20.その報告から大発見
「魔王様、少しよろしいでしょうか」
「ヘンドリック? 何かあったか?」
軍で訓練をしてくると言っていたヴェルメリオが戻ってくると思っていたのに、ノックの後に聞こえてきたのはヘンドリック様の声。
魔王様も思い当たることはないらしく、不思議そうに首を傾げている。とはいえ、訪ねてきてくれたヘンドリック様を廊下で待たせるわけにもいかないので、入室の許可を出している。
ひと呼吸置いてから執務室に入ってきたヘンドリック様の顔からは、少しばかり戸惑っているような表情が見て取れた。
「報告書に書くほどかどうか悩んだ事なのですが、厚かましくもこうして直接お時間をいただきに参りました」
なるほど。確かにそう思っていたのだったら先ほどの表情にも納得だ。ヘンドリック様は軍のまとめ役を請け負ってくれているからこそ、魔王様に持ってくる前の報告書にも全て目を通してくれているのだろう。
ただ、今の話し方からだとおそらく、報告するかどうか悩んでいる事についてはヘンドリック様も見ているようだ。
「見聞きしたものだったら、何でも書いてくれて構わないけどな。実際に頭の中の情報を整理するためにも役立つし」
「いえ、そうして魔王様にご負担をかけるようでは、先日の出来事の繰り返しになってしまいます。事が起きてからでなくては危機感を抱かない若者たちへの、勉強だと思っていただけませんか」
魔王様の魔力が原因で倒れた時、もちろん城の中はあちらこちらで業務が回らなかったりしたけれど、それは軍も似たようなものだったらしい。最高責任者は魔王様でも、再編成や訓練の指示などはヘンドリック様が行っている分、文官たちほどの混乱はなかったようだが、それでも不安を感じることだってあっただろう。
「きっかけが少しばかり恥ずかしいが……まあ、やる気があるのなら何よりだ。それで、ヘンドリックが気になったことは何だ?」
「魔王様は、人族の習慣にも詳しいと耳にしました。その知識を、ひとつご教授いただければと思いまして」
その魔王様は、ほんのりと耳を赤くして俯いている。そのお気持ちはとても良く分かるけれど、いいきっかけにはなったのだと思う。あれから軍の訓練に真剣に取り組む見習いが増えた、とヴェルメリオが言っていたことだし。
それよりも、今はヘンドリック様が持ってきた報告だ。人族に関係している事ならば、魔王様に聞くのが早いだろう。この城にいる魔族で、人族とかかわった経験はおそらく魔王様が一番多いのだから。
「先日の遠征でのことです。人族との境近くにある山、地盤が緩んでいるとの報告があり我らの部隊が補強に行ったのは、すでに報告済みのところですが」
「こちらの報告書ですね。確かに、土魔法が使える者たちによって補強が無事に終わったと聞いています」
「確か、人族もその山にいたんだろ? 揉め事にならなかったのはヘンドリックがしっかり目を配っていてくれたからだな」
「恐れ入ります。お褒め頂いた後に恐縮ですが、私は今回何もしておりません」
山沿いにある村から、連日の雨で山が崩れそうだと連絡があった。その村には土魔法を使いこなせる者がいないので、誰かを派遣してもらえないかという緊急性の高い要請だったから、ヘンドリック様に相談したのを覚えている。
そうしてすぐに現場へ行けるよう、魔王様の魔力を込めた魔道具を渡したことがよかったのか、部隊が到着して補強を始めたタイミングは、あと少し遅かったら村は地図から消えていたかもしれないと聞いた。
人族と出会ったことは報告書に記載されていたが、特別問題を起こしたわけでもなく、ただお互いすれ違いざまに挨拶を交わした程度。連れて行った部隊も血の気の多い者などはいなかったから、それだけで済んだのだろう。
「魔族に対して、どちらかといえば友好的な感情を持つ人族だったようでして、必要以上にこちらを恐れることなく多少の言葉を交わしました」
山の緩んだ地盤を補強したことには感謝された、と報告書に書いてあった。村が消えるかもしれないと言わせるほどの土砂崩れが起きてしまえば、その場にいた人族などひとたまりもないだろう。
