011:第2章「領主館への招待」①
――――勇者様、素敵な人……だったよね。
ほわっ、と梨名の胸に仄かな熱が灯る。
朝から通学路でにやけ顔を晒すわけにはいかないのに、昨夜の夢を思い返すたびに頭の中がぽわぽわしてしまう。
(だって、勇者様に助けてもらうなんて……まるで夢みたい)
実際に夢の話なのだが、それくらいに昨夜のことは平穏でしかなかった梨名の夢に変化をもたらした。
始まりは突然やってきた魔族の青年。
強引な求婚をされた上に魔王城へ拐かされそうになってしまった。
(な、なんだったのよ、あの魔王って人!)
最初、かっこいいかも……なんて少しでも思った自分を今は殴りたい。
せっかく異種族への偏見をもたないように接するつもりだったのに、やはり魔族は「わるいひと」だったのだろうか。
魔族全体がああなのか、それとも魔王の彼がそうなのかは分からないが、少なくとも夢魔までけしかけて連れ去ろうとしたのだから梨名にとっては「わるいひと」だ。
(そうだよ、彼が放ったスライムのせいで、あんな……)
今思い出してもゾワリとする肌を這われた感触。
たとえ現実の身体に実害はないといっても、梨名にとっては現実と変わりない恐怖と羞恥だった。
「全部あいつのせいだよね。今度会ったら絶対に……」
グーで殴るか頬ビンタに決定だ。
また会うことがあるのかは未定だけれども。
「絶対に、なに? 水上さん」
「えっ、あ……風峰くん!?」
いきなり声をかけられて梨名の心臓がどきりとする。
歩いていた梨名の隣からひょこっと顔を出したのは、級友で同じ図書委員の風峰空だった。
彼とは家の方向が違ったはずだが、いつの間にか生徒たちが合流する学校前の交差点だ。あとは校門までの緩やかな坂道を登るだけで学校に着いてしまう。
とりあえず互いに「おはよう」と挨拶は交わしたものの、先ほどの独り言を聞かれてしまった梨名は恥ずかしさに多少声がぎこちなくなってしまった。
「さ、さっきのは忘れて? ちょっと夢見が悪くて愚痴っていただけだから」
「夢? 怖い夢でも見たの?」
「ん~怖いっていうか……」
学校へ向かって歩きながら、梨名は昨夜の夢のことを思い返す。歩調のリズムでゆっくりと。昨夜の夢は自分にとって何だったのか、と。
「……騒がしかった夢、かな」
起きた出来事もそうだけれど、とくに自分の感情が。と梨名はひそかに添えた。
いつも夢の世界は梨名にとって平穏そのものだったというのに、あれほど心が乱れる事態になるなんて思わなかった。
「そうなんだ。僕はね、いい夢だったよ。楽しかったな~」
夢の中だと実際よりも早く走れたり高く飛べたりと自由に身体が動くタイプらしく、思いきり動くことができたのが楽しかったのだそうだ。
「あれ? 風峰くんって運動得意なんだっけ?」
あまりスポーツをしているところを見かけたことはない気がする。
図書委員だし、いつも教室では本を読んでいるからてっきり運動は苦手なのだと思い込んでいた。
「身体を動かすこと自体は好きだよ。でも、球技とかスポーツは苦手かも。あ、たとえば、あんな風にボールを蹴ったりは無理」
「え?」
風峰がグラウンド脇のフェンスに駆け寄って指で示す。
金網でできたフェンスの向こう側ではサッカー部による朝練光景が広がっていた。
「すごいよね! ほら、シュートを何本も決めてるよ?」
狙ったところにボールが飛んでいくって凄い技術だよね、と風峰は純粋な瞳で嬉しそうに眺めていたが、隣にいる梨名は内心ハラハラしていた。
だが、見つかりたくない時ほど見つかってしまうものだ。
「り……っ、水上!」
向かい側からガシャンとフェンスを鷲掴みしてきたのは幼馴染みの時宮航季だった。
息が上がっているのは先ほどまでシュート練していたせいもあるだろうが、ほとんどは梨名の姿を見つけて全力疾走してきたせいだ。
「お、おはよ……」
真っ直ぐ見つめてきた航季の視線を受け止めきれずに逸らしてしまったが、とりあえず挨拶だけはしてクラスメイトとしての面目は保つ。
「……珍しいな。お前が火崎以外と登校するの」
ちらりと隣にいた風峰へ視線を送った航季に梨名は若干ムッとする。
そういう態度は彼に対して失礼だ。
「そこで会っただけだよ。それに私が誰と一緒にいようが時宮くんには関係ないじゃない」
「……っ」
