65.飾らぬ言葉で語り合い
「あ~気持ちいいな……」
夕方に差しかかった時間。空の色がグラデーションで彩られるこの時間は、夜を呼び込むように少しだけ肌寒い風が吹く。
その寒さを全く感じさせないように頬を紅潮させているのは、幸せそうに目を細めた魔王様。
「そうですね。ですが、よかったのですか?」
ちらり、と少しだけ潤んで見える碧眼をこちらに向けてくるのはヴェルメリオ。わざとそうやってみせているのだろうと思ったので、ふいと視線を逸らす。
「……魔王様のお望みですので、自分はそれに従うだけです」
「とか言いながらも、グランバルドだって気持ちよさそうじゃないか」
「気持ちはとてもよいですよ。魔王様が温泉でくつろいでいるのに、どうして自分たちも共に湯に入っているのかは気になっていますけれど」
そう。どうして、この三人で共に温泉に浸かるようなことになったのか。それは、魔王様の突発的な提案から始まったのだ。
*
「久しぶりに、温泉に行かないか?」
城の求人も順調に採用が続き、人手不足はほぼ解消している。即戦力になるかと言われたらまたそれは別の話なのだが、仕事を振り分けられる程度には人員に余裕が出来た。
そうしてその余裕は、いい循環を生み出している。今、魔王様と自分が書類にサインを入れる合間に十分な休憩を取れるくらいには。
「構いませんが、久しぶりではありませんよね」
「俺はな。お前は行ってないだろ、グランバルド?」
「え、自分ですか?」
魔王様の執務室。その奥にある私室に続く廊下に作った、温泉へ直行できる魔法陣。別の部屋を用意すると言ったのに、ここなら誰かが無断で使うことなどあり得ないし、なにより準備が手軽だと力説されたのでそこに設置したのだけれど。
通いやすいから、魔王様は割と頻繁に温泉で疲れを癒している。もちろん、その日に終わらせなければならない仕事を全て済ませてから、だけれど。
だから、久しぶりの意味が分からずに首を傾げたのだが、どうやらそれは自分を指しての言葉だったようだ。
「そのつもりで誘ったんだけどなあ。んで、予定はどうなんだ?」
「文官たちの働きと、魔王様の手の早さのおかげでスケジュールにはだいぶ余裕があります。これなら、向こうで半日程度寛いできても問題はないでしょう」
出来上がったばかりの温泉に、一度だけ魔王様と共に行ったことがある。その時はこんな山の中に風呂を作ったなんて、と思っていたけれど、入ってみたら魔王様が好まれる理由が分かったような気がした。
けれど、湯の中に長時間浸かるという習慣がない自分にとっては、あまり長居をするような場所でもないし、そもそもあの魔法陣を一人で稼働させるだけの魔力もない。
行くこともないと思っていたけれど、魔王様からのお誘いを断るという選択肢など、存在しない。
「よし、そんじゃ行くか。明日の午後は空けられるか?」
「もちろんです。お任せください、魔王様」
明確な目標が定まったからか、その日の魔王様の手はいつも以上に早かった。おかげで、明日のスケジュールはかなり余裕をもって組めたくらいだ。
それも温泉の魅力なのかと思ったし、出来る事なら今回でそれを実感してみたいものだ。
*
「少し前に読んだ本に書いてあったんだよ。こういう場では本音を隠せるようなものがないだろ。いい機会だって思ってな」
温泉と言っても、やることは風呂と変わらない。つまりは、身を守るためのものは何一つまとっていないという事だ。
体が無防備だから、口も軽くなるなどあるのだろうかと思ったけれど、少し熱めの湯に浸かってぼんやりした頭だとついうっかり、なんてこともあるのかもしれない。
「もちろん、日頃とてもよく働いてくれている二人に少しは休んでもらいたいって気持ちもあるんだが」
「ありがとうございます、魔王様。そのお心配りだけでも十分ですのに、このような機会までいただいて」
