セシル 海と木漏れ日の島
小町ハルです。興居島に一時移住して、何日経過したんだろう。初夏の新緑を感じる5月。私たち大学のサークルメンバーは哲也という男の口車に乗せられ、中古住宅に間借りしています。
ここは愛媛県の松山市にあるうっかり忘れられた様な小さな島にしてはそこそこ利便性もあり、雰囲気が落ち着いて手軽なリゾート地といった感じです。
青い目をした少女がちょこんと座ってます。名前はセシル。青い目をしたシルバーに近い金髪の少女。年齢は10代?童顔で外国人ぽい顔つきだが東洋系の雰囲気があり国籍すら判りません。
両親が居なくなりここに居候をしている。いや古いアンティークドールみたいに在るって感じかな?私、小町ハル同様身寄りがないためか、私、懐かれてます。
私は、部屋の片隅にあるウクレレを持ち出して海へ向かいました。
「ハルちゃん、お出かけかな?」
「哲也さんが釣りの師匠って言っている人。ですよね。」
「そうそう、師匠って云っても別行動でね。声掛け合う程度だよ。哲っちゃん大丈夫かい?最近暗い顔しててさ。心配事でもあるんじゃないのかい?」
「まぁ、あの家の友達全員が停滞してるっていうか。何していいのか先が見えないんですよね。」
「なるほどなぁ、そうかい。嬢ちゃん立ち話も何だし、そこらに腰掛けて話でもしようか?」
そこには桜の樹があり、5月になった今でも花が咲き続いていました。
「哲っちゃんは、今何をしてるんだね?」
「花の模様の入った箱で悩んでます。スズランとユリの模様の箱です。」
「後で海辺の爺いが、家に行くって哲っちゃんに伝えておいてくれるかい?」
「はい。必ず。」
「嬢ちゃんも疲れているだろ。この樹の花はまだ散らんから、しばらく観られるぞ。綺麗だから休んでいきな。」
そう云うと、師匠は離れてい来ました。
土手の近くには黄色い菜の花が咲き乱れ、輝く潮騒からは海風が気持ちよく吹き込みます。私はウクレレを差し出すと樹の下に散った桜の絨毯の上で覚えたての楽譜の通りヴィヴァルディ四季の「春」を弾きました。
「いいわね。海を見ながらウクレレ持ち出すのって。もう少しいろんな曲を覚えてみようかしら。」
私たちは、様々なハーブを古民家で栽培する事にしました。
「ここでは、海岸特有の塩害のもあるから、ラベンダーの苗を植えたいと思うんだよね。セシルちゃんどうかな?」
「私は、プランターに入れて窓辺に飾りたいかな?ほら、潮風にゆらゆら揺れるとかわいいから。」
「あ、それいいかも。セシルちゃんは花のことをよく知っているね。」
「覚えているのは野草ばかりだよ。近くで咲いてた花ばかり。ここは何か懐かしい感じがするからうまく栽培できそうな気がするの。」
「そうだね。ラベンダーは野草でも有名だから水不足になければ大丈夫だから簡単だし。」
花の話をする時のセシルちゃんは、とても嬉しそうな表情でした。きっと素朴で素敵な家に住んでいたのでしょう。
「なぁ、ハル。最近話し方が違ってきたな。まるで別人の気がするが。」
哲也が釣竿の手入れをしながら、私に話しかけました。私は無視を手にすると歌番組にチャンネルを合わせました。
「騒々しいな。折角の島の静けさが台無しじゃないか。」
「あたしは、あんたと違ってカラオケとかあるんだから、新曲とか覚えなきゃいけないの。大学生なんだから。大体、紅白歌合戦でテレビに向かってサイリウムを振ってんのあんただけだから。」
「あんたの釣りの師匠が今度来るって。気持ち気取られるなんてあんたらしくないわね。悩みがあるなら真っ先にハルに相談しなよ。いつもそうだったじゃない。あんたこの一件で変よ。」
「…ごめん。」
「あ、いや声荒げちゃった。こっちこそごめん。」
私は、哲也の頭をそっと抱きしめました。
「ねぇ、哲也。急がないで。深く考えてもダメなことってヒトにはたくさんあるんだから。」
「あ、うん。」
私の袖が哲也の涙でぐっしょりと濡れていきます。
「セシルちゃんの心配しても、今はダメ。」
「わかってるけど。」
「けど、何?」
「情けない。」
「情けないなんてない。人はそんな想いに挫折しながら何度も何度も立ち上がってくの。そういう生き物なの。いい、周囲の人に頼るの。人間ってそうするの。」
哲也は声を上げて泣いた。初めて人間として大声で泣いたのでした。
ドアチャイムが鳴りました。
「はい。」
「あ。釣りの爺さんだが、哲っちゃんいるかね?」
「今、開けますね。」
私は、師匠を招き入れました。
「あ、これ。スーパーで買った花だけど。クレマチスとマーガレット。」
「すみません。ありがとうございます。」
私は、取り敢えずガラスの花瓶に水を入れて居間にテーブルに飾りました。
「哲っちゃん、大丈夫かな。最近釣り場でも、心ここにあらずでな。」
