21.戸惑い、そして体験して気づく
それから、魔王様の行動は早かった。緊急で処理をしなければならない書類がないことを確認し、厨房に向かって何か注文をして来てから自分の身支度を始めた。それも、旅行に行くのではないかというくらいの笑顔で。
最小限の人数で行けば魔力の消費は少ないだろうとヘンドリック様は言っていたが、そもそも転移の魔法を使いこなせるレベルまで自分も魔王様も達していない。
「ヴェルメリオを呼んできましょう」
なので、ヘンドリック様からの提案は願ってもないことだった。自分たちに魔法を教えてくれているヴェルメリオは魔力こそ足りないものの、転移魔法についての知識なら十分にある。
軍の訓練に顔を出すのも久しぶりだったので、少し申し訳ないとは思うけれど。
ヘンドリック様がすうっと手をかざすと、その先から黒い靄のようなものが広がっていく。そしてそれは、窓から外に出て行った。使い魔の類だろう、時間を短縮させるにはもってこいだ。
「そうだな。それからヘンドリック。今回はお前も一緒だ」
続いた提案に、驚いた顔をしているのはヘンドリック様。今までの話の流れで、どうしてヘンドリック様の同行がないと思われていたのか。この中で現場を見ているのはヘンドリック様、ただおひとりなのに。
ヘンドリック様が思い至らないはずがないのに、そのように驚いているのは、見つけて報告を上げたもの。魔王様が言うおんせん、というものに対して少なからず動揺しているからなのかもしれない。
確かに、魔王様ならご存じかも、と思っていたところに答えをもらうどころか嬉々としてその場に行こうとしている姿を見れば、戸惑ってしまうのも無理のないことだろう。
「その場を見た者が誰もいなくてどうする。城の事なら心配するな。そこの護衛達がきちんと連絡を回してくれるさ」
「魔王様、彼らの経験はまだ浅いことをご存じですよね?」
もちろん、それは魔王様だって分かっている。そもそも、彼らを指導していたのは軍部。ヘンドリック様の管轄している部署だ。まずはこうして執務室にいるときから、徐々に行動範囲を広げていこうと方針を決めている。それだってヘンドリック様とヴェルメリオも交えて決めたことだ。
「ああ。だからこそ、必要な各所に連絡を取り、報告をする。経験を積むいい場面じゃないか?」
「なるほど、自らの考えで柔軟に動く機会を、魔王様はあえておつくりになると」
深く頷いている魔王様に、感銘を受けたように感動している護衛見習いたちには、本当に申し訳ないが。
魔王様、絶対に早く現地に行きたいだけです。真面目な表情と声色だから、きっとヘンドリック様も気づかれていないでしょうが。
しばらくの沈黙の後、ヘンドリック様が護衛見習いたちと向き合った。その横顔は、軍の責任者を名乗るのに相応しいもの。
「聞きましたね。魔王様が発った後、あなた達が必要だと思った部署に連絡を取りなさい。そして、魔王様が無事にお帰りになるまで、この城を守ること。出来ますね?」
「はい!」
「よい返事です」
満足そうに微笑んだヘンドリック様と、魔王様。その姿を見て、護衛見習いたちはこみ上げる感情を抑えるように口を引き結んではいるが、にやけるのはどうにも止められないらしい。
このお二方からそうやって期待されたのだから、その場で叫ばなかっただけで十分だ。これなら、自分たちが城を出てからの行動も、おかしなことはしないだろう。
「立派に育っているようで、なによりだ。それじゃあ、ヴェルメリオが来たら出発だ!」
「魔王様、念のため申し上げますが視察ですよ。……遠足ではありませんからね?」
そう、念押しをしたのに自分が持っている荷物は、おおよそ視察に行くときのものではない。いや、視察に同行したことなどないから、もしかしたらこれが正しい荷物なのかもしれないが。
「安心なさい、グランバルド。あなたの考えで合っています」
どこか遠い目をして、だけど興味もありそうに視線は魔王様から離さないヴェルメリオ。つい、と示された先には魔王様が待ち望んでいた温泉。
温かい泉と書くそれは、文字通りの意味だそうだ。地下から湧く水が温かく、場所によっては体にいい影響もあるらしい。
