61.花の盛りはまだ遠く
「ああ、君は……」
「お久しぶりです、イライサス卿」
わざとらしく声をかけてきた老人を見て、溜息を吐きたくなった内心を押し殺して、下働きから培った笑顔を貼り付ける。
そんな自分の作り笑顔には気付かなかったのか、名前を呼ばれたことが満足だったのか、イライサス卿は目を細めて自身の顎を撫でつけた。
「城には何度か足を運んでいたんだがね。魔王陛下のお使いで忙しい君とは、顔を合わせるタイミングもなかっただろう」
嘘ばかり。彼は先代魔王様の時には重用されていたけれど、代替わりしたとたん逃げるように領地に引きこもったのだから。
その後も各領地の報告書を提出するときにすら、魔王様と直接顔を合わせることを選べないのだということを、自分が知らないとでも思っているのだろうか。
ああ、足を運んだだけで城には一歩も入っていないというのを黙っているならば、確かに魔王様はもちろん、自分とも顔を合わせるタイミングなどなかっただろう。基本的に、魔王様も自分も城から出ることはほとんどないのだから。
「そのようにお忙しい卿のお時間を、無駄に使わせるわけにはまいりませんね。用件を、お伺いいたしましょう」
「なに、君の手を煩わせるようなものではないよ。ただ、そうだね……」
ここは城の入り口にほど近い。人の出入りも多いし、何より自分は魔王様に頼まれた買い出しがある。これがあるのとないのでは魔王様の書類仕事の効率が変わって来るので、さっさと向かいたいのだが。
意味深に言葉を切ったイライサス卿は、茶色の瞳をすうっと自分の背後に向けた。
「魔王陛下に、少々お聞きしたいことがあるのだが」
「ええ。ですから、私がお伺いいたします。魔王様は只今、持ち込まれた書類の確認をなされておりますので」
招集をかけてもあれこれと理由をつけて城に来なかったのはそちらなのに、今更魔王様と直接お会いしたいなど、いったいどんな顔をして言えるのだろうか。
そんなことを考えながらイライサス卿の顔を見たら、提案を断られるなど、全く頭にもなさそうな深い笑みを見せていた。
書類の確認をしていると言ったのに、事前の申し込みもないまま仕事を中断させる価値があるのだと、そう言外に語る顔は少しどころかかなり腹立たしい。
「それならば、こちらの庭で花でも愛でながら待とうではないか。この老いぼれには時間がたっぷりあるのだから」
こちら、と示したのは城の中心にある中庭。ここは入り口の近くから入れる場所なので、目を楽しませる花を多く配置しているし、談笑できるようにベンチも置いてある。その気遣いがいらないと思うような機会が巡ってくるとは、考えたことがなかったな。
「ここにいたのかグランバルド。どこで道草を食っているのかと思ったぞ」
「魔王様」
さて、どのようにしてこの老体にお戻りいただこうか。いくつかの案を考えてから実行しようとしたが、ふっと慣れ親しんだ魔力の気配に結局、何も行動できないままに終わった。
魔王様に会いたいと言っていたのに、目の前にしたら顔色を変える。そのような者に割く時間が、本当にもったいない。
「それで、貴殿は……」
「このような場ではございますが、ご挨拶をお許しいただけますでしょうか」
「ああ、許そう」
人の出入りする場所にいるからか、魔王様の言葉遣いは公の場に出る時と同じもの。自分が執務室を出てから、この老体に捕まったのはそこまで長い時間ではない。あの量の書類を全て確認できるはずもないのに魔王様がここにやってきたのは、もしかしたら自分を上手くこの場から離れさせるためなのではないだろうか。
頭を下げたままのイライサス卿が気づかぬうちに、そっと視線を送れば答えるようににやりと笑う魔王様。そして、しばらく黙っているように、と小声で付け足された。
小さく頷くだけで了承の意を告げれば、魔王様は満足そうにいつもの笑みを見せてくれた。
「フィヨルハルト・イライサスでございます。この城よりわずかに南の地を預からせていただいております」
「それが、いったい何の用だ? 定期報告では変わったところはないと聞いているが」
