002:第1章「魔王と勇者と修道女」②
『彼ら』が現れるまでは――――この世界での日々は、とても穏やかなものだった。
一つ深く息を吸って見上げれば、新緑の匂いをはらんだ風が青空へと吹き抜けて、遥か上空から地上を広く見渡している。
世界の東に位置する緑豊かな大地。
牛や馬が伸びやかに放牧されている草原のそばに、ぽつんと小さな村があった。
この世界にいくつか点在する『はじまりの村』の一つ、レテーネ村。
さらに、そこから少し離れた緩やかな丘陵には緑の森が広がっていた。
木漏れ日の中で花が咲き、薬になる野草も数多く生える恵みの森。
けれど、ここは動植物だけでなく『夢魔』と呼ばれるモンスターも現れる場所だ。
森の奥に行けば行くほど、それらは闇から生じて旅人を襲ってくる。
慣れた者であっても慎重に歩かなければならない地域だ。
そんな危険も潜む森の中、水色の長い髪を持つレテーネ村の修道女リィナは、薬草を摘んだ帰り道で倒れていた一人の少女を見つけた。
「大丈夫ですかっ!?」
駆け寄ったリィナは心配そうに薫衣草色の瞳で少女の様子を確かめる。
目深に黄色いフードを被っていたが、こぼれた明るいオレンジの髪に幼めな顔立ち、更に華奢な身体つきから見るに十二~十三歳頃の少女だろうか。
見知らぬ風貌だから村の者ではない。おそらく冒険者。
武器を携帯していないところを見ると、冒険を始めたばかりか、または後衛に適した才能持ちかもしれない。
血が流れているのは頭から少し。あとは手脚に細かい擦り傷。打撲もありそうだ。
(夢魔に遭遇した? もしくは……)
見上げると、すぐ近くに数メートルほどの高さの崖があった。そこから落ちた可能性もある。
頬を撫でた手で首元の頸動脈を診ると、瞼がわずかに痙攣し、うっすらと瞳が開いた。
「うっ、ここ……どこ? ははっ、ゆめ……なのかな? それとも異世界ってやつだったりして」
「どちらとも、ですよ」
「え?」
リィナは少女の問いに頷くと、胸の上で両手を組んで祈りを捧げた。
「――――運命を星から紡ぐ女神様、私のダイスにご加護を」
すると、首からかけていたペンダントの水晶が光を放ち、頭上に淡い幻が出現する。サイコロ。ダイスの幻だ。
普通と違うのは目の印が丸ではなく星柄であること。
それから何も描かれていない空白の面があることだった。
ダイスは祈りに呼応するように転がり「2」の目を出す。
「キュア・ダブル――癒しの光――」
倒れていた少女の身体を白い光があたたかく包み込む。
「痛みが……?」
柔らかな光がすぅと消え去ると、少女は自分の力で手を動かし、何度もパチパチと瞬きを繰り返してから身体を起こした。
「もう痛くない……。もしかして、回復魔法?」
「はい。回復量二倍でかけましたので、これで傷は癒えたと思います」
体調はいかがですか? と尋ねるリィナに、少女はその場で飛び跳ねて感激ついでに身体の調子を確認した。
「すっごーーい! この世界って魔法がある世界なんだね! ありがとう、修道女のおねえちゃん!」
喜ぶ笑顔の左耳にリィナと同じ水晶――冒険者の証である『星砂の水晶』――が揺れている。
初めて目にした魔法で高揚する元気な姿に、リィナはホッと笑みをもらす。
その安堵とともに、リィナの胸元にある水晶の中では星の形をした細かい砂がサラサラと落ちては貯まっていった。
「ところで、あなたは……この世界は初めてですよね?」
なら、こちらにどうぞ。とリィナは森の出口へ案内する。
少女が後をついていくと、邪魔をしていた木々が視界から消え、新緑の匂いをはらんだ風が背後から空へと吹き抜けた。
「ここが――――夢世界・フェリアム。女神ネイリア様がつくられた世界です」
「わぁ……っ」
森ばかりだった視界が一気に開ける。
どこまでも続く木々の緑と空の蒼さが感嘆の息とともに身体の内へと吸い込まれていくのがわかった。
清々しい自然に満ちた空気。
まるで身体の隅々までがこの世界の息吹と溶けたあったような。
「美しい場所ですよね」
「うん、ほんとうに……綺麗だ」
森を抜けたそこは丘の上だった。
ふもとには小さな村が。
そして、見渡すかぎりの広大な森と草原による緑の地平線。
頭上の空は遥か高く、その蒼の中には雲のように浮かぶいくつもの浮遊島。
浮かんだ島からは水が溢れ、地上の湖や大河へと流れ落ちていく。
豊かな河川はあちらこちらに流れては支流へ広がり、鳥たちの群れも雄大に羽ばたいて曇りない声で鳴いていた。
完全に調和された自然――人が理想として追い求めながらも実際には手が届かない美しさ――が、ここにはあった。現実の世界ではないという証だ。
「……そうか、ここは夢の中なんだね」
少女の言葉にこくりと頷いたリィナは、遥か遠く、西の方角の一点を指し示す。
「そして、あの遠くに見えるのが私たち冒険者――『星の使徒』――が目指すゴール。女神様がいらっしゃる『水晶樹』です」
