25.いざ、視察へ
視察、一言で簡単に済ませられるほど、準備は楽ではない。
というもの、前魔王様の時には視察と言えばその場に攻撃を仕掛けることとイコールだったので、どのような準備をしたのか、そして何を見てきたのかという子細な記録が残っていないのだ。
当然、自分たち下働きが全ての内容を把握しているわけでもない。その頃に書類を整理していた文官が処理していたのは、視察の同行許可証ではなくどれほどの戦果を持ち帰ってきたのかという自慢の数々。
「視察の準備、ですか……」
あのヘンドリック様ですら、それだけを呟いて記憶を思い返すように目を閉じてしまった。それくらい、記録にも記憶にも残っていない前魔王様時代の、視察。
ひとまず城のある街に行くということだけはすんなりと決まったけれど、そこから先を進めるのには思っていた以上に時間がかかった。
ただの街歩きであるならば、これほどまでに準備などは必要なかっただろう。しかし、前例があるようでないことをしようとするならば、どこの誰から突っ込まれても問題のない資料や準備をしておくように、と指示をしたのは魔王様ご自身。
行きたいと願う気持ちは、おそらく誰よりも強いはずの魔王様からの直々の指示なのだから、自分たちの準備に不備があってはならない。
そして、その準備が整うまでの間、自分にはひとつだけ、課題があった。
「それじゃあ、俺の事はシアって呼ぶように。ヴェルメリオは出来そうだが、グランバルドは……」
「いえ、理解はしているのです。ですが、魔王様とお呼びしていたのにいきなりお名前を出せるかとなると……」
「グランバルド。側近なのであれば、そのくらいの柔軟性は身に付けなさい。主を窮地に立たせるなど、あるまじきことですよ」
魔王様のお名前はもちろん、存じている。ただ、それを呼ぶ機会などそうそう巡ってくるはずがない。
そう思っていたのに、こんなところから転がり込んでくるとは。
そこからしばらく、執務室に視察の事を知る者だけになった時には、魔王様の事をシアと呼ぶことが義務付けられた。魔王様とお呼びしようものならにんまりと笑ってペナルティだとばかりにからかわれるので、仕事をこなすのに余計な体力やら忍耐力やらを消費した気がするが、どうにかつっかえることなくシア、と呼べるようになった頃。
「それでは、行ってきますね。あとはよろしくお願いします」
「おや、口調も改めたほうがよいでしょうか」
「あ~、俺はさ、一応ばれたらまずいからこうやって魔力も抑えて変装してるんだけど」
あれから改良を重ねて魔力を抑えるために他よりも宝石を増やした腕輪を着けて、紫の髪を隠すようにフードをすっぽり被っているのは、魔王様。
ちょっとだけ背を丸くしているからか、身長も違って見える。いつもと同じ高さでも、魔王様と目が合わないというのは新鮮でもあり、これから見失わないかという不安もある。
「二人はどっちでも、好きにしたらいいんじゃないか?」
「ヴェルメリオ、あなたは前から城に勤めているのです。顔を知られている可能性はあるのではないですか」
金髪碧眼の魔族は多い。けれど平均的な魔族よりも身長の高いヴェルメリオは、人に紛れても頭が飛び出している。特別目立つほどでもないが、目は引くだろう。だからといって、そんな高身長の男がフードを被っていると、それはそれで目立つ気がする。
「前からいたと言っても、あの頃は閑職扱いでしたから。私の顔を覚えている者はいないと思いますよ」
「なら、そのままでいいだろ。グランバルドはどうする?」
「自分は……」
「城の下働きだったら、街に知っている顔はいるでしょう」
ヴェルメリオが言うことは、おそらく通常の下働きだったら当然の話なのだろう。あの頃は何も考えていなかったが、今になって思う。あの時の自分たちの働きかたは、おそらく普通ではないのだと。
日が出てから沈むまで、いや沈んでからもか。月がその存在を主張していてもなお、手を動かしていた自分たち。
それでも屋根のあるところで眠れて、空腹の心配をしないで済む環境は、確かに幸せを感じていたのだ。
それよりももっと、世界にはたくさんの幸せがあるのだと教えてくれたのは、魔王様だ。
「自分は城の外との連絡の担当はしていませんでしたから、見知った顔はないと思います」
「そうか」
ただ一言、それだけを返された魔王様の表情はフードに隠れて見ることが出来ない。ただ、声だけで判断するならば。
「なら、グランバルドも一緒に視察楽しもうな!」
そう。そうだ。魔王様ならこう返してくれると、思っていた。そうやって魔王様は、自分にまた幸せの形を見せてくれるのだ。
遊びではないと呆れたように呟くヴェルメリオですら、しょうがないと小さな子供をあやすように目を細めているのだから、自分たちは相当はしゃいでいるように見えたのだろう。
