18.この先も隣で
「見ろよ、あれ。魔法も使わず走り回って」
うるさい。
何が魔族だ、何が魔法だ。魔法を使わないなら魔族と呼べないだと?
……誰も、魔法の使い方なんて教えてくれないじゃないか。
「下働きなんだろ? 文句言えるのか?」
うるさい。うるさい。
毎日のように戦いを仕掛ける魔王のために、備品を補充しているのは誰だと思ってるんだ。必死に駆け回っていたって、認められることなくただ消費されて壊れたら替えがきく、ただの駒。そんなことは自分が一番良く分かってるんだよ。
だけど、こうやって生きていくことしか知らないんだ。
「お前、この城に詳しいんだって? これから、よろしくな」
魔王様。あなたは、きっと知らないでしょう。そんな些細な一言が、どれだけ眩しくあったかを。
記憶にも残らない短い言葉を宝物のように大切にしている、自分の事を。
その日から、その言葉が生きる理由になった。
「……魔王様、お声をかけなくてもよろしいのですか?」
「そうだなあ。もうちょっと寝かしておこうか。さっきよりも穏やかな顔してるし」
少し前、眉間に寄せられていた皺はもう見当たらない。そこにあるのは、ただ気持ちよさそうに眠っているグランバルドの寝顔だ。
規則正しい呼吸を伝えるように、うす掛けがゆっくり上下している。
ヴェルメリオから声をかけられた魔王は、ふっとわずかに笑みをこぼしてから立ち上がる。もう少し時間があると思っていたが、迎えが来るということはそれほどの余裕はなかったということだ。
「先に伝えておきますが、私は魔法を使ってはおりませんからね?」
「分かってるよヴェルメリオ。お前が魔法を使ってたら、もっと深く眠ってるだろうからな」
念のためと添えられた言葉に、ヴェルメリオが本気でないと理解している魔王も頷いた。魔王と呼ばれながらも、魔法についてそこまで詳しいわけでもない自分に手ほどきをしてくれている相手の実力は、正しく理解しているつもりだ。
少し前まで自分もこうやって寝ていたんだろうなあ、と隣の空っぽのベッドを見て笑いながら、魔王は部屋を出る。その先にはもう見慣れた大きな机と、壁一面の棚がある。ベッドの中で休んでいるときよりも、こちらを見ていると気が休まるように感じるのは、ただの錯覚なのだろうか。
「それじゃあ、いつ起きてもいいように書類片付けるとするか」
「ふふ。起きてすぐに書類の山を見るのでは、さすがのグランバルドも目覚めが悪いでしょうしね」
「付き合わせて悪いな、ヴェルメリオ」
「いえいえ。あまり役には立ちませんが」
いつものように積まれている書類の山をぼんやり見ていたヴェルメリオは、魔王に気づかれないように息を吐きだした。
護衛としての腕はそれなりに役立っているという自覚のあるヴェルメリオでも、書類関係の仕事はただの荷物にしかならないと理解している。試しに、決裁待ちと仕訳けられた書類を読んではみたものの、静かにあった場所に戻すほどには向いていない仕事だというのに。
それでも、側近であるグランバルドの目が覚めない以上、魔王の隣を空けるわけにはいかない。出来ることなどないと分かっていながらもそんな思いがあるからこそ、ヴェルメリオはこの場所から離れない。
「そんなことないぞ。この場にいるってだけで俺は助かってる。一人でこの書類に向き合うのは、少しばかり静かすぎるからな」
「そうでしたか。それなら、役に立っておりますね」
バサリとわざとらしく大きな音を立てて書類を手に取ったヴェルメリオを見て、魔王が笑った。頬杖をついていた手を上に伸ばし、ぐっと姿勢を正した魔王は目の前にある書類に目を通し始める。
合間に話すのはただの雑談だが、それが書類を読みこんで少し疲れた気持ちを解すのにちょうどいいようで、いつもよりもわずかに遅いくらいのペースで書類が片付いていく。
「文官が頑張ってくれているからな。それに俺だってグランバルドがいないと、誰にどの書類を預ければいいのかも分からん」
「起きたら、存分に働いてもらいましょう。それまでは……」
「ああ、ゆっくり休んでもらわんとな」
書類の積まれた山には順調に手を付けていた魔王だったが、決裁を済ませたものはどんどんと溜まっていくので、見た目は何も変わっていない。
そんな様子に疑問を抱き、首を傾げていたヴェルメリオに気が付いたのだろう。苦笑した魔王は、内緒話をするように声を潜めた。確かにあまり大きな声では言えない内容だったので、ヴェルメリオは小さく頷いた。そうして二人同時に目線を向けたのは、隣の部屋。
「魔王様もですよ。体に影響が出ないよう魔力を消費するためには、体力が必要なのですから」
「こんな中途半端なところで王冠捨てることはしないさ。俺だって、一応それなりに覚悟ってやつは持ってるからな」
「それは頼もしい。お支えいたしますよ、魔王様」