確信が持てないのは、鑑定を使える者はこのメンバーにいないからだ。さすがに使える者は限られるらしく、魔法の腕を磨けばどうにかなるものでもないらしい。
「あのような魔王様の姿など、初めて拝見いたしました。まさか、私の報告がこのような結果になるとは……」
「魔王様はとても、楽しんでおられる。それで良いのではないでしょうか」
「そう、ですが」
未だ戸惑いの中にいるヘンドリック様のお気持ちも分かる。人族がしていたことを疑問に思い報告に来たのに、まさかの魔王様が同じ行動をされているのだから。
辺りを探索し人族がいないことを確認はしているが、念のためにとこの周囲には認識阻害の魔法を使っているそうだ。
ヘンドリック様の魔法を破らない限り、この場には誰も近づけない。警戒のし過ぎかと思ったが、自分たちの王であり主である魔王様がこのように無防備な姿をさらしているのだ。出来ることはすべてやるべきだろう。
「あ~これ、よく見つけてくれたなぁ」
「えっと、いかがですか魔王様」
「違う違う、グランバルド。こういう時は、湯加減はいかがですかって聞いてくれないと」
気持ちよさそうに寛いでいる魔王様とは対照的に、自分たちはどうにもまだその習慣に驚きを隠せない。
風呂は知っている。湯浴みだって、側近となってからは不快に思わせることのないように、毎日出来ている。だが、こうして体を全て湯に沈めて、手足を投げ出すことなど、したことがない。
「湯加減はいかがでしょうか、魔王様」
「ふふ、お前も入ってみればいいのに。気持ちいいぞヴェルメリオ」
「お誘いはありがたいのですが、主と共に寛ぐなど」
ふにゃりと、溶けたように体を投げ出している魔王様は、狙ってやっているのだろうか。紫の瞳が、上目づかいでヴェルメリオを誘っている。ましてや今魔王様がまとっているのは腰のタオルのみ。ヴェルメリオの顔がほんのり赤く染まっているのは、湯の近くにいるからだけではないだろう。
「しかし、どうしましょうね。これほどまでに魔王様がお気に召したのですから、どうにかこの場を整えて今後も使いたいのですが」
「すでに人族の間でも知られているでしょう。魔族の物にするのは容易いですが、少々手間ですね」
「先代とは違うと印象付けたい魔王様の、ご意思に反するところではありますね」
ヴェルメリオの言う通り、すでにこの地は人族にも知られている。ギリギリ魔族側の土地ではあるが、はっきりと境界線を引いてない以上、それはあまり声高に主張できることではない。
所構わず戦を仕掛けて人族を暇つぶしに攻撃していた先代魔王様と、温泉で寛いでいる魔王様の考えは正反対と言っていいだろう。
地道に営業をかけてきて、ようやく人族との関係に改善の兆しがあるのだ。それを文字通り水に流したくはない。
「ん? 俺はこの温泉を独占するつもりはないぞ。まあ、多少道は整えるがな」
おいで、と手招きされたので立ち尽くしているのも失礼かと思い、魔王様の近くまで進む。今まで見てきた風呂とは違い、常にお湯が沸いているからだろうか。ずっと温かいままで冷える気配がない。
「土魔法が得意な者たちにはまた働いてもらうことになるが、この湯の辿っている筋を探してもらう。そこからちょっと分けてもらえば、人族とも鉢合わせることにならないだろ?」
「では、魔王様はこの温泉とやらを……」
「手放す気なんてないな! 見つからなかったら見つかるまで探すぞ!
足だけでも入れてみろ。この気持ちよさが分かる」
ほらほら、と王から言われてしまえば、そうするしかない。ヘンドリック様はかなり渋々、ヴェルメリオは少し面倒くさそうに、そして自分は体が傷つくようなことでなければ何でもいいという、かなり投げやりな気持ちで魔王様に従ったのだけれど。
ほんの数分で自分たちの考えが覆るなど、思いもしないまま温泉に足を入れた。
城に戻ってからというもの、新たな仕事は増えたはずなのに、どうしてだか頭も体もすっきりとしている。
初めて視察に同行した達成感からくるものかと魔王様に相談したら、それこそが温泉の魔力だと不敵な笑みを返されてしまった。




