22.ひとつ見つけたもの
「魔王様……いない」
「また向こうに行ったのではないですか? グランバルドにも言わずに行ってしまうとは、魔王様は本当にお気に召したのでしょうね」
文官たちの使っている部屋から書類を持って執務室に戻ってきたら、魔王様の姿がなかった。確かにひと段落ついて、各所に書類を届けに行くから戻るまで時間がかかるとは伝えてあったし、この後の予定は何もない。
余裕がありそうに穏やかな笑みを浮かべたままのヴェルメリオとは違い、自分のなかで感じたものは落胆と呼んでいい気持ちだ。
魔王様がそれほどまでに気に入ったあの温泉、というどうにもならないところに嫉妬したというのもある。けれど、何よりも自分に何も言わずに向かわれてしまったという事実に、ショックを受けている。
「ヴェルメリオは気付いていたでしょう? 魔王様の魔力を感知できるのですから」
「ええ、まあ。行き先が分かったのでそれ以上は探りませんでしたが」
それを、自分に伝えてこなかったのは魔法の訓練だと思っているからだろうか。魔王様の魔力をまず感知できるように日々、努力はしているもののなかなかそれを実感できるタイミングはやってこない。
いつも一番側にいるのが魔王様なので、感覚が良く分からないというのが自分の弱点らしい。とは言っても、離れるという選択肢がないので、こればかりは自分がどうにかしないといけないところであるとは思っている。
「今は知っている者が少ないですからね。安全は確保されているでしょう」
「一応、警備も配置していますからね」
「とはいえ、心配なことは心配なんですよね。グランバルド、ここに皺が寄っていますよ」
「心配していても、あの場所に自分が行くことは出来ませんから」
つん、と軽い力でつつかれただけなのに、自分のささくれた気持ちはそれだけでもイラっとするのを止められない。ここで口を開けばただの八つ当たりだと分かっている言葉が出てしまうので、気持ちを落ち着けるために深く息を吸い込んだ。
気持ちを切り替えて口を開いたはずなのに、飛び出したのはよく聞かなくても分かる不貞腐れた言葉だった。
「なぜです? 魔王様は魔道具を残してありますよ?」
「ええ。それを使えば魔王様お気に入りのあの温泉まで、簡単に向かえるでしょう」
この城で働いている者に限り、いつでも温泉に向かえるようにと魔道具を作ったのは魔王様。いろんな部署に配りまわったその魔道具に、魔力を込めたのも魔王様。なので、この城にいる者は少ない魔力で温泉に向かうことが出来るようになっている。
書類を回収するついでに話を聞いているが、なかなか評判は良いようだ。魔王様がいない時間を見計らっているらしく、深夜の利用が多いらしいが。
魔王様の心の広さは称賛されるべきだが、その気遣いが自分にさらなるダメージになるなんて。
「ヴェルメリオ」
「なんでしょうか。グランバルド」
「分かっているだろう? 自分には、あれを起動させるだけの魔力がないと」
そう、少ない魔力で使えるように調整されているはずの魔道具なのに、自分一人では起動させることが出来ない。魔王様にも見てもらって起動させたが、どれだけ必死になって魔力を込めても温泉のあったあの場所までたどり着けなかった。
試しにヴェルメリオにも見てもらったけれど魔道具は問題なく発動するのだから、自分の魔力が足りないのだろうという結論になったことは、記憶に新しい。
「足りないならば、補えばよいのです」
「魔力を補充する道具なんて、そんな都合よく……」
「道具ではなく、魔力持ちの人ならばここにおりますよ?」
自身の胸に手を当てながらにっこりと笑ってみせたヴェルメリオは、本当に魔力を使っても構わないと思っているらしい。
単純に温泉に行きたいのかもしれないが、今の自分にとってはどちらでもいい。ただ、魔王様が温泉に向かったというのであれば、そこに行かないと。
そうでないと、自分は。
「ただいま~って二人で向かい合って何をしているんだ?」
「魔王様!?」
ほんのりと赤く染まった頬に、毛先の濡れた髪。温泉に行ってさっと湯に浸かってきたのだと分かる姿に、少しだけ安心した。
誰の目も届かない場所ではないが、それでも万が一自分の目のない所で魔王様に何かがあったらと考えると、足の下から崩れていくような感覚に襲われてしまう。
「グランバルド? 何か急ぎの書類でも上がってきたか?」
「いいえ。そうではなくて……」
「グランバルドは、魔王様のお姿がなくて心配していたのですよ。向こうでは、ゆっくり寛げましたか?」
