60.甘く香る記憶
「この香りは……」
幾分暑さも和らぎ、窓を開けていると心地よい風が入ってくる季節になった。とはいえ、この城は魔法で適温になるように管理をしているので、城の中にいる限りは暑さ寒さを感じることなく、快適に過ごすことが出来るけれど。
そんな風に乗って、ふわりと甘い香りが鼻をくすぐる。甘ったるいなと思って外を見れば、自分と同じような動きをした魔王様がわずかに目を細めた。
「中庭で新しい花を育て始めたと聞いています。なんでも、人族の国では季節の代わりを知らせる花だとか」
下働きからの付き合いのあるクリフォードから話は聞いている。庭の責任者であるクリフォードはついこの間、魔族の国のそれとは若干違う育ち方をするという噂を聞いてから、ずっと育ててみたいと思っていた人族の国の植物を、ようやく手に入れたのだから。
畑として拡張した一画、まだ手を付けていなかったところで育て始めたのだと聞いたのはまだ記憶に新しい。
植物だとしか聞いていなかったし、書類にも同じように書かれていたけれど、このように香りをまき散らすのであれば育っているのは、花だろう。
「ああ、だからか。懐かしいな」
「魔王様はご存じなのですか?」
「ん? 花の名前なんかは知らないがな。だけど、この香りは覚えてる」
懐かしいと言われて思わず、食い入るように魔王様に声を返してしまった。けれど、そんな自分の態度など気にも留めていない魔王様は、その香りを楽しむように深く息を吸っている。
「小さい頃に山から町に出た時に、なんだか変なにおいがしたことがあってな。自分じゃどうにも見えないからそのままにしてたんだが、町の奴らが俺の姿を見て笑うんだよ」
魔族と人族の国の境、魔族の守護など求められないその土地で、幼い魔王様は人族に紛れて暮らしていた。その頃の記憶に痛みを伴わないものなどないだろうに、魔王様はなんでもないことのように語るのだ。
だから、自分も出来るだけ何でもないことのように話を聞こうと努めているけれど、魔王様を見て笑うなど、その様子を想像しただけで声を荒げてしまいそうになる。もちろん、あの町の住人が魔王様に施しを与えてくれていたから今があるのだとは、理解はしているのだけれど。
「ああ、季節が変わるんだねって。意味が分からないだろ?」
「その、においが人族にとっては季節を感じるものだったということでしょうか」
魔王様の姿を見て笑うのは、嘲りの意味をこめているものではなかったようだ。きっとそれは、幼子を見守る大人の優しい笑みだったのだろう。声を荒げそうになった自分を恥じ、ぎゅっとこぶしを握る。
それから、そのように笑った理由を考えてみる。そうして思い至ったのは、人族にとってこの甘い香りは季節を告げるものなのではないか、という事。
「そうらしい。あとから鏡を見せてもらって、頭に乗ってた花を見せてもらったんだ。こんな小さい花なんか、子供じゃわからないよなあ」
「こんな、ですか」
魔王様が示したのは、爪ほどの大きさ。それが頭にたくさんくっついていたんだ、なんてけらけら笑う魔王様は、どことなく楽しそうだ。
小さな子供が見えない位置につけた花、それを取ってくれたのはおそらく鏡を貸してくれた人族の誰か。
あの町で、魔王様は魔族と知られていたかどうかは分からない。けれど、小さい子供だった魔王様は、大切にされていた。さりげない優しさと温かさで守られていた。
「ここまで香るってことは咲いてるんだろ? 散歩がてら見に行くか!」
「ええ。そうしましょうか」
書き終わった書類片手に、中庭へと向かう。途中で立ち寄った部署の場所によってはあの香りを全く感じなかったことが少し、物足りないと思えるくらいには馴染んだあの甘さ。
中庭に出ると今までよりも強く感じたその香りに、自然と足はそちらへ向く。そうして辿って行った先には、太くて立派な木が、小さくて可愛らしい花を咲かせていた。
「へえ、立派なもんだなあ」
「この間手に入れたばかりと聞いていたのですが……」
「その辺はいくらでもやりようがあるんだろ。人族の国と魔族の国じゃ勝手も違うしな」
花だと思っていたのに、まさかこれほどまでに立派に成長する樹木だったとは。畑の一画を使って育てるとは聞いたけれど、これほどまでに大きくなるとはあいつも思っていなかったのではなかろうか。
ここまで育ってしまったら、もう動かすことは出来ないだろう。使っていなかった一画だったことは幸いだったか。
育った上の方ばかりに目が行ってしまったが、根元の方を見るとオレンジ色で小さな花が落ちている。それが、この香りの正体である花だろう。
「これが、その花ですか。魔王様が仰っているのよりも、小さいですね」
「そっか、あの頃はガキだったからなあ……こんな、小さかったんだな」
「魔王様……」
聞いていたのは、爪ほどの大きさ。けれど、この足元に落ちている花は爪の半分にも満たないほどのサイズしかない。それを手の上でころころと遊ばせている魔王様は、笑っているのに少しだけ、泣いているような表情にも見えた。
「いい、香りですね」
「そうだな。うん、いい香りだ」
考えを中断させるようにガサリ、とわざと大きな音を立てて花を拾う。花だけでなく落ち葉も取れたけれど、それでも存在をしっかり主張する甘さ。
鼻を近づけてめいっぱい息を吸う。この胸を満たすのは溺れそうなほどに甘い香り。けれど、それが嫌だと思わなくなったのは、この香りと共にある思い出を聞いたからかもしれない。
「ところでな、この花ついてるときには野生動物から避けられてたんだ。なんかうまいこと利用できないか、ちょっと相談したいんだが」
「それでしたら、庭師を呼んで花を集めましょう。魔術の解析班と協力すれば、何か使い道を考えてくれるでしょうから」
それが魔獣にも通用するかどうかは分からないけれど、魔法を使って成長を促進しているのだから、何か効果が出たとしても不思議ではない。
そのためには花を集めて、解析班が納得できるほどの材料を集めなければ。花の盛りは、おそらく短いのだろう。そうなると、咲き誇っている今しか機会がない。
「それじゃあ、グランバルドが呼んできてくれ。俺はこの辺りで適当に集めとくから」
「かしこまりました」
その背中に人族の国で隠れ住んでいたという幼い魔王様のお姿が重なって見えたのは、きっと気のせいだ。