最初、少女は巨大な「山」の景色だと思い込んでいた。
天にまで届きそうなほど大きくそびえる輝く大樹。
世界を束ね、蒼天すべてを支えるかのような。
だが、その樹は植物ではなく硬い水晶でできているという。
「あの樹に辿りついたら、女神様がどんな願いでも叶えてくださるそうですよ」
「え! ど、どんな願いも!? ホントに!?」
だが、その真剣な問いにリィナは苦笑いで答えるしかなかった。
「た、たぶん?」
「たぶんって……」
はっきりしない答えになってしまい申し訳なかったが、リィナにはそうとしか言えないのだ。
「ごめんなさい、確かなことは知らないんです。私は村の周辺から出たことがないので」
「え? 一歩も?」
「ええ、一歩も」
武器を扱えない。攻撃魔法もできない。そんな冒険には不向きな才能。
それがリィナのダイスが選び与えた『修道女』だった。
使えるのは回復魔法と防御魔法くらい。
それだけの特技で夢魔が徘徊するこの世界を冒険するのは無謀だった。
だから、ずっと……この『はじまりの地』から離れられずにいる。
「でも、これでも忙しいんですよ? この森には傷を負う方が多いので」
初めてこの世界に来た者たちは、ほとんどが各地にある『はじまりの村』の周辺に飛ばされる。
だが、運悪く森深くの危険な地域だと夢魔に遭遇してしまい、わけが分からないうちに傷を負って倒れてしまうこともあるのだ。
夢の世界だから本当に死ぬことはないが、ダメージを負いすぎると身体が水晶化して数日は悪夢にうなされてしまう。
更に、あまりにも精神を消耗すると夢世界へ二度と入れなくなるらしい。
だから、回復魔法を使えるリィナは新米の『星の使徒』――女神に選ばれた冒険者たち――を助けるため、日頃から森の散策がてらに巡回をしているのだ。
「人だけではなく動物さんたちも怪我することがありますしね」
リィナは茂みの下でぐったりと倒れていた少し大きめなジャンガリアンハムスターを拾い上げて回復魔法をかける。
あたたかな光がリィナの手からハムスターへと伝わると、すぐに傷が癒えたようだった。
もきゅ? と小さく鳴いて元気になったハムスターを森へと返してやり、丁寧に手を振って見送る。
また少しだけペンダントの水晶の中で砂がサラリと落ちていった。
「せっかくの夢の世界なのに……退屈じゃないの?」
少女が当然の疑問を口にする。
今までリィナが何度も尋ねられたことだ。
「いいえ。私……この毎日が好きですから」
それは心からの正直な気持ち。
緑が多い森の中での散策も、助けた人々の笑顔も、みんな大好き。
ずっと続けてきた暮らしはとてもささやかなものだけれど、とても心から愛おしい。
「この穏やかな日々が私の冒険なんです。だから、あなたも……これから始まる、あなたなりの冒険を楽しんでください」
笑顔でそう答えると、遥か彼方の水晶樹から不思議な音が響いてきた。
硝子でできた風鈴のような。もっと細かいさざ波のような。
シャラン……シャラン……と鳴るそれは、水晶樹の枝葉が揺れる音。
一つ一つは小さな音なのに、何万もの葉掠れが重なって、この世界の西からゆっくりと広がっていく。呼応した各地の鐘楼も、カラン、カラン、と鳴りはじめ、共鳴した音色は次々と連鎖して世界中に響き渡った。
「この音って?」
「目覚めの鐘です。気まぐれで不定期ですが、大切なしらせですよ」
リィナは少女に向かって別れの挨拶代わりに手を組んで祈りを捧げる。
「今日はここまでですね。……明日からも、あなたのダイスに女神様のご加護がありますように」
やがて鐘が完全に鳴り止むと、世界はひとときの休息に入った。
◆◆◆
白いカーテンの隙間から射し込んできた光が、参考書が置かれた勉強机、そして少女が眠るベッドまで伸びていく。
「ん……」
朝陽のやさしい手招きに瞼をぴくぴく震わせる少女は、ベッドの中で一度ごろりと寝返りをうってから、ゆっくりと上半身を起こした。
やや茶色がかった黒髪のボブカットを手のひらでひと撫でし、ついた寝癖を落ち着かせる。
平凡な顔立ちだが、ぱちぱちと瞬きした大きめの瞳は夢の中で過ごした光景をまだ映しているかのようだった。
「――――今日も、夢の世界はきれいだったな……」
んんっ、と両腕を上げて伸びをしてからベッドを降りると着替えるためにパジャマを脱いで姿見の前に立った。
鏡の隣には、水色の襟の涼やかなセーラー服と紺色のスカーフがハンガーに掛かって出番を待っている。
けれど袖を通す前に、少女は鏡に映った自分の胸元へ、ふと指先をやった。
鎖骨の真ん中より少し下。胸元にある珍しい星形のアザ。
『夢』を見るようになってから現れたものだ。
あの世界が夢でありながら夢ではない、唯一の証。
夢の残滓であるそれに触れながら、十七歳の少女――水上梨名――は、ぽつりと呟いた。
「……水晶樹を目指すための『星の使徒』の証。なのに、今日も冒険に出なくて……ごめんなさい、女神様」




