69.つかみ取った日常
「魔王様?」
「……グランバルド、忙しくなるぞ」
ハッとしたように一瞬動きを止めた魔王様は、それだけを呟くと書類に伸ばそうとした手を下げた。そして立ち上がったかと思えば、窓を少し大きめに開けた。まるで、そこから来る何かを迎え入れるように。
魔王様の行動から遅れることしばらく、ようやくその存在を感知することが出来たので次に何をするべきか、と頭の中で計算を始める。
ひとまず今はこの書類を片付けるよりも、やらなければならないことが飛び込んでくるのだから。
「魔王様、使い魔を通じての報告で申し訳ございません」
「前置きはいい。ヴェルメリオ、今どこにいる」
「ゼスの森に」
ゼスの森は、先日調査の報告が上がった地域で、その報告に違いがないことを確認するために文官と軍部から何人かを派遣している。地盤の緩みからの土砂崩れが多い地域だったので、土属性の魔法を使える者を配置していたはずだ。
原因は、最近になって急に伐採をしてしまった森が水分を蓄えきれずにいたという話だった。それも、住人達にはあまり思い当たることがないという、生活圏を広げるために無自覚のうちに切りすぎていたという結果だと報告が上がっていたはずだ。
「近くか」
「はい。この距離でしたら、おそらく許可さえいただければすぐに」
いかがしましょうか。ヴェルメリオの言葉は、そう続くだろうことは簡単に想像できた。そして、おそらく魔王様からの許可は下りるだろうと。
久しぶりだったし、この城から離れた場所だから気づくのが遅れてしまったけれど。
「魔王の名の下に許可する。……殺すなよ」
「かしこまりました」
用件を済ませた使い魔は、ふわりと空気に溶けるように消えていった。ヴェルメリオはコウモリを使っていたけれど、今のは実体ではなく魔力で作り上げた幻だったのだろう。
魔力の消費が激しいと聞いていたけれど、時間を惜しむ報告ではないと判断してのことだ。それが出来て魔法も剣も十分に使いこなせるヴェルメリオが近くにいたことは、幸いだった。
「援軍の準備をします」
「ああ、任せた。報告は後回しでいい。魔法陣の移動制限も解放しろ」
「はい!」
ゼスの森へは、ここから魔法陣での移動を二回ほどしなくてはならない。その距離を移動するには、通常だったら事前に申請が必要だ。それは魔力の弱い者たちを守るための手段でもあるから、許可を出すときには慎重な判断が求められる。
魔王様が緊急だと判断した。それだけで、魔法陣を使う軍部と、その維持管理を行う番人は意味を十二分に理解する。
だから自分がやることは、いかに早く正確に、各所へ伝令するかだ。
そうして久しぶりとは思えないスピードで、城の準備は整えられた。先に向かった一陣には、ゼスの森近くへと続く魔法陣の番人に渡す簡易書留を託して。
「さすがに、襲撃が魔族か人族かまでは分からんな」
「向こうへ送った一陣に、遠見の水晶を渡してあります。しばらくしたら、映像が送られてくるでしょう」
魔王様が王冠を戴いた直後には、定期的にあった襲撃。そのおかげで久しぶりと言える今も、城の者たちは混乱することなく動けているのだけれど。
最初の頃はどうしていいか分からなくて、ただ自分の不安を解消したいがためにあちらこちらへと走り回っていたが、今は指示を出して各所から上がってくる報告を待てるようになった。
自分が、とすべてを抱え込まなくても頼れる者たちがいる、という事にようやく気が付いたとも言えるけれど。
「魔石、置いといてよかったな」
「ええ。倉庫にあっては文字通りただの飾りになるところでしたね」
魔法陣を移動するのに、魔力の消費はない。魔法陣の座標を固定することによって、使用者に負担がかからないように、と魔道具の製作担当達が日々知恵を絞ってくれたからだ。
今回のように緊急時を想定して置いてある魔石には、魔王様の魔力が籠められている。たいていの魔道具は問題なく作動できるし、魔力が尽きそうな魔族でも即座に回復できるはずだ。
「被害が少ないと、いいんだがな」
「ヴェルメリオがいるのです。何の心配がありましょうか」
「そうだったな」
ヴェルメリオは、先代魔王様の時にはただの一部隊長だった。それも、あまり活躍の場がなく目立たない部隊。護衛に誘ったのは魔王様本人だったと聞いている。それ以上の事は知らないし、正直始めの頃はヴェルメリオにいい感情を持っていなかったから、今更聞こうとも思わない。
自分にとっては魔王様の護衛になってからのヴェルメリオの腕を、信頼するだけなのだから。そしてその信頼は、裏切られることはないのだと知っている。
「魔王様、無事の帰還を報告に参りました」
遠見の水晶から送られてくる映像には、ほとんど戦闘しているところは映っていなかったからもしかして、と思っていたけれど。
決着は、思っていた以上に早くついていたようだ。こうして執務室に報告に来たヴェルメリオの服にも、目立った汚れは見当たらない。
「おかえり。無事に帰って来てくれてなによりだ」
「ありがとうございます。詳細、こちらでお話してもよろしいでしょうか」
「もちろんだ。疲れているところ悪いな」
ソファーに深く身を預けたヴェルメリオはいつもと違って、疲れている様子を隠そうともしない。魔王様用に常備している甘いお菓子をそっと前に置けば、いつもなら伸びない手がすっとクッキーを摘まんでいる。お菓子が甘いのでお茶はストレートにしているが、少しぬるめにしておいて正解だったようだ。二杯目を準備しているときに、ヴェルメリオが話し始めた。
「なるほどな、あの森が土砂崩れを起こすようになったのは、侵入者がいたからか」
「住人たちが伐採に気づかないはずがありません。生活圏を広げるために計画していた以上に、あいつらがこっそりと範囲を大きくしていたのでしょう」
人為的に起こした土砂崩れの被害者を装い、城に近付く算段だったらしい。先代魔王様を盲信していたらしく、人族を襲えないストレスはゼスの森近くの住人を土砂崩れに巻き込むことで晴らそうとしていたとも。
これ以上の話は、軍部のなかでもそれ専門にしている者に任せたという事なので、後日報告が上がって来るだろう。
「しばらくは調書に付き合ってもらうが、今日はゆっくり休んでくれ」
「それでしたら、今日はこのままこちらにいてもよろしいでしょうか」
「それでお前が休まるなら構わんが……なあ、グランバルド?」
珍しいこともあるものだ。そう思ってヴェルメリオを見ていたからか、魔王様の言葉に反応するのが少し遅れてしまった。
「おや、魔王様。グランバルドは私がここにいることをよく思っていないようですが」
「なんだなんだ、今日の功労者にそんな仕打ちはないだろう」
にやにやと、二人して同じ顔をしているのだから自分の事をからかっているのだとは一目で分かった。
やはり珍しいのは、ヴェルメリオが自分に対してこのような軽口をたたいている姿。魔王様は、まあ時々あるけれどヴェルメリオに乗っかってくるのは、あまりない。
「よく思わないはずないでしょう!? ヴェルメリオ、お疲れさまでした! あなたのおかげです!」
この場所に戻って来れた安心もあるのだろう。ふとそう思った。先ほどまで命のやり取りをしていただろう相手に、わざと大きな声を出して悪態をついてみせる。それが、きっと求められているのだと感じたから。
「“これ”が今の私の日常ですからね。守ってみせますとも」
ガシャガシャとあえて大きな音を立ててお茶のお代わりを準備していた自分に、その小さな声は届かなかった。