「すみません、今は大丈夫ですよ。私相手に気持ちを吐き出して落ち着いています。」
「そうかい。そいつは良かった。何、顔を見にきただけだよ。お邪魔だったかな?」
「師匠さん、私たちそんなんじゃないから。今コーヒー淹れますから。」
花を飾るという事は、良いものです。殺風景だったという訳ではありませんが急に華やぎます。
「ちょうど、セシルちゃんの好きなラベンダーを買いに行こうかと思ってたんですよ。」
「おや。そうだったのかい?まぁ、花が部屋にいくらあってもいいじゃないか。活けて枯れたら捨ててくれ。」
「花ねぇ。」
哲也は、まるで興味を示しません。まぁ、元聖獣。飽きる程観てきた訳です。
「哲っちゃん『フードリッヒ シラー』って知っているかね?」
「さぁ、初めて聞く名前だな。」
「詩人みたいな人物だよ。昔のな。覚えておくといい。人間の俗世に溺れた時は思い出してくれればいい。お前さんらしく戻れる。」
「そう。でも陥る前に俺は死んでしまうと思うが…。まぁ覚えておくよ。」
「師匠さん、夕飯ご一緒しません?」
私は、せっかく来ていただいたお客さまにおもてなしひとつ出来ていない事に気付きました。
「あ、いや今日は結構だよ。あれが外で待っている様だ。直ぐ失礼するよ。」
師匠は、窓の外をそっと指差す。そこには白いフクロウが木の上から覗き込んでいた。
「あれは、飼っているのかい?師匠。」
「いや、急に儂の家に昔から居ついて森へ帰ろうとしないんでな。置いてやっておるんだよ。」
「なるほど、そういう事か。」
「可愛い姿だが意外と強いぞ。」
「みたいだな。」
「話し込んじまったな。ハルちゃん。失礼するよ。花の苗のいいのがある店は有名だから知ってるね。根が健康でまだ若い苗を選んでな。花が咲いたらこの爺さんにも見せておくれ。楽しみにしているよ。」
私は、深々とお辞儀をして師匠を玄関まで送りました。外に星は見えなかったが明日は晴れるらしい。お天気アプリにはそう示されていました。
セシルちゃんについては悩ましい問題が幾つかあります。それは、本人の知識レベルに応じた教育環境。それに未成年なので保護者が必要だという事です。
これは重大な問題で、このままではセシルちゃんは保護され、私たちは誘拐罪をして犯罪者となる訳です。
三島です。
この島から大学へ通い始めてどれくらい通っただろう。大学の学食で高校時代の友人にばったり会った。
「なぁお前さ、小町ハルと同棲してるって本当かよ?よく見かけるって大学で噂になってんぞ。」
「女性雑誌の記事にでもなれば正解だが、残念だったね。誤解。5人でルームシェアしている感じ…かな。以前連れていたハルは何だか性格がお婆ちゃんになってるよ。」
ハルももう大人の女性だ。近くに懐いてくれる子供がいると、一気に家庭的な女性になる。料理や掃除なんて適当だった筈がいつ嫁いで行ってもいい位になった。僕としてはあのまま無邪気にかわいい青春を謳歌して欲しかったと思うけど。
「みんな大人になっていくのだよ。親友よ。」
「俺も、もう大人だよ。お前の云うメニューに載った『加齢ライス』を食べ終わったのでバイト行くから。またな。」
僕は大学近くにある『太陽軒』という中華料理屋でアルバイトをしている。
勝手口から入りキャベツの入ったダンボールを店内に入れた。
「お疲れ様です。厨房入ります。」
「おぅ、勉強ご苦労さん。まぁ、今ちょうど客が居なくなったので休憩するわ。あと頼む。」
僕は畳んであったエプロンを身につけると手を洗った。
「よし。今日も勤労青年しますか。」
バイト先の先輩が話しかける。
「新ちゃんさ、家紋って判る?」
バイト先では新ちゃん。三島新一郎の新一郎からそう呼ばれる様になった。
僕も学校で「三島くん」と呼ばれるより「真ちゃん」と呼ばれる方が好きだ。親しみのある職場で安心できる。
「まぁ、よくあるアレですよ波の様にくねった漢字の三です。」
「あ、そうかアレは有名だし。三島くん家らしいよね。」
「どうしたんです?家紋なんて。」
「いや、ウチの葬儀をする時尋ねられたんだよ。」今時紋付袴で歩いている奴なんかいないだろ。でまぁ結果、寺まで行って確認してスマホで写真撮って葬儀屋に送るまで2日かかった。全くやれやれだよ。」
「あぁ、初めての葬式を執り仕切る時って、大変らしいですね。その焦った言い回しで伝わりますよ。」
「そうなんだよね。葬儀屋に丸投げするなんて言ってもさ、どんな家系とかは教えなきゃいけない。」
「結局、あれだ。業者や坊さんは慣れっこのルーチンワークでいいけどさ、こっちは寝ちゃダメとか親戚は煩せぇし。近所の婆さんは作法がとか言い出すし。結局温泉で露天風呂の爺さんに色々と聞いて無事葬儀は終了って話だよ。」