魔族がいたことに、そして魔法を使ったことへの幸運には、感謝してもらいたいところだ。
「その時にあった出来事が、私達には少々理解が難しく、お知恵を頂きたいことなのです」
「魔族に対して友好的な人族の気持ちを聞かれても、さすがに分からないぞ」
苦笑いをしている魔王様に、それはそうでしょうと内心ため息をついた。いくら魔王様が人族との境で暮らしていた経験をお持ちだからといって、そんなものが分かるはずがない。
自分たち魔族は、人族とは基本的に交わることがないのだから。魔王様のそばにいることで多少なりとも関わることになった自分でも、人族が魔族をどう思っているのかなんて理解できないのに。
「では、人族が外で湯に浸かることを楽しんでいる事については、いかがでしょうか」
答えはきっとないだろう、そう思っているのがまるわかりの口調だった。分からないと返ってくると確信していると言ってもいいだろう。それくらい、いつものヘンドリック様と比べるとかなり投げやりな問いかけだった。
「外で……」
「湯に浸かる、ですか。ヘンドリック様それは」
「もちろん、風呂という概念は知っております。ですがそれは湯浴みの延長であり、室内の狭いところで体を沈めるというもの。私達の好奇の目をものともせず、何人もが外で湯に浸かり談笑することを、人族は確かに楽しんでいたのです」
体をきれいにする魔法を使える魔族は、湯浴みだってほとんどしない人もいる。魔法を使えば一瞬で済むのだから、わざわざ服を脱いで湯を沸かして、なんて手間をかける必要などないからだ。
この城にも湯浴み用にスペースを作ってあるが、使っているのは下働きはじめ、魔力の少ない者たちばかり。日々の業務で魔力を使い切ってしまうからこそ、そこで魔法を使える余裕などないのだ。
「いくら魔王様でも、そんな特異な行動のことまでは」
「ヘンドリック」
「はい、魔王様」
知らないだろう、そう続けようとした自分の言葉は他ならぬ魔王様に遮られた。普段よりも低く、唸るような声に自分は少しだけ肩を揺らしてしまったが、ヘンドリック様は動揺することなく返事をしていた。
いや、動揺はしているらしい。よく見ると瞬きの回数が多いし、微笑みが固定されたように引きつっているようにも見える。
「その場所、案内できるか。今すぐに」
「魔王様!?」
がばっと顔を上げた魔王様の瞳は、まるで新しいおもちゃを見つけた子供のように輝いている。書類があると城の中の散歩に行くことすら抵抗を見せる魔王様が、今すぐにでも行きたいと思えるようなものだったのだろうか。その、人族が湯に浸かるという場所は。
「え、ええ。構いませんが……少々この城からは距離がございますよ?」
「ショートカット出来るだろ、俺の魔力使えば!」
魔道具の魔力補充も、数は多くない。なので、魔王様の魔力はおそらくかなり余裕がある。あまり溜め込まれるとまた体に影響が出てしまうので、使うこと自体はむしろ歓迎すべきことではある。
これほどまでに前向きで機嫌のいい魔王様を見ていると、止めることなど出来ないとは思ったが、念のため。側近としては城を空けるとなると、やらなくてはならないことだってあるのだから。
「魔王様、どうされたのですか。その、人族の習慣に思い当たるところでも?」
「おおありだグランバルド! これは、もしかしたらいい資源になるかもしれないぞ。何より、俺が欲しい!」
「魔王様にそこまで言わせるとは、その場所はいったいどんな……」
好みをはっきりと口にされることが少ない魔王様、それなのに、今のヘンドリック様からの報告については即座に動こうとするし、欲しいと主張される。
それほどまでに貴重な場所だったのか、と難しい顔をしているヘンドリック様を見て、魔王様が声高に告げたのは。
「温泉だ!」
「いいかグランバルド、温泉って言うのはな……」
「落ち着いてください魔王様。外出の準備を整えますので」