ゆるりと頭を下げたのはヴェルメリオ。あれから、魔王様が声をかけて一緒に温泉に来たのだ。ヴェルメリオは護衛として来たので最初は温泉に共に浸かるなと考えていなかったらしい。
ではどうして、今こうして肌を晒しているのかというと、魔王様が押しに押したのだ。それをのらりくらりと避けるのが面倒になって諦めた。
さすが軍部所属というべきか、鍛えられた身体は男の自分でも見惚れるようなものだったが。金髪碧眼の見た目から、あまり鍛えているとは思われていないとは本人談だ。
「この温泉には防音魔法をかけてあります。せっかくの機会ですので、我らの親睦を深めようではありませんか」
「そんなにやにやしながら口にする台詞ではないでしょう、ヴェルメリオ」
「おや。そんなににやけていましたか。湯気で顔が歪んで見えたのでしょう」
勝手知ったる魔王様と、少し離れて風が良く当たる縁に近い所に自分がいて、ヴェルメリオは中央に近い所。三角を描くように座ったけれど、顔が見えない距離でもない。こちらを見てにやりと笑った顔は確実に捉えたけれど、自覚がないのかはぐらかしているだけなのか。
「長話をするなら、飲み物があった方がいいよな。向こうの脱衣所に何本か冷やして……」
「魔王様、自分が取ってきます!」
「いいっていいって。ここのことを一番知っているのは俺なんだから。グランバルドはゆっくり浸かっていてくれ」
ばしゃりと水音を立てて湯から上がった魔王様は、足早に脱衣所へ向かった。魔王様の側近となってから今まで、ヴェルメリオと二人きりになったことなど数えられる程度だ。
このように取り繕えるようなものが何一つない状態で向き合うのは、初めて。
「だ、そうですよ?」
「魔王様の、お望みなら……」
行儀が悪いとは理解しているが、どうにもヴェルメリオの顔を正面から見れなくて湯に沈む。肩まで浸かると口元まで隠れてしまうが、そんな自分の姿を見てもヴェルメリオは茶化すような真似はしなかった。
「いいんじゃないですか」
「え?」
「たまには、こうしてゆっくりするのもいいんじゃないですか。魔王様が即位してから、あなたはずっと傍にいるでしょう。もちろん、それが責務ですので当然ではあるんですが」
後ろにあった岩に背を預けたヴェルメリオは、ぐっと一つ伸びをするとだらりと体の力を抜いた。
それは、護衛としてはあるまじき姿だけれど、風呂に入っているのだったらなんらおかしくない姿。
その姿に促されるように、自分も肩の力を抜いていく。体がぽかぽかしているけれど、熱めの湯のおかげというだけではなさそうだ。
「気を抜くという事を覚えないと、いつか必ず潰れます。先を歩む者からの、ささやかな助言です」
「ありがたく、ちょうだいします」
「そういうところですよ。でも、それがあなたのいいところでしょうね。グランバルド」
穏やかな笑みは、もう何度も見てきた。護衛として共にいる時も、見習いの指導をしているときも、軍部の厳しい訓練のさなかでさえも、この目の前の男は同じように微笑みを浮かべているのだから。
けれど、今の言葉と表情はそのなかでも見たことのない、けれど間違いなく本音であると分かるものだ。
なるほど、魔王様の言う本音で語り合う、というのがこういうことなら悪くない。うっかり口を滑らせてしまうのは、温泉に入っていて体を守る物がなにもない、生まれたままの状態でいるゆえの開放感からくるものなのかもしれないな。
「おっ、なんだ早速二人で話してるのか?」
「そうですよ。本音で、と仰ったのは魔王様でしょう?」
クスクス笑うヴェルメリオに同意した自分がよほど珍しかったのか、魔王様はしきりに混ざりたいとちょっかいをかけてくる。
そんな時間を気が抜けるというのだったら、そうなのだろう。それは確かに、自分の中の凝り固まった感情を解かして流してくれたのだから。




