39.まるで、茹だるような
「おはようございます、魔王様……っと、こちらもでしたか」
「おはよ、グランバルド」
目を覚ましてすぐ、異変には気づいた。というか、そのせいで目が覚めたと言うべきだろう。とりあえずの支度を済ませ自室から出たものの、どこを通っても状況は自室と同じ。
簡単に各所の状況をまとめて魔王様の執務室に向かってみれば、こちらも案の定と思いきや、思っていたよりも状況は悪くない。そうしてくれているのは、執務室の中心にドンとそびえた氷塊のおかげだろう。
魔王様は、窓から外を見渡している。いつもよりも人の声が聞こえてくるのは、気のせいではない。
「自室だけかと思ったのですが、どうやら城全体のようですね」
「らしいな。いろんなところから報告上がってる」
助かった。きっと魔王様が作り出してくれたものだろう。日差しの照り付ける中、延々と馬車からの荷下ろしをしていた時のような気怠さが、徐々に体から抜けていく。
ほう、と無意識に緩やかな息を吐いた自分を見て、魔王様は微笑んでくれた。魔王様は近くにいないのに、それだけでもこれを作った甲斐はあったな、なんて呟きながら。
そして、自分が簡単にまとめた報告と、魔王様の机に散らばっている走り書きのメモを見比べると、言葉は違えど、書いてある内容は同じ。城の空調設備を、一刻も早く直してほしい、だ。
「今日は城の開放は出来ませんね。中止するように軍部に連絡を」
「その必要はありませんよ」
いくら陳情したいことや困っていることがあると言われても、このように灼熱のような城の中に招く方が問題だ。体調を壊してしまったらこちらの人手も取られてしまう。
そう思って執務室を出ようとしたときに聞こえてきたのは、まさにその軍部所属のヴェルメリオの声。
「街には連絡を入れました。軍部所属の者たちは他よりも慣れていますから、今は城の見回りに行ってもらっています」
「さすが、行動早くて助かるわ」
暑い中でも平然とした顔をしているヴェルメリオだったけれど、魔王様を見たらなにやら魔法を使ったようだ。ふわりと風を感じたと思ったら次の瞬間には体が冷気で包まれた。
氷塊のおかげで、耐えられない暑さではない体感だったけれど、今の空気で快適に動き回れると言えるまでに温度が下がったのが分かった。
魔王様もパチパチと目を瞬かせていたが、ヴェルメリオが魔法を使ったのだとすぐに気づいて礼を伝えている。
「空調設備は、地下のひとつのみ。常に稼働させているから、点検は怠らないようにって言ってあるけど」
「こうなった理由に、思い当たるものはありますか?」
「自分のところには、先日の点検で異常なしという報告が来ています。魔王様とも確認しておりますよね」
これだけ大きな城なのに、空調設備は地下にひとつしかない。なにやら複雑な回路が刻まれているから、専門として要員を配置することにしている。
魔道具を作ったり管理したりする部署から選ばれているけれど、毎日同じような業務だからあまり定着しないらしい。確かに、他の部署に比べて人員の入れ替わりは多い。そして、この間の点検報告は様式に則った書類ですらなかったので、自分の記憶にも新しい。
「ああ。確かに見たな。なかなか見られない文字だったから、よく覚えてる」
毎日あれだけの書類を捌いている魔王様でも、あの書類を見た時にはしばらく手が止まっていたな、と忘れかけていた記憶も掘り起こされていく。
魔王様のその言葉だけで何かを察したのか、ヴェルメリオがそれはそれは深い溜息を吐いた。そしてその顔に浮かべている笑みに、凄味が増していく。
「……追及は、後にしましょうか。対処が先です」
「そうですね。ですが、この部屋は他に比べていくぶんか涼しいですが、あまり長い時間はかけられません」
正直、この表情のヴェルメリオと対峙したくなくてすっと視線を氷塊に向ける。今はまだ作ってくださったばかりのようだけど、この暑さの中ではすぐに水になってしまうだろう。受け皿も置いてあるけれど、この大きさの氷塊が溶ければあふれてしまう。
「一応、俺も力になれないかって思って地下に行ったんだけどさ。魔力回路のことは全く分からなくてな~」
