010:第0章「人生で一番最悪なバレンタイン」③
灰色の雲が重たく公園の空を覆い尽くす。
バシッ――――と払い落とされたチョコの箱が、簡単に地面へ落ちていった。
「……コーくん?」
最初、受け取ろうとして手がぶつかっただけだと梨名は思った。
だって、航季がチョコを受け取らない理由はないはずだから。
バレンタインのチョコは大好きの証。
梨名はずっと航季のことが大好きで。
航季だって梨名のことを好きなはずで。
なのに、どうして今こうなっているのか梨名にはまったく分からなかった。
だけど、目の前の航季を改めて見てみると、確かにいつもとは違っていた。
憤りをぐっと堪えている時の顔だ。
「……おれなんかのことを好きとか、ウソつくなよ」
「う、うそじゃないよ! りぃな、コーくんのことずっと前から好きだもん!」
知らない人がいっぱいいる幼稚園に行くのが怖かった。
それなのに休むことなく通うことができたのは、航季が毎朝迎えに来てくれたからだ。
あの頃つないでくれた手のあたたかさを忘れたことはない。
小学校に上がってからも毎日会っておしゃべりをしたし、お花見も、夏祭りも、クリスマスも、毎年ずっといっしょだったのに。
「コーくんのこと……好きだよ。なのに、なんで……なんで……うそって言うの?」
りぃな、うそつきじゃないのに。
ただ、コーくんによろこんでほしかっただけなのに。
わけがわからなくて、あたまがぐるぐるして、目元がじわじわとあつくなる。
胸がぎゅううって痛くて、口を開こうとすると声がつまって、息をするのも苦しくなった。
「……っく、コーくん……コーくんは……りぃなのこと……好きじゃないの……?」
好きだから、いつもいっしょにいてくれたのだと思ってた。
好きだから、いつも手をつないでくれるのだと思ってた。
向けてくれた笑顔も。
教えてくれたサッカーも。
いっしょにした勉強もテレビゲームも。
それらは全部、かんちがいだったのだろうか。
「コーくん……」
「……りぃな」
最後にもう一度、梨名は目の前の航季へ問いかける。
けれど沈黙は長く続き、その間に灰色の空からは、はらり、と雪のかけらが舞った。
季節はずれの桜のはなびらのように。
ちいさな、ちいさな、りぃなが流した涙ひとつぶんの雪。
雪は向かい合っていた二人の間へと落ちて、なかよしだった時間が終わるのだと告げるのだった。
「お……おれは、うそつきのりぃなも、同情のチョコも――――だいきらいだっ!」
それだけを叫び、航季は踵を返すと一人でマンションへと向かって走っていった。
地面に払い落としたままのチョコの箱も、雪降る中で一人で立ち尽くす梨名も置き去りにして。
「……っ、こ……くん……っく、ふぇ……っ、ぅ……」
がまん、しようと思ったのだ。
でも、だめだった。
なんどもなんども目元を手袋でこすったのに。
「……っく、こぉ……くん……っ! こぉ……くんっ! こぉ……くん!」
ぽろぽろと涙が一気にあふれだした。
ただただ、かなしくて。
航季になに一つ、自分の『好き』が伝わらなかったことが、つらくて……つらくて……たまらなかった。
泣いたからといって、どうにかなるだなんて梨名も思ってはいない。
でも「どうにもならない」という事実を突きつけられて、心の中のぐちゃぐちゃが行き場をなくし、涙にしかならなかった。
「ひっく……っく……」
だが、公園で一人泣きじゃくっていた梨名に、空から『声』が聞こえてきた。
降り落ちる雪のかけらといっしょに。
白昼夢、だったのかもしれないけれど。
『――――泣かないでください、人の子よ』
「…………だぁ……れ……?」
幼い梨名が目元をこすって見上げると、雪の中をゆっくりときれいなおねえさんが空から降りてきた。
長い銀色の髪にお星さまみたいなキラキラがいっぱいついた、とてもやさしそうなおねえさん。
白くて柔らかそうなドレスが空に溶けるみたいに広がって、それなのに反射する色は虹の色。金色の冠と手に持った金色の杖は、すっごく細かい模様が入っていて、まるでお姫さまみたいだった。
だけど、地面に足はついていないから、お姫さまのゆーれーなのかもしれない。
『わたくしは、運命を星から紡ぐ夢の女神・ネイリア』
「うん……め……?」
『そうね、夢の女神、とだけ覚えてくれたら嬉しいわ』
「ゆめの……めがみさま……?」
優しく微笑んでくれた女神様に、私はこの時はじめて出逢った。
現実だったのか。夢だったのか。幻だったのか。今でもよくは分からない。
ただ、一番かなしかった時に、女神様は『星』を胸に宿してくれた。
夢の世界へ訪れるための鍵であり、選ばれた使徒としての証を。
……女神様は、幼い私が泣いていたから『星』をくれたのだろうか。
だとしたら、あの最悪なバレンタインは『必要』だったのだろうか。
思い出すと、今でも胸がぎゅっと引き絞られる。
自分の中で、いつまでも幼い子どもの泣き声が甦る。
ぶきようで、つたなくて、ちいさな『好き』は、箱の中へ閉じ込めて。
十年以上、ずっとそうして捨て置いた。
――――だから、私はこれからも……
箱を開ける日が来ないことを、心から祈っている。
【To be continued.】




