65.小さき嵐
最近の業務に余裕が出来たことで、自分と魔王様の働き方にも変化があった。もちろん、今までだって休憩は適度に取らせてもらっていたし、夜の寝る時間を減らされることなどなかったけれど。
最近は朝に少しばかりの自由時間が作れるようになった。試用期間という事で毎日ではないが、それでも疲れを自覚するようなタイミングで長めの休息を取れるようになったのは素直にありがたい。
そんな、いつもよりも長めに睡眠を取って執務室に向かっているときに聞こえてきた、慌てたような足音。
「よかった、グランバルド様!」
音から想像する以上に焦っている顔をした文官が、自分を見つけて心底ほっとしたように表情を変えた。
おそらく、ここで自分を捕まえられなかったら魔王様のところに行かなければならないからだろう。魔力に硬直することは少なくなったとはいえ、まだ魔王様と二人きりになることを回避しようとしている文官がほとんどだ。こればかりは時間と慣れが必要だから、と魔王様からも無理強いはしないようにと言われている。
「おはようございます。何がありましたか?」
「それが……」
朝いちばんだというのに挨拶をするという事すら抜け落ちている文官は、よほど焦っているのだろう。自分が促したことでここに来るに至った経緯を話し始めた。
それを聞いて、自然と自分の足も速くなる。ああ、どうして自分はまだ魔王様に魔法で連絡できるようにならないのだろうか。できない事を悔やんでもどうしようもないけれど、こんな時にヴェルメリオだったら使い魔なり魔法を使った連絡なりで早く知らせられるのに。
「グランバルド様がいらっしゃったぞ!」
「グランバルド、様?」
「ここに来るまでに簡単に説明は聞きましたが……」
誰でも自由に出入りできるはずの城の入り口。その一角にある人だかりは野次馬ではなく、この場をどうにか出来る者が来るまでのバリケードのようだ。
入り口は閉めてあるから、この状況が外に漏れることはなさそうだ。と、なるとバリケードを作るような理由は、その中心から聞こえた幼い声か。
「おまえ!」
ざわり、と周りの音が大きくなってからしんと静まり返る。そんな周囲の状況など全く目に入っていない子供は人の壁を抜け出して、自分に向けてその小さな指をビシッと伸ばしている。
「おまえが魔王だな! 俺がやっつけてやる!」
「自分が魔王を名乗るなど、なんと畏れ多い。人違いですよ」
さて、どうやって収集をつけるべきか。自分を魔王だと勘違い子供はあれこれ叫んでいるので、このままで進めてもいいのだが。
魔王様を騙るというのが自分だなんて、とても許せることではないけれどこれも魔王様の手を煩わせないためなのだと思えば、まだ処理できそうだ。
そう気持ちの整理をつけたのに、後ろからざわりとひときわ大きな声と共に慣れ親しんだ魔力の気配が飛び込んできた。
「ほう、魔王を倒すって乗り込んできたと聞いたんだが……」
従者の一人もいないのでは格好がつかない。そう思ってくれたのか、魔王様の後ろに控えているのはラド。おそらく、魔王様を呼びに行ったのも。
慣れるためだと執務室へ書類を届けに来てくれることは多かったラドだけれど、そこまで魔王様に接近したことはなかったはずだ。
ぐっと唇を引き結んで必死に冷静な顔を作っているラドに、その場を代わるという意味を込めてかの方の名前を呼んだ。
「魔王様」
「え!?」
「何を驚いているんです。先ほども言ったでしょう、人違いだと」
今まさに自分に向かって振り下ろそうとしていた小さな拳をピタッと止めて、呆然とした顔で見上げてくる子供。
人違いだと言ったのに聞かないどころか、癇癪を起こしたように意味の通らない言葉を叫んでいたのはそちらだろう。あんな興奮した子供に何を言っても無駄だと思っていたし、叫ばせておけばそのうち体力も尽きるだろうと思って返事もせずにいたのは自分だけれど。
「だって、様って……名前呼ばれて」
「ああ。それは勘違いをさせてしまって申し訳ございません。魔王様の側近を拝命しております、グランバルドと申します」
「グランバルド、お前それはわざとだな」
「何のことでしょうか。自分は、いつも通りの対応をしているまでですが」
接することの多い魔王様と、それからラドには気づかれているだろうとは思った。あのように自分の思うままに叫ぶ子供に対して苛立ちを感じるのは、自分の幼い頃を重ねているからだろうか。
上手く取り繕えない外面を見せないように、そっと頭を下げる。魔王様に対してしているように見せたその礼は、子供にも効果はあったようだ。
途端にうろたえ出した子供は、どうしようと小さく呟きながらただその場で視線を彷徨わせるだけ。
そんなことをしても、この場で助けてくれるような人などいないのに。
「自覚なし、か。まあそういう感情が出てくるようになったのは、いい傾向だよな」
「魔王様? 何か仰いましたか?」
「いんや? この子供をどうしようかと思ってな」
「子供じゃない! ライディだ!」
どうしていいか分からない。そんな様子だったのに、子供と聞いた瞬間にぐっと顔を上げた。
叫んだ声に反応したのは数人。その小さな体からどうやってそれほど大きい声を出したというのか。
間近で聞いたはずの魔王様は、そんな声量にダメージを受けた様子など全く見せずに子供に向き合った。
それを見た文官と野次馬が凍り付くような、一切の感情を削ぎ落した表情で。
「そうかそうか。んじゃ、ライディ。何しに来た」
表情に、声色に、放たれた魔力に。
一瞬で静まり返った城の一角には魔王様の声がよく通る。
「俺を倒しに来たんだろう? この程度で怯んでいるのに、そんな大それた事を言っているのか」
金色の瞳は子供を捉えている。逃げることなど許さないという空気の中、呼吸をすることを忘れたかのように子供は硬直している。
倒すと息巻いてきた相手がどれほどの存在なのかを、文字通り肌で知ったのだろう。これが、魔族の王。国を統べる魔力を持つ存在なのだと。
魔力というものに鈍かった当時の自分では分からない、このずんと体に重しをつけられたような感覚に、深い沼に足を取られたような錯覚。これが常にまとわりついているのだとしたら、なるほど確かに魔王様に近付いて感じるのは恐怖だろう。
自分が平然とした顔でいられるのは、その発信源が魔王様であるという事、そして誰かを傷つけるために振るわれる力でないと理解しているからだ。
「なんてな。怖がらせて悪かった。ほら、こっち行くぞ」
ふっと魔力を緩めた魔王様は、いつもと変わらない笑みを浮かべて子供に手を伸ばした。とたんに音を取り戻した空間に安堵したかのように、子供の瞳はみるみる潤んでいく。
「あ、おれ……
ごめ、なさいっ! ごめんなさい!」
今度こそ、何を言っているのか分からないくらいにわんわん泣き始めた子供を連れて、ひとまず人のいないだろう部屋へと向かう。
子供がようやく泣き止んだのは、それから一時間後だった。