まだ濡れている髪をそっとタオルで押さえたヴェルメリオは、自分を見て面白そうに笑う。その顔を見て少し腹立たしいと感じたけれど、心配していたと言われて何かが自分の胸にストンと落ちた。
側近といえど魔力も立場も下の自分が、魔王様の心配を出来るような立場ではないと思っていたのかもしれない。
「すまんな。一応、置手紙は残しておいたんだが」
「置手紙、ですか。グランバルド?」
ぱちくりと、目を丸くしたヴェルメリオを見てハッとする。戻ってきて魔王様の机に、預かった書類を置いたのは自分だ。姿が見えないことに動揺して確認をしなかったのも、自分。
慌てて机の上を見てみたら、書類の下から魔王様の書置きが見つかった。
そこにはしっかりと、温泉に行ってくるから戻ってきたら一緒に休憩するか、という提案もされていて。
この部屋に戻ってきてからの自分の言動があまりに恥ずかしくて、ぶわっと体温が上がる感覚があったし、自分の顔は赤くなっていると思ったがそんなことを気にせずにばっと頭を下げた。
「……申し訳ありません!」
頭を下げているから、表情までは分からない。けれど、魔王様とヴェルメリオが驚いているだろうという空気は、感じた。
「魔王様がいらっしゃらないことに焦り、すべき確認を怠りました。自分の不手際でお騒がせしまい、本当に申し訳ございません」
「いいのですよ。それだけ、魔王様の心配をされていたのでしょう?」
「きちんと言葉にしなかった俺だって、お前に謝るべきだな。悪かった、グランバルド」
下げた頭のさらに下から、ひょっこりと顔を出した魔王様。しゃがまれているのだと気づいたのと同時に、頭を上げて視線を高くする。
主に、膝をつくような真似をさせてしまうだなんて。
「前も伝えたと思うけど、俺もお前もまだまだ新米だ。もうそろそろ通じなくなってくるけどな」
姿のお披露目もして人族との会談も済ませ、魔族が良く生きていけるようにと日々書類と向き合い頭を抱えている魔王様を、新米だとは言い表せない。
側近と名乗りながら、こんな初歩的なミスを犯す自分とは、違うのだ。
「ずっとグランバルドがそばにいてくれるから、甘えてた。それに、少しくらい離れたほうがお前も気分転換できるだろうと思ったんだが……それも、読み違えたな」
「グランバルドがどれだけ慕っているか、魔王様は十分理解していると思っておりましたが」
「俺もそのつもりだったけどな。まあ、思っていた以上に大切にされてたってことだ」
違う。カラカラ笑って嬉しそうにしている魔王様はおそらく気づいていない。たぶん、ヴェルメリオはなんとなく察しているだろうけれど、それをこの場で口にしない程度には分別があるようだ。
自分が魔王様に対して抱く感情は、もはや執着と呼べるくらいに重いもの。姿が見えなくて取り乱すなんて、幼子ではないのに。
それでも、自分が自分であるためには、魔王様の存在が必要不可欠なのだ。
「あ、それでグランバルドの魔力に反応しなかったこれだけどな」
「先ほど、試そうと思っていたのですよ。私がいれば魔力不足になるなど、あり得ませんし」
とんとん、と示したそれは、自分の魔力では一切反応しなかった魔道具。魔力はそこまで多いわけではないが、少ないとも思っていなかった自分に、容赦なく現実を突きつけてきたもの。
「なんか、不具合かもって。向こうの警備の中に、魔法に明るい奴がいてさ。今度見に来てくれるって」
「おや。それはなんとも。よかったじゃないですか、グランバルド」
不具合、そう聞いてわずかに緊張が走る。けれど直後にヴェルメリオが良かった、と語りかけてきたのを聞いて、自分の魔力に何か理由があって魔道具を発動できていなかったのではないらしい、とぼんやり理解した。
魔王様の側近を名乗りながら、この程度の魔道具すら発動できない自分。その認識が、もしかしたら変わるかもしれないのだと思えば、先ほどとは違う意味で緊張してきたけれど。
「次は声かけるな。んで、一緒に温泉入って疲れを癒そう」
「ありがとう、ございます」
「それじゃ、もう一回温泉行くか!」
「魔王様、本当にお気に召したのですね」
「気に入ったし、これをどうやって名産にしていくかを考えないといけないからな。ま、しばらく湯に浸かっていたらいい考えも浮かぶだろ」
呆れるようなヴェルメリオの声を聞きながら、自分は魔王様に深く頭を下げたのだった。
城に勤めている者たちから徐々に広がっていった噂もあり、温泉はとてもよい観光資源となるのだが、それはしばらく後の話だ。