「ご愁傷様です。いろんな意味で。」
ドアが開く。
「いらっしゃいませ。」
「いつものライスと豚カツ下さい。」
そんな感じで忙しい中で夜が更けていった。
このサークルメンバーで一番地味なのは、私。涼宮今日子である。
今日は、大学に置いた大量のウクレレを集めている。要は暇そうに見えるメガネっ子の私が雑用係を命じられたという訳だ。
「誰かウクレレ持ってない?」
学内でそう声をかけると各部室から大量のウクレレがやってきた。要は野外イベントで演奏したまま楽器たちは部室に余っていたのだ。
「これ、有名だぞ。ハワイのブランドモノだ。」
「これなんかどうですか?竹製でかなり響きます。」
「いやもういいです。」と学内に伝わった頃には10本位の楽器が集まった。
結局、日本でウクレレ楽器を続ける人は少ない。仕事が忙しいと趣味の演奏は辞めてしまう人が多いらしい。
捨てられた安い楽器は巡り巡って何処へ行くのだろう。
そんなつまらない事を考えながら私はバイク乗り場へ向かった。
「一度に運べるかな?あ、リアバックに入れて縛ってっと。」
どうにか全部バイクの後部に乗せて移動させる事ができたが、家まで運ぶのが一苦労である。真夏にこんなことをすると日射病になりかねない5月で良かったと思った。
島に戻ったところで、お婆ちゃんと出会った。
「あんた、若いからいいねぇ。元気いっぱいで。」
「あ、はい。それだけが取り柄なんで。」
「それだけって事はないだろう?メガネを取ってごらんよ。」
「あ、はい何か?」
「…普通だね。でもお化粧次第で少しは変わるかも。あたし家へ来な。」
私は言われるがままおばあちゃんの家に招かれる事になった。
お婆ちゃんは、箪笥から浴衣を出すと着てみる様勧めた。
「これはな、娘が学生の頃に来ていた浴衣でもう着ないから袖を通してみなさいな。」
「いいんですか?そんな大切な。」
「ヘルメットで髪も乱れて。ほら。」
お婆ちゃんは、手際良く私の髪をとかし、浴衣を着付けてくれた。
私は少し照れながら鏡を覗きこむ。
「どうだい?気に入ったかい?」
「はい。ありがとうございます。サイズも丁度良いし。」
「良かった。じゃ、家に届けてあげるからね。じゃ玄関まで送るよ。」
外へ出るともう日が暮れていた。
私はお婆ちゃんに深々とお辞儀をすると。家路を急いだ。
「ただいま。」
「お帰りなさい。」
皆が揃っている。
「じゃ夕食にしようか。」
翌日、私は大量のウクレレを押し入れに揃えて置く。そこには、大学の学祭で使ったメイド服があった。
「着てみようか。」
私のメイド服。今もサイズは合うかしら。みんなの分も揃えた方が良いかもしれない。秋の学祭に向け、今から準備を始めなければならなかった。
「童顔の私も、もうこの年齢になるとこう云う服が着れる時期って少なくなっちゃうんだよね。」
鏡に映るかわいい姿に心躍る時期じゃなくなったんだ。数枚スマートフォンに撮影した後。元の位置に戻した。
部屋の窓を潮風が入って気持ちいい。この島っていい香りがする。
私は、ワンピースに着替えて障子戸を開け放った。
ドアチャイムが鳴った。
「メガネのお嬢ちゃんいるかな?さっき会ったお婆ちゃんだよ。」
私はドアの扉を開けた。
「こんにちは。来ていただきありがとうございます。」
「島の近所で声を掛けたら、浴衣たくさんあったので持ってきたんだよ。みんなで暮らしてるんだって?」
「はい、サークルメンバーで何人かと暮らしています。とうぞ上がって下さい。今お茶をご用意しますので。
お婆ちゃんは小さな体だが、とても元気に見える。
「おや、花が飾ってある。綺麗だね。あんたが飾ったのかい?」
「いえ、違う方ですね。」
「そうかね。こまめに水を変えてあげるといいだろうね。その方が花も喜ぶ。」
『五月待つ 花橘の香を嗅げば 昔の人の袖の香ぞする』
「お婆ちゃんも和歌が好きなんですか?」
「いや、私は俳句だよ。これは、お婆ちゃんのお母さんが知っててね。これだけ覚えているんだよ。」
「花の香りは素敵ですから読みたい短歌ですね。お婆ちゃんお茶どうぞ。」
「ありがとうね。これを頂いたら帰らないと。」
「そうですか?また来てくださいね。」
「ありがとうね。また。」
夜間降り注いだ雨も上がり、まだ薄靄のかかった朝になった。
午前中、島のスピーカーから訃報が響いた。
「通夜は本日18:00より公民館にて行い、葬儀の場所は…」
俺はまた釣り道具の手入れを行い、何かのきっかけを待っていた。何かが起こる前には必ずといって兆しが起こるものだ。
外へ出ると昨日の雨で水たまりが空の風景を映し出していた。散歩途中で紫陽花が植えてあるのに気づく。この紫陽花は何色だろうか。そう感じながら散歩と様々な花が咲いていた。