「それでは、私たちはいつもの通りで。おそらく“シア”はいいところの子息で、私たちは護衛という見られ方をするでしょうが、構いませんね?」
「もうちょっと砕けた立場で見て回りたいが、その辺りが精々だろうな。傷つけたり、壊したりしなければいいさ。その場で上手く立ち回れるだろ?」
「もちろんです」
「ど、努力いたします……」
「大丈夫ですよ、グランバルド。あなたの見た目なら、護衛見習いだと思われるでしょうから」
ヴェルメリオの、褒めているのだか貶されているのだか分からない言葉が合図となって、視察は始まった。
城の正面から出て行ったら何か勘繰られるかもしれないし、城の者から声をかけられるかもしれない。視察に行くと通達は入れているので、それはないと思ったが、念には念を、ということらしい。そのあたりはヘンドリック様が計画してくれたので、従うだけだ。
案内された転移陣を使って、やってきたのは軍が使っている街から少し離れたところにある簡易的な訓練場。今は物資保管の倉庫として使っている。この時間は誰もこの倉庫で荷物の仕分けをしていないのは調べ済みだし、いたとしても魔王様の事を知っている兵だろう。
「さて、ではここから街に向かい、ぐるりと見回りながら城に向かう。それでよろしいですね?」
「ああ。十分だ。二人とも、よろしくな」
「はい。お任せください!」
ヴェルメリオから、変に構えることなく普段通りで大丈夫だと言われたが、いったいどういう意味なのだろうか。この視察が終わったら、意図を確認しようと思う。
「シア、こちらへどうぞ」
「ああ。気づきませんでした。ありがとうございます」
とはいえ、自分の出る幕はほとんどなく。ヴェルメリオがあれほど手慣れた様子で魔王様――シアを案内できるとは。
街の中はたくさんの魔族が楽しそうに歩いていて、活気もある。その分小競り合いもあったようだが、それも巡回している兵たちがすぐに駆け付けていた。
魔力があるから小競り合いでも大きな被害につながる場合がある、というのはこうして街に降りてみなければ理解できなかっただろう。あんな簡単に、たくさんの人がいる中で魔法を使おうとするなど自分では考えつかないことだったから。
「警備はもう少し増やしてもよさそうですね。もう少し、働き手を募集しなければ」
「昼でこれなら、夜は少し実力のある者を回さねばなりませんね。ヘンドリック様にも伝えておきましょう」
「さ、シアはおとなしく守られていてくださいね?」
城の中にいるだけでは分からない、書類で見ていても実際に自分の目で見ると違う。改めて、自分たちが処理をしているあの書類一枚一枚が、こうした生活に役立っているのだと思うと、やっていて良かったと思える。
側近になりたての頃、書類で生き埋めになった夢を見ていた自分に、今の気持ちを教えてやりたいくらいだ。
「これは、何ですか?」
「魔力を込めると光るんだよ。ほら、この穴から出た光が、壁に反射して模様を描いているだろう」
魔王様はフードで顔を隠しているのに、楽しそうだと分かる。あちらこちら歩き回って、もう城の入り口は近くに来ているのに、いまだ軽い足取りで店を冷やかしているのだから。
いや、冷やかしではないな。自分もヴェルメリオも、それなりに荷物が増えているのだから。様子を見て気前のいい客だと思われているのだろう、呼び込みがかかるごとにまた店に寄っていくのだからこの荷物はもうしばらくの間、増え続けそうだ。
「ん、もう店を閉めてしまうのですか」
「ああ、まあ儲けるために開いても、いるけど。目的があって店をやりながらあちこちふらふらしているんだ」
「へえ。どんな目的なのか聞いてもいいですか?」
珍しい。今までの店だったら、言葉を濁すような返事をされたらそれ以上に話を広げようとしなかったのに。
どうやら同じタイミングでヴェルメリオも感じ取ったようだ。簡易的なテントが並ぶ通り。人の通りもそれなりにあるし、視界を遮るのは布一枚。
店の入り口をさりげなく塞ぎ、人の往来から魔王様の姿が見えないような位置で立っている。
そんな自分たちの動きに気づいていない店主は、近づいて行った魔王様に向けて客向けの愛想のいい笑顔を見せてから、動きを止めた。
「いいけど、話聞いたらひとつくらい買って……!?」
「久しぶり。おっちゃん」
「シア! ああ、まさかここで会えるなんて……!」
フードから少しだけ自身の髪を見せた魔王様を、がばりと抱いた店主の動きに驚いたのは自分だけではなかった。即座に踏み込んでいたヴェルメリオは、店主の行動に害意がないと分かると一歩離れて見守る態勢を取った。
一瞬遅れてふわりと舞った布の先、まだ人の流れが途切れないのは見て取れた。
魔王様の事を、誰からも聞かずにシアと呼んだ店主には、聞きたいことがたくさんある。
「少し、場所を変えましょうか」




