8 声を失った過去(わけ)
「大丈夫?」
瀬戸裁判官が背中を撫でてくれた。
「はい」
私は裁判所の女子トイレでさらに吐いた。だが胃の中のものを全部吐き出すと落ち着いた。
「本当にごめんなさいね」
瀬戸裁判官が謝った。
「いえ、迷惑をかけているのは私の方です」
「私達の責任だわ。あなたは被害者の知り合いだったから、いくらイラストのように加工しても、殺害現場の被害者の写真を見たらショックを受けることくらい予見しておくべきだったわ」
私はハンカチで口を拭いた。
「うがいをする?」
「はい」
私は水を口に含むと吐き出した。
「ごめんなさい。あらかじめ裁判員から外しておくべきだったわ」
「裁判官の責任ではありません。多分、このところ忙しくて、少し疲れていたんだと思います」
「そういうことならいいけど……」
「もう大丈夫です」
私は瀬戸裁判官に付き添われて、法廷の裏にある待機室のような小部屋に戻った。
「平気ですか?」
岡田裁判長が心配そうに訊いた。
「はい」
「裁判を続けても大丈夫ですか」
「はい」
「では再開します」
岡田裁判長を先頭に法廷に入った。
法廷に戻り席に座ると、私は岡田裁判長の方を向いて手を挙げた。
「どうしましたか」
「一言、私からお詫びをさせて下さい」
岡田裁判長は軽く頷いた。
「先程は、見苦しい場面をお見せして申し訳ありませんでした。また皆さんお忙しいところ、私のせいで休廷となり、お時間をとってしまい、誠に申し訳ありませんでした。重ねてお詫びいたします」
私は思わぬ失態で大勢の人に迷惑をかけたことを謝罪した。
「それくらいでよいでしょう。体調不良は致し方ありません。では証拠調べの手続きを続行します」
岡田裁判長が言った。
私はもう一度深々と頭を下げた。
すると、突き刺さるような視線を感じた。
(何、誰なの)
私は顔を上げると法廷を見回した。
だが、視線の主を見つけることはできなかった。
(少し神経が過敏になっているのかしら……)
法廷では検察官が再び殺害現場の様子をモニターに画像を映し出し説明をしていた。
(あゆみちゃんのことになると、私は、まだ冷静な気持ちを取り戻すことができないのかしら)
私にはあゆみちゃんのせいで声を失った過去があった。
SNSの一件以来、あゆみは私のことを目の敵にした。楽屋でも嫌がらせをしたし、私のSNSのアカウントには知らない人から誹謗中傷のDMがたくさん来た。
「このドブス、早く死ね」
「少しばかり声がいいからって調子に乗るんじゃない」
「皆お前のことは嫌いだ」
「はい。おしまい。人生終了宣言」
そうした罵倒や脅しのようなメッセージが頻繁に送られてきた。
ブロックしても、また別のアカウントから正体不明のメッセージが届いた。
事務所との関係も良くなかった。
「聞いたよ。せっかくあゆみちゃんが営業して、セッティングしてくれた地上波出演の話を、秋奈ちゃんがぶち壊したんだって」
そんな風に幹部からなじられた。
「すみません」
頭を下げて耐え忍ぶしかなかった。
同じユニットのメンバーは仕事の打ち合わせ以外には話をしてくれなくなった。
家に帰っても夜眠ることができなかった。
心のなかで「もうやめたい」、「いっそ死んでしまいたい」とつぶやくようになった。
そんな中、風邪をひいた。高熱は出なかったが、大事を取り一日だけ仕事を休んだ。
翌朝には熱が引いた。
私は仕事に行こうと思い、マネージャーに電話した。
「はい」
マネージャーが出た。
私は、おはようございますと言おうとした。
「……」
「もしもし」
「……」
「どうしたの。電波の具合でも悪いの」
私はマネージャーに話そうとした。
だが声が出なかった。
病院に行ったが、はっきりとした原因は分からなかった。ストレスによる一時的なものと診断された。
声が出ないので私は『仮面舞踏会』のメンバーとしての活動は休止となった。
そして声の出ない状態がひと月ほど続いた後、事務所から解雇を言い渡された。
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