釣り場に着くとウキを付けて餌を海に漂わせる。3時間程度、仕掛けた針の餌を取り替えてはみたものの、釣れずじまいだった。
釣り道具をしまい、いつも通りの帰り道を歩いていると家の手前で、驚いた。借家の周囲がラベンダーでいっぱいだったのだ。
「お帰り哲也。どう?この花。すごいでしょ。それにセシルの髪。」
「え?美容室で黒く染めてもらったの?何で?」
「だって、セシルちゃんが浴衣に似合わないからって聞かないんだもの。」
「かわいい日本の女の子って感じだな。まぁ、あの髪色だと目立っちゃうし似合ってるよ。」
セシルは、春物のワンピースを買ってもらった様で早速お披露目をしていた。
「これ、新製品で買ってもらっちゃったの。汚してもすぐに汚れが落ちちゃうから平気なんだよ。」
「そうか、良かったな。ハル姉ちゃんにお礼を言って、大切に切るんだぞ。」
「私は、これ。ちょっと太めのシルエットのパンツ。」普段のお洒落に買ったみた。
「ハルも似合ってるよ。にしても、何このラベンダーの量。買ったの?」
「いやー、プランターで少し買って帰る途中にね、農家のおじさんに声かけられてね。蔓延っているから全部持っていいって。」
ハルは本当に何かする時は徹底的に遂行する。陸軍にいました的な徹底的な素振りに「ハル大尉」と異名を持つほどに。
「で、こんな大量に植えちゃったんだ。まぁ、いいけど。」
「セシルちゃん良かったね。哲也お兄ちゃんもいいって。」
涼宮今日子の様子が暗い。何か事情があるのだろう。小玉春香の側で泣き崩れている。
「留守中何があったの?何かされた?」
俺は、事情が解らず今日子をただ心配した。花瓶の花越しに彼女たちが落ち着くのを待つ事になった。涼宮は黒いワンピースを着て座り込んだままだ。
春香の口が開く。
「今日子、今日はもう部屋で休みな。食事は後で運ぶから。事情はみんなに話しておくよ。」
今日子は大人しく部屋に戻って行った。
「行き違いになったけど、今日子と私。お婆ちゃんの告別式に行ってきた。」
俺は、訳わからないまま、帰宅した途端に春香の話を聞くことになった。この件はハルもセシルも知らない様子だ。正座して春香の話を聞いてみることにした。
「今年の夏もみんなで浴衣を着て遊びたいって事でね。偶然知り合ったこの島のお婆ちゃんにお世話になったらしいの。」
部屋には、セシルの浴衣も含め、男女共に並べられている。
「これ、全部そのお婆ちゃんが準備してくれたの?」
俺は、その浴衣を手に取った。
最近のデザインとは思えないがシンプルな花柄の明るい女性浴衣。男性の浴衣もシンプル。でもくたびれて無く。生地はしっかりしている。
「すごいね。まともな浴衣がこんなに。」
「そう、全部そのお婆ちゃんが。で、今朝亡くなった。」
「え?急だね。そのお婆ちゃん、今日子ちゃんと仲いいの?」
「昨日逢って、一気に距離が縮まったらしい。島民性ってやつかも。」
今日子の部屋から、大声で泣く声が漏れ聞こえる。
「悲しいだろうけど今は忘れて。親切なお婆ちゃんが悲しむから。楽しく夏が終わるまで大切に着させてもらおうよ。」春香の優しい声が部屋に響く。
その葬儀は家族葬なので、親戚以外はもう会え無いらしい。コロナ禍の影響は未だに影を落としている。
俺は夏に一番好きな花「日本朝顔」を鉢に植え、水をあげる事にした。
辺り一面、潮風に乗ってラベンダーの香りが漂い続けるが、ローズガーデンの様な蒸せる匂いはない。
バラの香りは芳しく素敵だが籠るとむせるのだ。
過去に個人が所有する薔薇園に迷い込んだが、棘が多く愛を語り過ぎる。
そんな過去の香りに想いを馳せながら、私はジョウロで鉢植えに水を注いだ。
「哲ちゃん。どうなってるんだいこの紫色の庭は。」
師匠が釣り竿を持ってやって来た。
「それがですね師匠。農家さんの誰かから貰い受けたらしく、この有様ですよ。ところで、釣りのお誘いですか?」
「あぁ、そうだけど。ちっとだけ桜を観に行かないか?まだ咲いている樹があるんだよ。弁当持って誘いにきた。」
「そうなんですね。喜んでお伴させて頂きます。」
5月初めといえば、もう桜は散っていて当たり前。
その樹の前にはまだ満開と言ってもいいくらいの桜が立っている。
「『色は匂へど 散りぬるを 我が世誰ぞ 常ならん 浅き夢見じ 酔ひもせず』って知っているかい哲ちゃん。」
「はい勿論。」
「昨日、島の婆さんが死じまってな。美人で優しく島のアイドルだった。見事に散ったよ。この桜の樹はあの婆さんが嫁いだ時持ち込んだ桜だ。」
一つの花びらがはらりと落ちる。
「じゃ、またな婆さん。」
一羽のシロフクロウが師匠の肩に乗った。
「明日、また釣りに迎えに行くよ哲ちゃん。ありがとうな。」