魔力の供給だったらいくらでも出来るんだけど、と残念そうに魔王様は呟くが、その場では何もせずにお戻りになってくれてよかったのかもしれない。
魔力回路に異常があって空調がおかしくなっているといっても、魔石に溜めた魔力がなくなれば、空調は止まる。魔力の供給を遮断できないのであれば、魔力切れを狙うだろうに、そこで魔王様が魔力を供給してしまっては、魔力回路が直るまでこの暑さが続いてしまう。
「せめても、って氷を置いてきたんだ。んで、早く回路を直すように励ましてきた。長引くと俺が耐えられん! 暑い!」
「窓を開ければ風は入ってきますが、それよりも壊れた空調が張り切っていますからねえ」
魔王様が一見涼しそうな氷のそばよりも、窓の近くから離れないのはこういうことだ。さわさわと紫の髪を揺らしている風を感じられる窓際のほうが、体感としては気持ち良いのかもしれない。
魔力回路を直している者たちは、今頃きっと汗だくだろうけど。魔王様にその意図はないのかもしれないが、自分がその立場だとしたら、冷汗が止まらないと思う。そして、暑いはずなのに体の底から冷え切った感覚に襲われるだろう。
今の自分の気持ちとしては、自ら招いたことだろうと呆れるだけだけれど。
「この辺りは基本的にそこまで暑くならない地域だからな。耐えられないやつだって出てくるだろう」
「動きが鈍い者はおりますが、今のところ体調不良者は出ていないようですよ。魔王様が各所に氷を置いてくださったおかげですね」
ヴェルメリオもここに来るまでに城の中を確認してくれたのだろう。自分が寝起きしているところと、軍部は距離がある。そこまで行ける時間はなかったので、こうして報告してくれるのはとても助かる。
それにしても、魔王様はそちらの方まで氷を作りに行ってくださったのか。なんでもないことのようにいつもと変わらない様子だけれど、多少の疲れはたまっているはずだ。魔力の消費もしていることだし、今日は休息を多く取ってもらわなければ。
「無理はするな、と改めて通達出すか。じゃないと医務室が埋まる」
「城を出れば涼しいですし、中庭は影響を受けていません。各自で判断して動くよう、すでに伝えてあります」
名実ともに中庭の主であるクリフォードにも確認したし、許可も取ってきた。あいつの部屋も例に漏れず蒸し風呂のようだったので、理由を話せばすぐに納得してくれた。
ラドにも話を通したので、文官たちはおそらくすでに中庭にいるだろう。こういう時に繋がりがあるというのは話が早くて助かる。
結果、魔王様には事後報告となってしまったが、このくらいだったら自分の裁量で動いても問題ないはずだ。
勝手なことを、と怒られる覚悟だけは持っているけれど。
「お、庭は無事だったのか」
「ええ。一応主要なところは確認してまいりました。厨房は、暑さには慣れていると言っていましたが、冷たい食事を提供できるように準備しているそうです」
「さすがですね、グランバルド」
「こちらこそ、ありがとうございます。ヴェルメリオ」
魔王様には怒られることなく、それどころかヴェルメリオからも褒められるとは。少しばかりむず痒くなって口元が緩んでしまう。
今までだったら、どうしていいか分からなくて俯いてしまっただろう。けれど、魔王様とヴェルメリオは、当たり前のように肯定の言葉をくれる。惜しむことなく与えられるそれに、恥じない自分でいられるようにと身を引き締めるのはもちろんだけど、徐々に胸を張れるようになってきた、と思う。
きゅっと口を引き結んだけれど視線は下げずにいたら、ふんわりと笑う魔王様が見えた。
「それじゃ、今日は外で仕事するか。それなりに魔力も消費してあるから、大丈夫だろ」
「早く魔力回路が直るとよいですね。続くようなら軍の訓練にも差し支えます」
「そうだなあ。直らないようなら暑さの耐久でもするか。誰が最後まで残ってられるかってな」
本当に執務室を出て、庭で仕事をするつもりの魔王様に続いて、ヴェルメリオも部屋を出て行ってしまった。
二人が口々に話すことをぼんやりと聞きながら、この胸に残った感情を大切にしまい込む。
それから、少し離れてしまった二人の背中に向けて、走り出した。