ぴしゃりと言うと航季は言葉を継げずに口を閉ざした。自分でも失言だったと思ったのだろう。
だが、そんな梨名と航季の微妙な空気に構うことなく、風峰だけはキラキラと瞳を輝かせて高揚していた。
「ねぇ、ねぇ、十本くらい連続でシュート決めてたのって時宮くんだよね!」
「あ、あぁ」
「凄いなぁ。僕、球技って全然だめだから思わず見惚れちゃったよ。今度体育でサッカーあったらコツ聞いてもいいかな?」
「も、もちろん、いいぜ!」
よかった、と素直に喜ぶ風峰の笑みに梨名は心から感心してしまう。
(風峰くん、心が広いな)
ついさっきまで訝しげな視線をぶつけられていたのに、もう航季と仲良くなっている。
自分も航季に対してもう少し態度を和らげねばと思うけれど、子どもの頃からの癖になってしまって上手くいかない。
何度も何度も改めようと思うのに、いつも、ずっと、繰り返しだ。
(もう、昔のことは……忘れたいのに)
泣きじゃくったバレンタインも。
航季へ抱いていた想いも、全部。
「風峰くん、そろそろ教室へ行こう?」
梨名がグラウンドから離れようとすると、風峰と談笑していた航季が慌てて呼び止めた。
「は、話があるんだっ!」
カシャン、ともう一度互いの間にあるフェンスが揺れる。
それは明らかに梨名に対してだった。
航季がわざわざそんな切り出し方をするのは珍しい。
「なぁに? おばさんから伝言? うちのお母さん今夜は帰り遅いから伝えるの明日になるかもだけど」
「い、いや、そうじゃなくて!」
言付けとかお裾分けとか単なる親からのメッセンジャーなのかと思ったが、どうやら違うらしい。
「その、お前に聞きたい……ことがあって……」
だが、航季がはっきりしない。
言葉を迷ってる? いや、口にすること自体を迷っているのかもしれない。
「お、落ち着いて話をしたいから、今度……俺に時間をくれないか?」
「……いいけど」
明らかに落ち着きを必要としているのは航季の方で、梨名には彼が何を言おうとしているのかさっぱり分からない。
航季の言う「今度」がいつかは未定だが、とりあえず今ではないということだろう。
「じゃあ、もう行くね」
「時宮くん、また教室で」
梨名と風峰が校舎へと向かってしまうと、航季は金網を掴んだまま、はぁ……と疲労の息を吐き出した――――が、そんなところを『親友』に見られてしまう。
「おつかれさん、コーキ」
「……ユージか」
航季が顔を上げると、隣にクラスメイトの真中遊二がジャージ姿で立っていた。
焦げ茶の髪にうっすら浮かべる極薄の笑み。
中学時代からの付き合いだが、常にマイペースを貫く彼は目立つことを嫌い、凡庸さこそを至上とする主義だ。
物事に熱くなることもなく、かといって冷淡でもなく、機嫌が極端にゆらぐこともない。
陸上部に所属はしているが記録にはこだわらないようで、ひたすらのんびりグラウンドを一人で走っている。
今日も自主的にぼんやりと走っていたのだろう。
おそらく、自分と梨名たちとの一部始終を観察しながら。
「ひさしぶりに幼馴染みちゃんと喋ってたよね。どう? 少しは進展した?」
「~~っ、そう簡単にできたら苦労しねーよ!」
分かってて、あえて質問してくるところがコイツの嫌なところだ。
しかも、梨名との仲を知った上で完全に状況を面白がっている。
「それより! お前には、めちゃくちゃ言いたいことがあるんだ!」
ぐいと遊二の胸ぐらを掴んだが、にやりと口の端を上げたところを見るに、気圧されるどころか逆にワクワクと待ちかねているようだった。
「いいよ、いいよ、なんでも言って。でも……それって『ここ』でしていい話?」
「……っ!」
遊二の指摘に、航季は仕方なく掴んでいた胸ぐらを離す。
確かに場所を変えた方がいい話だったからだ。
しかし、一度火がついた憤りは行き場を無くして内で暴れる。
悔しさとして昇華するしかないのが心底腹立たしい。
「そんな顔しなくても、ちゃんと文句でもなんでも聞くって。もちろん命令でもね」
飄々と話を躱されるたびに、どうして自分はコイツと友人をやってるんだか分からなくなってくる。
なんだか余計に疲労度が増した気がした。
「…………今夜、話す」
結局それだけしか伝えられなかったが、親友は「了解」とわざとらしい敬礼の仕草で返してきて、それがまた航季の苛立ちを的確に煽るのだった。