一旦、家に戻る途中、庭に植えられたラベンダーが目に留まる。やはりラベンダーは微ながら香りが立ち込め紫色の色彩が鮮やかだ。
この花がセシルの記憶に深く刻まれていると思うと羨ましい。私には、ありきたり過ぎてその喜びが理解できない。
「ただいま。」
私はドアノブを開けると、可愛らしいショートカットのセシルが出迎えてくれた。
「セシル、この家は好きかい?」
「うん、居心地が良いし夏が楽しみ。」
黒髪に染めた、女の子は、こう言った。
「この島って綺麗だね。沢山の花が咲いてるの。ライラックの木でしょ。カザビアにサルビア、あと、山の中にユリも咲いてた。」
5月だから色々な花が咲いている。この子は博識だなと思った。
「でもセシル覚えておいてね。桜や藤は特別、素敵なんだ。春を代表する樹として世界中で愛されているんだよ。長い年月愛されて大切にされている。咲いては散り。咲いては散りはするんだけど、万人の記憶に留まるのはこの二つの樹だからね。」
「お花見をしない日本人なんて知らないし、藤棚が鮮やかに咲けば人は集まるんだよね。不思議だよね毎年楽しみにしている。」
俺の記憶を想起させるのは薔薇。そして、セシルの記憶を想起させるのはラベンダー、という事になる。人にはそれぞれ自分にふさわしい香りがあるのだ。
「セシル。ライラックの花言葉を知っている?」
俺は、知ったかぶりをしたくて質問してみた。
「わかんない。花言葉なんて沢山あるから覚えていない。」
「『友情』が有名かなぁ。この島に来て数日過つけど、家にいるお兄ちゃんやお姉ちゃんと仲良く過ごせたらいいよね。」
「うん。みんな優しいし、楽しい人ばかりだから色々話したい。」
「じゃ、あのライラックの木に手を合わせてお願いしようか?」
二人で手を合わせて祈った。
帰り道、またラベンダーの香りが漂う。「悪くないなぁ、控えめで落ち着いた香りだ。」僕はそう呟いた。
その日は、一日雨の天気予報だった。ハルがソワソワと落ち着かない様子なので、尋ねてみる。
「どうしたの?そんなに慌てて。いつものハルみたいに戻って。」
「悪かったわね。いつも慌てていて。」
三島が説明を始めた。
「哲也さん、実はね。洋子さんのスマートフォンに連絡が入ったらしくてセシルのお父さんがこちらに来て話がしたいらしいんですよ。困ったもんで、朝からこの調子なんです。」
「あぁ、こいつセシルと一番仲が良かったからなぁ。」
『色見えて うつろふ物は世中の 人の心の 花にそ有りける』
「私の前で小野小町の歌なんて詠まないでよ。こんな時にそんな気分になる訳ないじゃない。女心の解らない男ね。」
ドアチャイムが鳴った。いよいよかと、ハルの表情が一気に曇る。
「はい。今開けます。」
髭面のヨーロッパ人の男は、流暢な日本語で挨拶をした。
「こんにちは。セシルの父のレモンドと云います。この度は、セシルがお世話になっている様で申し訳ない。」
「いえ、俺たちこそご心配をお掛けしたのではないかと。どうぞお入りください。」
男は、黒い傘を巻き、レインハットを取ると濡れた身体をハンカチで拭い取った。
「えっと、先ずはセシルが会いたがっていたと思いますので、お二人でお話されては、如何でしょう。上がってください。」
「お邪魔します。お気遣い有り難う。」
俺たちはリビングを二人に提供して、話が終わるのを待つ事にした。
「お茶をお持ちしますので、話が終われば誰でも声を掛けてくださいね。」
積もる話や近況報告などあったろう、話はおおよそ3時間。時計の針は午前11時を差していた。
セシルがハルを呼びに行き、俺たち全員がリビングに集合。これからのセシルについて父親のレモンドさんから話しがあるとの事だ。
低いが若々しい声で、セシルの父親は話始めた。
「セシルが大変お世話になった様だね。あの姿では目立って困ったろう?この島で過ごしやすい様に髪まで素敵にしていただき、感謝の気持ちでいっぱいだ。皆さん本当にありがとう」
「こちらこそ、娘さんのお陰でサークルや島の人たちが楽しい日々を過ごさせて頂いています。今日は娘さんをお迎えに来られたのですか?」
「いや、実はお願いがあってね。当分は君たちに甘えさせて頂ければと思っているんだよ。先ほど娘の話だとここのでの生活が気に入った様だから。身勝手なことで申し訳ないが、頼まれてはもらえないだろうか?今、私の住むフランスは、葡萄の産地として有名だけど、最近では気候変動の影響かあまり良いワインが採れなくなってね。正直忙しいんだが…。」
「お預かりするのは、こちらとしても嬉しいのですが…。懸念しているのは、日本では、保護者がいないと長期間お預かりするのは犯罪でして。あとセシルの学校の事も。」
俺たちは顔を見合わせて不安な顔を見合わせる。