書類仕事は支えられませんね、と小さく呟いたヴェルメリオに笑ってから、魔王は再び書類に視線を落とす。仕分けられることなく高さの変わらない山を見て、ほんの少しだけ笑みを浮かべながら。
「魔王様!」
ぼんやりとしていた意識が、急に鮮明になる。そう、きっかけは自分がどうしてこの場所で天井を眺めているのか、という疑問から。
そうして記憶に引っかかっていたひとつが解ければ、あとはずるずると呼び起こされていった。理解した瞬間に自分がしたことは、ベッドから飛び降りてきっといるであろう隣の執務室へと繋がるドアを開くことだ。
そして、そこには自分の予想通りに魔王様と、ヴェルメリオの姿があった。予想外だったのは、護衛として側にいると思っていたヴェルメリオが書類とにらめっこをしていたことだ。
「おー、おはようグランバルド。良く寝れたか?」
「……っ! 申し訳ございません!」
ひらひらと軽く手を振っている魔王様を見た瞬間、その場に跪く。いっそこのまま床に自分の頭をめり込ませてしまおうかと思うくらいに、深く。そんなもので、自分がやってしまったことが許されるはずも、ないけれど。
「魔王様の看病すら満足にできず、おそばにいることもなく、のうのうと寝こけてしまうなど……側近だなんて、口が裂けても言えない失態です」
調子を崩されていた魔王様にできたのは、濡らしたハンカチで多少の熱を和らげること。ただそれだけ。それなのに、自分が体調を崩して寝込むばかりか、魔王様よりも長くベッドの中にいただなんて。
目を覚ます前に見た夢の通りだ。魔法も使えない下働きが、側近を気取って結局こうして迷惑をかける。魔王様のそばにありたい、そのためだったらこの身をどれだけ消費したって構わないのに。それすらもできない自分は、このままこのお方の隣にいてもいい人物ではない。
「グランバルド、あなたはよくやっていますよ」
「慰めなどいらん!」
「本心ですよ。この書類の山を間違いなく捌いていたのは、あなたでしょうに」
顔を上げるつもりなどなかったが、書類の山と聞いて思わず声のする方を見てしまった。そこにあるのは、いつもと変わらない光景。魔王様の手元は動いているのに、積み重なった書類が減っているようには見えないのだが。
「な、グランバルド。俺はさ、魔族の王だ。だから、魔族の皆がいい生活できるように、道を示していかなくちゃならない。
そう思っていたから、こうやって書類の処理もするし、知らなかった魔力の使い方も勉強している」
かたりと、小さく音を立ててペンを置いた魔王様が、自分に近付いてくる。そうだ、魔王様は魔族を統べるお方。そんな方のおそばにいるのは、自らの王を差し置いて寝こけるような、役に立たない下働き上がりではない。もっと、完璧に仕事を熟すことが出来る人物こそ、相応しい。
自分は、そんな人物が現れるまでのつなぎ。そう、ありたいと思っていたからだろうか。
自分がそうやって考えるたびに、この胸の奥からぐっとこらえなければならないほどの感情があふれるのは。
「けど、いくら気持ちがあってもダメなことはある。この間、倒れて気が付いた」
そっと膝をついて、自分と同じ目線になるまでしゃがんでくれた魔王様は、くしゃりと笑っている。倒れた、とそう言っている顔は、少しだけ恥ずかしそうだ。
なにがダメなものか。魔王様は自分が苦しくなるのも構わずに、人族の王と会うときはその魔力を抑え込もうとされていたのではないか。
「失敗は、取り返しのつかない失敗じゃなかったら大丈夫なんだよ。俺だって倒れたのにまだ王冠あるし、王って呼んでもらえてる。
お前だってさ、ちょっと寝坊したくらいどうってことないんだ。だから」
その言葉の続きに、期待してもいいのだろうか。それともこれは、自分の都合のいいように見ている夢なのだろうか。
何かを言おうとしているのに、言葉は音にならなくて。口は小さく上下するだけで、息の音しか響かない。
そうして、目の前の魔王様はにこりと笑った。あの日と、同じように。
「これからも、よろしくな。俺の隣、お前に預けるぞ。グランバルド」
「……ありがとう、ございます!」
夢ではなかった。自分が再び下げた頭を見て笑う前に、ほんのわずかに見えたのは安心したように気を抜いた表情。握りしめていた自分の手を取ったのは、魔王様の手。少しばかりひんやりとしている手は、わずかに震えている。
こんなことを、自分に伝えるだけで緊張されていたのだろうか。
「背中はヴェルメリオだなー。あ、嫌か?」
「光栄ですよ、我らが魔王様」
「よし、んじゃあ今日も元気に働きますか」
この日、自分が一生大切に抱いていく言葉がまたひとつ宝物となった。
「ところで、書類の山は減っていないようですが」
「あー、署名を終わらせたのがこっちで、そっちは……」
「どこの誰に渡せばいいのかが分からない書類ですね。言ったでしょう、グランバルド。あなたはよくやっている、と」




