第7章:逃げ水の夜
夜の御影町には、奇妙な静けさがあった。
街灯の下、虫の声ひとつしない。
窓はどこも閉ざされ、人影はない。
まるで町そのものが“呼吸”を止めているようだった。
「……出るよ」
蓮は、みのりの手を握ってうなずいた。
「今なら行ける。まだ儀式の準備は始まってない」
「……うん」
ふたりは裏道を縫うようにして、町外れの旧道へと向かう。
逃げるための唯一の道は、山を越える林道だけだった。
しかし、数分も進まないうちに、どこか遠くから太鼓の音が響いてきた。
ゴン……ゴン……
「やばい……もう始まってる」
「蓮くん……見て」
みのりが指差した先、道の先で、町の役場の車両が立ちはだかっていた。
「ここから先、立入禁止です」
反射ベストを着た男たちは無表情で、問答無用とばかりに通せんぼしていた。
「避難勧告が出ております。これより先の道路は土砂崩れの危険があるため……」
「そんなはずないだろ、晴れてんじゃねえか!」
「町の決定です」
その瞬間、男の無線機から別の声が割り込んできた。
『対象、確認。計画通り、“儀式台”へ誘導の準備を』
——誘導?
蓮は男の腕を振り払い、みのりの手を引いて脇道へと走った。
「逃げ道が……」
「どこかあるはずだ!」
だが、どの道も封鎖されていた。
非常灯が赤く点滅し、電柱のスピーカーからは意味不明の祝詞のような音が延々と流れている。
——ナガミズ……ナガミズ……
低い声、水の中から響いてくるような音だった。
「あ……雨……」
みのりがつぶやいた瞬間、空が割れるような雷が落ち、強い風とともに豪雨が始まった。
道が濁流に変わる。
「くそっ、山道はもう無理だ……」
「蓮くん……神社、裏口から入れるかも」
「なんで……」
「“水が通る場所”は、どこかに繋がってるって、お姉ちゃんが言ってた」
「……神社の地下井戸か」
「うん。もしそこが開いてれば、町の外の“水源”に抜けられるかもしれない」
「行くぞ」
ふたりは再び駆け出す。
降りしきる雨の中、道の両側には、傘を差した信者たちの列ができていた。
白装束。無表情。
ただ静かに、太鼓の音に合わせて首を垂れている。
まるで死者の行列のようだった。
「どうして……みんな……」
「“信じてる”からだ。殺されると分かっていても、従ってしまう」
神社の鳥居が見えたとき、蓮の背後で雷がもう一度落ちた。
地面が揺れ、坂道が崩れる。
「早く! ここを越えたら、きっと……!」
鳥居の下をくぐったその瞬間、
足元の水たまりが、まるで意志を持つように揺れた。
「あ……れ……」
みのりがつぶやいた。
その目が、水面に映る“なにか”を見つめていた。
「見ないで! 走れ!」
蓮はみのりの手を強く握り、雨の中をふたりで駆け抜けた。
——そのとき、水面が、微かに笑ったように見えた。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
この章では、主人公たちの“逃亡劇”が始まりますが、それ以上に「町そのものが彼らを逃がさない」構造が明らかになっていきます。
信仰によって支配される人々。
儀式を妨げまいとする組織。
そして、災害という形で牙をむく“水の意思”のような怪異。