32.踏み出すきっかけ
魔王様が王冠を手にそれに相応しいかどうかを城のみならず、街の住人達にも見せつけてから。変化は、もちろんあった。小さいものも大きいものもあるけれど、自分に関係あるようなところでの変化は、今まさに目の前にいる。
「……ラド?」
「あ、バル。よかった」
その角を曲がれば執務室。そんなところでうろうろとしている人影には、見覚えがあった。けれど、この場所では絶対見ることがないと思っていた、影。
声をかけては見たけれど、思ってたよりも小さな声になった。それでも、影の主には届いていたようで、くるりと振り返った。
「あのね、これを……届けに来たんだ」
「は? お前が、執務室まで届けに?」
「う、うん。もらって、くれる?」
ラド、愛称で呼んでいるのは下働きからの付き合いがあるからだ。今では中庭の責任者になっているあいつとも同じ時期から働いているが、やつとはあまり名前を呼び合ったことがない。
というのも、ラドは他の下働きよりも身長が低く、名前を呼んでそこにいるのだとアピールしておかないとあっという間に人の波に埋もれてしまうのだ。なので、下働きの同期たちのなかで、ラドの名だけはすぐに呼ぶという事が定着した。
ラドの手にあるのは、書類の束。ラドも今では文官の一人として魔王様を支えてくれている。だから、それを持っていること自体は何の不思議もない。
ラドが文官たちに与えられている政務室から出て、魔王様の執務室の近くにいることは、疑問だけれど。
それでも、自分に書類を差し出している手はわずかに震えているし、よく見れば顔色も悪い。それだけで、ラドが決死の思いでここにやってきたのだと理解できた。
「もちろんだ。よく頑張ったな。目は辛くないか?」
「これのおかげ。それでね、ひとつお願いがあるんだ」
これ、と示したのはラドがかけている眼鏡。ある時からかけ始めた眼鏡がただの視力矯正ではないということを、知っている者は少ない。自分は、その数少ないうちの一人だ。書類を整理するのによく一緒に組んでいたから話してくれた、というところだろう。
そのくらいの信頼を得ていると自負のある相手からの、お願い。あの頃とは立場も変わったし、出来ることだって増えている。叶えられることであるならば、力になりたい。
「どうした?」
「執務室に、入りたいんだ。支えてくれる?」
身長差から、必然的にラドは他の誰であっても見上げるしかない。そして、若干幼さを感じる口調もあってか、手を貸す人物は多かった。ラドがそれを受け入れながらも、本音では自分で出来るようになりたいと思っていることを偶然聞いた自分は、必要以上に手を差し出すことはしなかったけれど。
「無理はしていないな?」
「うん。僕もね、この間のあれ……見ていたんだ」
「ああ。あの三人組のか」
「それでね、魔王様のも、見えたんだ」
城と街を巻き込んで、魔王様がご自身の力を示されたのは、ついこの間。あれからあの三人組はヘンドリック様直々に指導することになった。一番きつい、と顔を青ざめていたヴェルメリオから聞いた訓練内容は、想像しただけで倒れる自信がある。それを全てこなしてなお、魔王様に挑戦しようというのならその根性だけは認めようとも言っていた。
そんな顛末を迎えたあの騒動、ラドがいたのならば、当然見えていただろう。
「魔王様、魔力の流れがすごくて、今まで近寄れなかったけど。あの場で見えたのは、僕たちを守るような動きだったんだ」
そう、ラドが眼鏡をかけている理由は、人の魔力の流れがはっきりと目に映ってしまうから。魔法を使えるならば重宝されるだろうそれは、魔力はあっても魔法を使うことに体が耐えられないラドにとっては、ただの毒にしかならない。
魔道具である眼鏡に出会うまで、魔力の流れが見えすぎて頭痛を引き起こしたり、負荷に耐えられなくて倒れることだってあったと聞いている。
「……それを、見ることが出来るお前がうらやましいよ、ラド。お前がそれで苦しんでいることも、知っているが」
「うん。バルは心から言ってくれているのが分かるから、大丈夫。いつもありがとう」
へらり、と笑うラドはいつもと変わらないように見える。けれど、先ほどからずっと手は震えたままだ。本人はぎゅっと握って抑え込んでいるつもりだろうから指摘するようなことはしないが、魔王様に渡すべき書類にそろそろシワがついてしまう。
「それでね。僕も、頑張ってみようかなって……」
「分かった。一緒に行こう」
さりげなく書類をもらい、執務室のドアを開ける。最初はきちんと毎回ノックをしていたが、魔王様からこの部屋に来るのは限られているし、ノックの必要はないと言われてからそれもそうかと思いノックをやめた。
ヴェルメリオから魔力の扱いを教わってからは、魔王様が城の中の人物を魔力の動きで把握していることもあってか、今では何も前動作なくただドアを開けて挨拶をするだけ。
それが、ラドには驚きだったようで思わず肩を跳ね上げていたのに気づいた時には、もう魔王様が自分たちをしっかりと捉えていた。
「おかえり、グランバルド。書類と一緒に客人を連れてきたのか」
「ただいま戻りました。こちらは」
「あ、の! 文官の、ラドガル、です……」
執務室には、入れた。けれど眼鏡をしていてもラドの目は潤み、足元はふらついている。とっさに背中に回した手には、思っていたよりも重みがかかった。
「そうか。いつも丁寧に書類作ってくれてありがとうな!」
魔王様のその一言を聞いてから、ふわりと手が軽くなった。不思議に思って視線を下げると、ラドが自分の手の支えから一歩前に出ていた。
まだ目は潤んでいるみたいだけれど、視線はしっかりと前を見て、魔王様に向かっている。
「こちらこそ、ありがとうございます。これからも、頑張ります」
深く頭を下げたラドは、それだけでもう退室していった。あっという間に終わった滞在に、魔王様は少しだけ残念そうだったけれど、それ以上に嬉しそうに笑っている。
「執務室に、初めて文官が来てくれたんだ。これはいい一歩だろ」
「そうですね。ラドは、きっとこれからも来ますよ」
「だといいんだがなあ。あ、グランバルドがそう呼ぶってことは、仲いいんだろ? 何が好きか知ってるか?」
「知ってはいますが、好物を聞いてどうするんです」
もしかして、と思った考えは間違っていなかったらしい。満面の笑みを浮かべた魔王様から、直後に答えが聞けたのだから。
「決まってるだろ。次はここで休憩に誘うんだ」
「……あれで、真面目な性格ですからね」
だからこそ、文官である自分が上司である魔王様の執務室に顔を出せないなんて、とずっと思い悩んでいたのだから。
あの三人組にはなかなかに面倒くさい準備をさせられたが、昔からの友人が一歩進むきっかけを作れたことだけは、評価してやろう。
そんなことを考えていたからか、魔王様がずっと自分の事を見ていたことに気づくのが遅くなった。
「グランバルド、お前はこれが好きだったよな?」
まさか、自分が何も言わなかったのを、ラドの好物を聞いたから拗ねているとでも思われたのだろうか。
ひょいひょいと自分の手に乗せられていくお菓子は、確かに厨房からの差し入れで気に入っていたものだったけれど。
「お前の好きなものは、ちゃんとに覚えているから大丈夫だって」
……自分も、案外単純なのかもしれない。業務中の休憩、そんな時間で食べたお菓子のことを魔王様が覚えていてくださっているというだけで、口元のにやけを止められないのだから。




