42.小夜に抱いた感情
「あ~、もうこんな時間か……」
ふと顔を上げた魔王様が、ぽそりと呟いた。窓から見える空の色、ブルーとオレンジが入れ替わるために混じるこの時間はとうに過ぎ、夜の主張が強くなったネイビー。
魔王様が代替わりしてから変えた、働くための約束。その中で仕事を終わらせるためという区切りをつけた時間は、少し前に終わっていた。
「そういえば、先ほど鐘が鳴っていましたね」
「ん、なんだ。グランバルドがそこで区切りつけないの、珍しいな」
「いえ、気付いてはいたのですが……この書類を終わらせたいと思いまして」
仕事の終わりを告げるための鐘。これは、担当が決まっているので一分として遅れることはない。手が離せない事を除いて、その鐘が聞こえたら今日の仕事は終わり。もしくは、夜に働く者へ引き継ぐ。
それは例外なく、という約束なので魔王様や自分にも適応されるのだが。いつもだったら魔王様の手を止めるために声をかける自分が、鐘の音を無視したことが気になったのだろう。
ひょこっと自分の机の隣にやってきた魔王様は、自分が書き上げてしまいたかった書類を見ている。
「それって何の書類だ?」
「移動魔法陣の利用申請書ですね。人族の国との交流が盛んになってきている地域からですので、この機は逃したくありません」
移動用の魔法陣は、国の管理しているものだ。それは、使うために使う魔力がそれなりに必要だという事もあるし、万が一のためでもある。逃亡するための経路に使われた過去があるからこそ、だが。
このまま、魔王様の治世のように穏やかな生活が続くようであれば、民間での利用、もしくは申請の簡素化も提案には上がってきているが、実現するためにはしばらく時間を要するだろう。
この申請だって書類を記入した日付は少し前だ。だからこそ、これ以上長引かせることをしたくなかったのに、どうして今日に限って書類の一番下にあったのか。
「そうだなあ。ま、魔族に限らずに生活が豊かになるなら、頑張る甲斐もあるよな」
さっと自分の手から書類を抜き取った魔王様は、不備がないことを確かめるように上から下まで三度視線を巡らせてから、さらさらと署名を入れた。それに、なにか一文を付け加えられた書類が自分の手元に戻ってくる。
「それじゃ、今日はここまでだ。お前も、俺もな」
「魔王様も、ですか」
「だって、俺が止めないとお前は休めないだろ。グランバルドはそういう奴だって、もう十分理解してるからな。それ、届けながら帰れ」
ひらひらと追い払うように手を振られれば、それ以上は何も言えなくなってしまう。
魔王様が届けろと言った書類に書き加えられたのは、待たせたことへの謝罪と、背中を押す言葉。
それを見るのは、自分と書類を届ける配達員、それから申請した本人たちだ。今から配達担当の部署に渡せば、明日の朝には届くだろう。そうするためには、自分がこれ以上執務室にいるわけにはいかない。
魔王様はそこまで見越していたのだろうか。自分がそう思ったことに気づいたのか、一瞬だけにやりとした笑みを見せた。
「それでは、失礼いたします。どうぞごゆっくりお休みくださいませ」
「グランバルドもな。お疲れさん」
間違いなく移動用魔法陣の申請書類であることをもう一度確かめて、間違いなく魔王様の署名が入っていることも見て、そうして部屋を出るために魔王様に頭を下げた。
仕事をしないというアピールなのか、ソファーにごろりと寝転がった魔王様からの挨拶を聞いてから、配達員が待機している部屋に向かった。
「休め、か……あの方はどこまで理解されておられるのか」
いろんな部署からの書類や手紙を扱うため、配達員の待機部屋は執務室からは少し離れている。けれど、そこから執務室に戻るよりは自室のほうが近い。
無事に配達員に書類を手渡せたので、少しだけ足取りはゆっくりとしたものになる。執務室を出る時間こそいつもよりも遅かったけれど、これだったら自室に着くのは普段とそう変わりないだろう。
「ひとまずは、この部屋を片付けないとだな」
そういえば、この間例の集まりをしてからそのままだった。ラドは簡単に片付けていくが、クリフォードは片付けるという考えを持っているかどうかすら分からない。庭の事に関してだったら、細かいところまで気を配っているというのに。