「その件については、大丈夫だ。娘の母親は日本人で戸籍は日本。それにこの子、私とは違って、外国の大学を飛び級で卒業して博士号を持っているんだよ。ホント誰に似たのか解らないが、頭脳だけは優秀でね。」
「でも、そのせいで友達もできず、少女時代を過ごしたんだ。この子にはその失った楽しい時間を経験してもらいたいんだが。」
もし、この父親の願いが叶うなら、そのお手伝いができたなら。俺の残りの人生の一部を共に過ごす価値はある。そう思った。
メンバーの顔から緊張感はなくなり、室内に安堵の空気が流れる。窓辺の白いカーテンは吹き込んだ風に揺れた。
「君たちに保護者の責務を負わせるのは私も気が引ける。そこは安心してもらっていい。その件は、この島の大人に引き受けてもらおう。この封筒にはセシル名義の通帳や市役所の書類が入っている、私の連絡先もね。それにしてもここの市役所はいいね。何もわからない私でも大切に扱ってくれたよ。」
日差しがリビングに差し込みワックスがけした床に反射した。まだ、夏の日差しとは違う柔らかい空間に身を置き、私たちには笑みがこぼれた。
雨が上がる。話を終えたレモンド氏は、帰り自宅を始めた。
「それにしてもここに飾ってある絵画は見事だね。数点だが印象派の名画がある。モネ、オギュースト、これは誰だか知らないが繊細で飽きない絵だね。」
「どれも贋作なので、よろしければ、数点お持ち帰り頂いて結構ですよ。洋子さんの。あ、この女性の広島の倉に何枚もあるらしくて替えは幾らでもありますので。」
「どうも曽祖父のコレクションらしく、昔某テレビ番組で鑑定してもらったのですが、審査結果を鼻で笑われて処分に困ってるんです。お気に入りの物があればお持ち帰りください。」
「いいのかい?じゃ、ありきたりだけど、このモネの睡蓮を貰っていくよ。」
その紳士は、大切そうにその絵画を抱え、紙に包んで脇に抱えた。空は夕焼けで茜色に染まり、水たまりに反射している。
「これで失礼するよ。セシルと楽しく暮らしてください。」レインハットと傘を鞄に収納すると手を上げて去っていった。
30分程度経ったろうか、ドアチャイムが鳴った。
「…今日は、家庭訪問の日なのか?」
「哲っちゃんいるかい?バラの鉢植えを持ってきた。お前さん好きだと言ってたろ。しかしバラっていうのは種類が多いな。赤いの持ってきた。」
『黒真珠』あと、『レオナルド・ダ・ヴィンチ』
「師匠、ありがとう。俺これ両方好きだよ。『黒真珠』は赤いビロードみたいで美しいし、『レオナルド・ダ・ヴィンチ』は強くて香りがいい。これ両方好きだよ。」
「そうかい。喜んでくれて嬉しいよ。でさ、さっき外国人に会って、ここにいるちっちゃい嬢ちゃんの保護者になってくれっていきなり頼まれたんだけどさ。引き受けちまったがいいかね。」
「え?いいの。そんな安請け合いして。こっちは助かるけど。」
「いいの。いいの。この島は小さな事、気にしないから。」
幸運というのは突如連鎖的に起こるものだ。
「で、今日はお願いがあって来たんだが。先日農家の婆さんが死んじまっただろ?あの桜の下で言ってた人。畑仕事手伝ってくんないかな。」
奥にいた洋子さんが、勢いよく飛び出し言った。
「私にやらせて下さい。昔から野菜を育てたかったんです。大根とか、きゅうりとか、トマトとか。」
「いや、そんなに喜んでもらえるとは思わなかったな。助かる。」師匠は深々と頭を下げた。
玄関にバラの香りが立ち込め俺は思い出した。
「…もう、他人の畑から野菜を盗むのはダメなのか。獣と違いヒトだもんな。」
田畑は宇宙である。と誰かが云った。今、俺が云いました。
近代農業は至ってシンプルで、コンバインやトラクターを利用する。ただ、そう云った機械は、高価で一健に一台あったとしてもかなり古いものをひたすらメンテナンスして使うことになる。
鍬を使う場合は、収穫の際程度。これが基本ではあるが、まぁ小規模の家庭菜園レベルの規模であれば、機械が無い方が良い訳だ。コストがかかり過ぎる。
近年、野菜が高いと云うが、当然だ。育成の為黒色のビニルで囲い苗を植えたり、野菜によってはビニルハウスを使ったりと何かと費用を掛け毎日育成加減を観るのだ。
最新の化学肥料で程度害虫は寄らなくなるが、天候次第で苗は枯れたり根腐れを起こす。野菜と云うのは物流コストや農地管理を考えると全く割に合わない。「代々農家だから、土地を守る」という縛りの世界といっていい。
つらつらとこんな事を思い浮かべながら、俺たちは婆ちゃんの畑へ出向いた。数日しか居ないよそ者に対して温かい気配りをいただいた。
ー「綺麗な夏用の浴衣」を全員分なんて、普通は頂けるものではない。ー
「あぁ、ここだ。ここ。」
師匠が案内してくれた畑は民家の裏庭にある程度で、それほどの大きさではなかった。