それもこの頭を垂れている本人ではなく、代理の者から聞いているのだが。魔王様はおそらく意図的に魔力を高めているし、何かを感じ取った護衛はこの辺りの交通整理よろしく人の流れを調整し始めた。この場に、魔王様が許可するまで他の誰かが立ち入ることは、決してない。
垂れた頭の先、床に水滴を落とす哀れな老体に助けが入ることも、無い。
「……魔王陛下に花の見ごろをお伝えに、急ぎ参上した次第です」
どうにか絞り出したのだろうその声は明らかに震えていた。けれど、魔王様はそれを指摘することもなく相槌を打つでもなく、ただその先を促すのみ。
腰を折ったままで顔だけを上げたイライサス卿は、何かを飲み込むように大きく喉を動かし、そして再び口を開いた。
「南の地の花の盛りは、移り変わります。戴冠なされてからというもの、魔王陛下はこちらの城での政務に励んでおられますが、少し足を伸ばしてみれば見えるものもございましょう」
「なるほど。イライサス卿、貴殿は私に花の美しさを語りに来たか」
「その通りでございます。どうか、この老いぼれにささやかな自慢をさせてはもらえませんでしょうか」
視察に行くことだってある。温泉があるのはイライサス卿が治める南の地よりも遠い。けれどそれは魔王様の業務に必要で、仕事の一環だ。この城で政務に励んでいるのだって、魔族の生活をよりよくしたいという一心から。
それなのに、魔王様からの召集の命も無視したというのに、わざわざ伝えに来たのは花を見に来いというだけ。それが何を意味する隠語なのかは、さすがに自分だって分かる。
老いぼれだと言っておきながら、なんという厚かましさだろうか。黙っているようにとは言われているが、これは側近として一言申さねばならないだろう。
「断る」
「魔王様、そのように即答なさらずとも」
ぷしゅう、と空気の抜けた袋のように、自分の腹立たしいという感情は一気に消え失せた。それどころか、一蹴されたイライサス卿に少しばかり同情の念すら抱く。
思わず口を挟んでしまった自分を、魔王様は咎めなかった。
「いい機会だイライサス卿。私は花を愛でる感情は持っているが、それを強要されるのは好きではない。なにより、この城には丹精込めて整える庭師たちがいる。
彼らが育てる花が、私の最上だ。例えどこでどんな花を見ても、私はこれ以上に美しいと思わぬだろう」
床に作った水滴を二倍ほどの大きさまで育てたイライサス卿は、それ以上何かを言う事も引き下がる事もなく、城から帰っていった。
思ったよりも時間を食ってしまったので買い出しはまた後日としたけれど、あまりに残念な顔をしていた魔王様のために、厨房で簡単な甘いものを作ってもらう。
甘い中にもわずかに酸味を感じる香りと共に執務室に戻ってきた。案の定、書類は半分も片付いていなかったが、魔王様と二人でお菓子をつまむ。
「思ったよりもあっさり引いたな」
もう少し長くなりそうなら、イライサス卿の領地の問題を指摘するつもりだったらしい。そんなものがすぐに頭に思い描けるほど、この国のために働いている魔王様の時間を無駄に使わせて、いったい何がしたかったのだろうか。
「魔王様の魔力に怯えて早々に領地に引きこもったのに、今更何をしに来たのかと思ったら……」
「俺の代が長く続きそうだから、すり寄った方がいいと判断したんだろ。あんなにあからさまにパートナーを作れと言ってくるとは思わなかったけどな」
「魔王様に婚約者様は、いらっしゃいませんからね。これからきっと同じような話題は増えて来るかと」
「興味はないと言ったから、しばらくは大丈夫だろ。ま、魔王は世襲じゃないからな」
婚約者様、選ぶなら貴族の家からだろうけれど。魔王様の仰る通り、王は世襲ではない。血は繋がっているけれど。今はまだ様子見なのか己の家に旨みがないと判断されているのか、魔王様のところにそのような話が来たことはなかった。
けれど、魔王様が王位についてからというもの、生活の質は少しずつ向上していると実感しているのだろう。
おそらく、これからはそのような話が持ち込まれることも、増えていくのだろう。
「いずれは考えなければならないんだろうが、今はこの甘さを堪能させてもらうとするか」
王である以上、避けられない話題であることは重々承知だろう。けれど、今はまだ。