「……こんなもんか。思ったよりも時間がかかったな」
食べた物はその日のうちに片付けたが、酒瓶や次のためにと置いて行かれた乾物などは、とりあえずとばかりに端にまとめただけだったからだろうか。それを片付けるだけでも時間がかかったというのに。
元の場所に戻したり分別をしたりしていたら、どうしてだか今まで気にならなかった部屋の隅の埃などが目に入ってしまった。ここまでやったのだったらいいだろう、という気持ちとここまでやったのだから徹底的にやろうという気持ちがせめぎ合った結果。
自分は今、ごみをまとめた袋をふたつ持っている。明日、魔王様の執務室に向かうときに持って行ってもいいと思ったけれど、その前に文官たちの政務室に寄らねばならないので、こうして夜のうちに捨てに行っているというわけだ。
まだそこまで精密な操作が出来ない自分はこうして運んでいるが、魔法を使えるなら窓から風を使って運んだりできるらしいので、早く魔法も上達したいと思う。
「ん? こんな時間に明かり?」
自室に帰る途中に、ぼんやりと明るい区画があることに気が付いた。それが執務室のほうだと分かった瞬間に、自分が向かうべきだと判断して踵を返す。あの部屋で明かりをつける人物なんて、思い当たるのは一人しかいないのだから。
「魔王様!?」
「なんだ、あれだけ言ったから今日はこっち来ないと思ってたのに」
案の定、そこにいたのは魔王様だった。魔王様の私室はこの部屋と同じ区画なのだからいても不思議ではないが、今座っているのは窓の枠。
驚いてしまった声は、思っていたよりも響かなかった。くるりと振り向いた魔王様の顔は夜の陰に隠れてしまってよく見えないけれど、声からは何の感情も読み取れなかった。
「バレたならしょうがないな。こっちこい、グランバルド」
ふっと空気が緩んだ気配の後、聞こえてきた魔王様の声には先ほどとは違って呆れたような、何かを内緒にしているような響きがあった。
「……失礼、致します」
「そんな肩縮こまらせても、何もないって。ただ、こうやって外を眺めてただけだ」
さすがに窓の枠に腰掛けることは出来なかったので、隣に立って視線を魔王様と合わせようとして気が付いた。
魔王様の手にあるマグカップ。そこからは、ほんのりと甘いミルクの香りがした。これは、幼子が眠れない夜にねだる幸せの香り。自分には、縁のなかった。
「何気ない明かりひとつでも、誰かの想いがあって、そうしてこの景色が作られてるんだなって思うとさ。
いつまで経っても書類は無くならないしやる事も考える事も増えていくけど、また明日も頑張るかって思えるんだ」
そうだ。書類はどれだけ片付けても次から次へとやってくるし、不備があって修正するものだってあれば、担当者のところに話を聞きに行くことだってある。
投げ出そうとは思わないが、終わりが見えないことに疲れを感じないとは決して言えない。
甘いミルクの香りに包まれながら、明かりを見る。不思議なことに、溜まっている自覚のあった疲れがふわりと軽くなったような気がした。
「なーんてな。柄にもないこと言っちまったな」
「いえ。とても、素晴らしい景色です」
しばらく、沈黙が続いた。自分も魔王様も、ただ目の前に広がる景色を、そこに住む人たちの営みの証をぼんやりと眺めているだけの時間。
このひとつひとつ、それが自分たちの仕事の結果なのだと思えば、とても誇らしくなった。
「魔王様」
「なんだ?」
「次にこの景色を見たくなった時には、自分も呼んでください」
この方の目線で見なければ気づけなかったもの。それを、知れた。今まで魔王様はひとりでこの景色を見ていたのだ。ミルクが手にあるのだから、初めはこの景色を見ることが目的ではなかったはずだ。
もしかして、と思いながらもその言葉を口にすると、そうだと決めてしまうような気がしたから。
「……ははっ! そうだな。その時は、よろしくな」
今日の記憶が、これからも優しいものでありますように。
分けてもらったミルクは、その思いを溶かしたような甘くて優しい味がした。




