアッ!?」
凄まじい落雷にドォンと身が震えるほどの衝撃音。
リィナの悲鳴と共に屋根がガラガラと崩れ落ちていく。
吹き抜けを支えていた梁も黒炭となって燻りながらぐしゃりと落ち、木片がパチパチとかがり火のように燃えて聖堂内を照らしていた。
魔王が放った雷撃の魔法が教会を直撃し、屋根に大穴を開けたのだ。
「勇者様!?」
「っ、大丈夫だ!」
魔王に抱きかかえられたまま宙に浮くリィナが下を見下ろすと、カナタのそばの石床に穴が空いて黒く焦げていた。
彼の身体能力が高かったから間一髪避けられたが、少しでも遅れていれば即死だったかもしれない。
「へぇ、魔王か。確かに凄い魔力だね」
カナタが剣の柄をギュッと握り直して頭上の魔王を見上げる。
大穴が開いた屋根から見えるは群青の夜と夕暮れ色のオレンジ。
時が溶け混ざった空を背負って羽ばたく漆黒のシルエットは魔王という威厳に溢れていた。
「でも、魔族陣営の王たる君が、どうしてわざわざこの村へ?」
各陣営の王といえば、この世界では女神に次ぐ力の持ち主だと言われている。
同じ星の使徒とはいえ、普通の冒険者とはレベルが格段に違いすぎる。
そんな王が辺境の村に現れるなんて誰が想像できただろうか。
「それはもちろん、この娘を迎えるためだ。夫となる俺が出向くのは当然だろう?」
「だ、だから! 私はあなたと結婚なんてしませんってば!」
シリウスの胸板を叩きながら反論するものの、彼にはあまり効いていないようだ。
「……ちょっと強引すぎじゃないかな、魔王さん?」
剣を構え、シリウスを見据えたカナタは瓦礫を足場にして身軽に跳躍し、宙に浮かんでいる魔王へと迫る。
だが、シリウスは銀の腕輪を手甲へと変え、カナタの剣攻撃を軽々と弾いて払い落とした。
「邪魔だ、勇者! 強引でもなんでも、この娘は俺の番いにする! これは……決定だ!」
勇者へ向けて手をかざし、ふたたび雷撃の魔法を放とうとする。
しかし、魔法発動の寸前リィナがシリウスの腕に飛びついた。
「だめっ! 勇者様を傷つけないで!」
「くっ、邪魔をするな……っ!」
揉み合いの中、リィナが一瞬だけ魔法を放つ。
「――――刹那の閃光!」
「うっ!?」
目眩ましの閃光魔法で魔王が油断した隙にリィナはなんとか腕の中から逃れる。
だが、それは高所から地面への落下を意味していた。
「きゃあああーーーーっ!」
しかし、地面に激突するはずだったリィナの身体をカナタが両腕で受け止める。
「大丈夫?」
「は、はい……っ」
腕の力強さと顔の近さに思わず顔が赤面してしまう。
(お、お姫様抱っこなんて、初めてしてもらっちゃった)
こんな時だというのに胸がトクトクとときめいてしまう。
現実世界では滅多に起こらないイベントだから心が動揺してしまっても仕方がない。
だが、そんな光景を目にしたシリウスは眉をしかめると、懐から黒水晶の球を取り出して床へと叩きつけた。
「……っ、仕方ない。いでよ! 夢を喰らう夢魔たちよ!」
水晶球が割れ、そこから黒い光が放たれる。
現れたのは異形の姿をした怪物たちだった。
狼型の魔物はグルルと牙をむき出しては低く唸り、蝙蝠型の魔物は獰猛な瞳を赤くさせてはキィキィと鳴いている。
あっという間に聖堂の中は怪物の湿った息づかいで満ちてしまった。
「そんな! 村の中に夢魔だなんて!」
「夢魔。この世界のバグ・モンスターか!」
基本的にこの夢世界の生物は現実世界で生きている人間や動物たちの夢意識だ。
けれど、それとは全く違う、夢そのものを侵食する存在がある。
それが『夢魔』と呼ばれるモンスターたち。
夢魔は特殊な才能を持つ者でないと手懐けることが難しいと聞く。
魔王である彼自身がその才能を持つのか、もしくは誰かから授けられている可能性もある。
どちらにせよ数体もの夢魔を同時に従えるには、よほど魔力が高くないとできないことだ。
「下がって! 防御魔法は使える!? 君、え……っと」
言い淀むカナタの様子にリィナはまだ名乗っていないことに気がついた。
「も、申し遅れました! 私の名はリィナといいます!」
「じゃあ、リィナ! 少し下がってて!」
頷いたリィナは石碑の前まで下がり、カナタは夢魔たちに斬りかかる。
だが、宙に浮いたままだった魔王シリウスは彼らの会話に耳を疑っていた。
「――――リィ……ナ? まさか……っ!?」
魔王の動きが止まった隙に、リィナは腰元から小さな杖を取り出した。
一見するとキーホルダーのサイズだが、魔力を込めると聖杖となって背丈ほどにも伸び、埋め込まれた魔法石が光り出す。
いくら夢魔に取り囲まれても防御魔法さえ発動できればリスクは格段に下がるはず。
「――――守りの……」
「させるかっ!」
だが、呪文に集中するより早く、防御魔法に気づいたシリウスはすぐさま夢魔たちへ命令を下した。
「夢魔よ! あの娘を捕らえよ!」
「ピキィィーーッ!」
その命令にいち早く応えたのは不定形なゼリー状の夢魔・ダークスライムだった。
「えっ!? あっ……きゃああっ!?」
闇色のスライムは素早く地を這うように移動すると背後にあった女神の石碑に取りついた。
ゼリー状の身体を大きく肥大させて石碑を覆い、一部を触手のように伸ばしてリィナの身体に後ろから巻き付いていく。
両手首、腰、太腿。スライムの触手は石碑に縫い止める形でリィナを拘束した。