「あ、これって。大丈夫じゃない?ねぇ、この大きさ。ほら、日当たりい良いし。あ、大きなスコップもある。」
一緒に来たハルがいろいろ触って、楽しそうに話す。
「このお婆ちゃんの畑を助けよう。何植える?」
「これから夏だから枝豆。」
「そうそう、ビールとかに合うし。」
二人で笑った。
師匠に礼を言って、私たちはそのまま家路につくことにしました。広島に住んでいた頃から、農業に憧れていたのですから真剣に取り組まなければならないのは私でしょう。
「で、洋子さんは何が収穫したいの?」
ハルちゃんが私に尋ねる。
「初めての経験なので、よくあるお野菜を育てたいけど、みんなで決めたいと。相談かな。枝豆以外ならなんでもいいと思ってるの。早めに収穫できるといいかなぁ。でも、直ぐに収穫できるのがいい。」
「お婆ちゃんが植えてたのは、きゅうりと茄子、サツマイモの葉もあったので夏野菜は収穫できそう。ハルちゃんお腹減った?」
「うん。」
「じゃ、今夜はカレーにしようか?」
そんな話をしながら家路につく。
私たちは、ラベンダーの香りに包まれながら、ドアを開けます。
「痛っ。」
セシルちゃんがこめかみを押さえました。
「どうしたの?」
「少し、昔の事が思い出せそうなの。でもすぐには無理みたい。」
「焦らなくて、いいからね。迷子で来た理由なんて。」
「そうじゃないの。ここには意識して来たんだけど、その理由を忘れちゃってて。大事なことなんだけど。」
ラベンダーの記憶。
なんだろう。私は少し不安になった。ただの賢い女の子ではないのかしら。
リビングの棚の上にあるヴェネツィアガラスの器を出してセシルに向けました。
「ねぇ、体調悪くなったら言ってね。」
私は器越しにセシルちゃんと庭のラベンダーを眺めてみる事にしました。
「何か視える。」
「建物が視える…。懐かしい様な切ない様な建物。ネモフィラが一面に咲いた山に。」
一緒に私も覗きました。
「あ、ホントだ。煉瓦の壁にアイビーが張っていて。すごいね。」
「庭にあるのは鉄製の白い塗料を塗った。あ、凄いお庭もあるね。」
「私の記憶が混乱しているのかな。でも知らない建物なの。」
外国人のせいか、見た目は私達と変わらない年頃に見えるが、やっぱり年下だなぁ。言葉遣いは、少女のままでした。
「ここまでにしよっか。」
私は、器を箱に入れて棚の上に戻そうとする。「以前より気泡が増えたかも…。」比較のためスマートフォンでさっきの状況を撮影し続けました。
「食事の用意するね。ハルちゃんが不機嫌になるといけないし。」
ーバラの香りー
俺は、師匠からいただいた赤いバラの花を眺めながら過去を想う。
この島には、広くはないが針葉樹の森がある。以前の俺の世界だ。雨上がりの水たまりには、あめんぼうが走り湿り気のある苔やシダの香りが瑞々しく鼻先をかすめる。故郷の風景だ。
あいも変わらず、俺は釣り道具の手入れをしていた。あの森には師匠の家がある。白い森の賢者と暮らしている筈だ。
「夕飯できたよ。みんな。」
洋子さんの声が家に響く。
「うーん。行くか。」
おそらく畑の話になるだろう。今日の話題は。リビングへ行く事にした。
「哲也さん。それにみんな、一緒に考えて欲しい事があるんだけど。」
(やっぱり。)
全員がそんな顔をした。
「野菜のことでしょ?」
口火を切ったのは、意外にも涼宮さんだった。
「私、治療用の薬草とか植えるスペースが欲しいんだけどいいかな?」
「あ、ええ。いいですよ。それは大丈夫。今日の夕飯の話題にしたいのは
そうでは無くて。セシルちゃんの記憶についてなの。」
皆の顔つきが変わる。
「何かあったんですか?」三島が尋ねる。
そして、洋子さんは今日起こったセシルの出来事を話し始めた。その時視えた画像が共有される。
春香は興味深く話を聞いて、洋子さんに尋ねた。
「わかった。あの器について本格的に調べるってことだよね。」
「そういう事になるわね、状況的に。セシルちゃんの体調を伺いながら徐々にという事になるけど。」
「そうか、確かにセシルの頭痛が気になるね。」涼宮は目を閉じて首を傾げる。
「冷める前に夕食を食べながら続きを相談しましょう。」と云われたものの、急にアイディアが浮かばず。沈黙が続いた。
「俺はその件について相談したい人がいるんだが。」
「言ってみて。」洋子さんが答える。
「師匠にさ、詳しく伝えてみようと思うんだよ。年の功に頼るというか、セシルの保護者なんだから、事情を全部打ち明ける。それもいいんじゃないかなと。」
「セシルちゃんはどう思う?いいの?」ハルが尋ねる。
「もちろん。あのお爺ちゃんは、みんなが思っているより力があるよ。」
「力?」
「あぁ明日、俺が器を持って相談に行くわ。取り敢えず、この一件俺が預かるから。」
皆、食事を終えると各部屋に戻る事になった。セシルはもはやみんなの実の妹みたいな存在になっている、チームワークは無理なく順調だ。いづれ俺たちはセシルの口にした『力』について知る事となる。
自室に戻る前に新しく飾っている絵画に目をやった。エドガー・ドガの『踊り子』はいいが、このレンブラントの肖像画はつまんない絵だな。洋子さんの家にはどれだけ贋作があるんだろう。
素人でも判るが、これだけの贋作を描けるのだ。ザヴァン症候群かその類に近い症状だろう。異常なまでに正確過ぎる。
赤いバラの香りは俺を森へと誘う。
「明日は森に還るのか。」
感傷的になり、なぜか涙が頬をつたった。懐かしさだろうか。
翌日は快晴。俺は、リビングにてトーストとコーヒーで朝食を済ませる。
腕時計の秒針は、8時を差していた。訪問時間にはまだ、間があるので鉢植えに水を与える。
そろそろ出かけるか。
俺はバックバックに器を入れてドアを開けた。潮風と温かい日差しを浴びながら、森にある師匠の家へと向かう。師匠の家には数本のバラが咲いていた。師匠もバラが好きなのか。
ドアチャイムを鳴らす。
裏庭から師匠が顔を出した。
「哲っちゃん、よく来たね。お茶でも淹れるよ。そこに腰掛けて待ってなよ。」
「悪いね師匠。白いフクロウはもう寝たのかい?」
「あぁ、あいつか。たぶんどこかで寝てるんだろう。呼ぼうか?」
「いや、いい。今日は、師匠に観て貰いたい物があるんだ。」
師匠はポケットから銀縁の丸い眼鏡を取り、冷たいお茶を冷蔵庫から出してこちらへ戻る。俺は、バックパックから眼鏡を出してヴェネツィアガラスを取り出した。
「綺麗な器だな。誰のだい?」
「セシルの物。いや、セシルに関係しているものだよ。」
「なるほどねぇ。曰く付きって訳か。でも、これは悪い意味ではないよ。」
「師匠、何故判るんだい?」
「ほら、顔が映り込んでも綺麗だ。悪い物だと影や変な物が現れるんだよ。」
「そうなの?師匠、ひょっとして昔、変な壺でも売ってた?」
「あー、まぁそんな時もあったかなぁー。」
「ろくでもない爺さんだな。」
「ちょっと待ってな。器の本を持ってくるから。」
裏庭を眺めると朝顔の鉢植えがあった。
やがて、師匠が分厚い本を持って帰ってくる。
「あぁ、これが近いな。今のヴェネチアガラスは、子供じみた水玉模様が、多いんだが、外側の流線模様と吹きガラス特有のここのこんな感じ、な。良く似てるだろ。普通は美術館に置いてある代物と言っていい技モノだ。」
「確かに似てるな。で、師匠。この器なんだけど。不思議なんだよ。」
「なんだ?」
「一回だけ発光した事がある。あと、ガラス越しに過去の風景が視えたりもする。」
「んな事あるか。変な本の見過ぎだ。」
「いや、それがあるんだ。これは昨日起きた出来事なんだけどさ。」
俺は、画像を師匠に見せた。
「なるほどなぁ、世の中には不思議な事もあるんだな。」
「信じるのかい?」
「哲ちゃんたちが見せるんだからまぁ、嘘ではないんだろう。」
「しばらく、見てて感想を聞かせてくれ。俺はバラでも見て来る。」
周囲のバラを見ながら、気分を落ち着かせる。湿った空気が心地いい。
「解ったよ。哲ちゃん。」
「え、何?何が解ったの?」
「これさ、専門家に見せた方がいい。」
数日間、ヴェネツィアガラスの器は師匠に預ける事にした。
「師匠、お茶。ご馳走さまでした。師匠の家は居心地いいですね。緑に囲まれて。」
「哲ちゃん、昔を思い出したかい?」
「…。どうしてです?」
「お前さんは昔、儂に会った事があんだよ。まぁ、かなり昔の事だが。」
「!」
一瞬身構えて、師匠を見た。
「大丈夫だよ。甘い、甘い。お前さんより儂は長く生きておるよ。儂も化身だからな。元は白蛇だ。」
「…。何年くらい前にヒトの姿になったんです?」
「五十年いや、六十年前か…。当時は今治に潜んでおってな。ほら先日、山林火災があったろ。あの辺りが縄張りだった。お前さんと遭ったのも大昔の頃だ。」
「それ、普通に狐が蛇に遭って逃げ出したって事?」
師匠が大声で笑った。
「そうだよ。あの時のお前さんの驚き様といったら。」
「早くいいなよ、そう言う事は。どこに祀られてたんだよ。」
師匠はぺろっと舌を出した。
「教えん。まぁ、お前さん器の事は待て。それよりもセシルの様子は些細な事でも儂に伝えろ。頭痛ってのがどうも気になる。些細なことでもだぞ。」
俺は、師匠の家を出て帰り道、バラの香りが漂う中で思い出した。
「あ。フクロウと蛇、あいつらか。」
家路を急ぎ家に戻ると、どうも様子がおかしい。
「どうしたんだ。空き巣か?」
涼宮が疲れ切った顔で答えた。
「セシルちゃんの目が光って部屋で暴れた後、倒れたの。」