16.一難去って置き土産
何も置いていない机に体を預けているのは、魔王様。少々どころでなく、かなり姿勢は悪いけれどこの場にいるのは魔王様のほかに自分とヴェルメリオのみ。それを咎めるような者は誰もいない。
それに、指摘するのであれば自らの姿勢を正してからになるだろうが、自分もヴェルメリオもソファーに体を預けて力を抜いている。そんな中で声を上げることなどしないだろう。
それくらい、先ほどまでの仕事は精神的にも体力的にも、消耗していた。ずっとこうしているわけにはいかない、と力を振り絞るように立ち上がってお茶の準備を始める。
カチャカチャという音に気付いた魔王様が、のろのろと顔を上げた。
「疲れたなあ……」
「お疲れさまでした、魔王様」
いつもよりも時間をかけて用意したお茶を、魔王様の前にそっと置く。茶菓子も用意できればよかったのだが、しばらく城を空けていたうえに戻る日程がいまいち分からなかったので、厨房もちょうど試作の菓子を切らしてしまっているそうだ。
今では魔王様からの改良点もあまり上がらなくなった菓子は、厨房のシェフたちが急いで作ってくれている。
ちょっとだけぬるめで用意したお茶は、魔王様に喜んでもらえたようだ。飲んでからほっと吐き出したい気がいつもより長いのは、無意識だろう。
「グランバルドだって疲れただろ?」
「いえっ、自分は……!」
「こういう時に強がっても損しかないですよ、グランバルド」
背後にあるソファーに体を預けたままのヴェルメリオは、その体勢のまま動くつもりはないらしい。先ほどまで自分も同じ体勢だった時にはとても心地良かったので、動きたくない気持ちはとても良く分かる。
けれど、一番疲れているのは魔王様であるのは間違いない。ならば、側近として自分は少しでも魔王様の疲れを取れるようなことをしなくてはならないだろう。
「ヴェルメリオはもう少し自制した方が良いと思いますが」
「会談の場ではきちんと職務を果たしましたよ。この場でなら多少気を抜いても構わないでしょう?」
「構わん構わん。ほら、グランバルドも休め。あんな気を張る場に出たんだからな、
お茶、用意してくれてありがとな」
ほら、と魔王様が先ほどまで休ませてもらっていたソファーを示す。お茶の用意を続けようと思っていたのに、お礼まで言われてしまっては引き下がるしかない。
ヴェルメリオのように職務を果たしたと言い切れるほど、果たして自分はあの場に相応しい姿で立てていただろうか。気持ちが落ち込みそうになったが、きっと体の疲れに引っ張られているだけだろう。魔王様のお言葉に甘えて、自分も休ませてもらおう。そう思って飲み終わったお茶の器だけでも片付けておこうと手を伸ばす。
自分が机に近付いたのとほぼ同時に、魔王様が立ち上がる。何か欲しいものでもあったのだろうか。
「人族の王との会談ですから、そりゃ気を張らない方が……って魔王様?」
「ん~?」
棚に寄って行った魔王様は、ふらりふらりと頭を揺らしている。それだけではない、どことなく足取りも覚束ない。棚に近付こうとしているのにその場でたたらを踏んでいるような、そんな魔王様を見て思わず声を荒げてしまう。
「ちょ、ヴェルメリオ! 魔王様押さえて!」
「そんなおぼつかない足取りでどうしました、魔王様?」
「どうしたって、疲れてるグランバルドをソファーにだな……」
ソファーに体を横たわらせて脱力していたのに、自分がその名前を呼んだ瞬間に即座に立ち上がって魔王様の体を支えているヴェルメリオの反応速度には、さすがと言う他ない。
柔らかく、けれど倒れないように確実に魔王様の肩を支えているヴェルメリオは、さりげなくベッドのある方へと誘導を始めた。
「ソファーどころか、ベッドを必要としているのは魔王様ですよ。さ、こちらで休みましょう」
「ベッド? 俺じゃなくて……」
「俺、ですよ。必要なのは。まさか、自覚されてないのですか?」
執務室とドア一枚で繋がっている部屋を用意しておいてよかった。必要ないかもしれないと思ったけれど、いつでも休憩できるようにとベッドを準備しておいてよかった。
ヴェルメリオに支えられてようやく歩けているような魔王様を、必要以上に移動させることなく休ませることが出来るのだから。
「顔真っ赤じゃないですか!」
「真っ赤? あれ、いつの間にグランバルドが分身して?」
だらりと机に体を預けていたのは、疲れだけではなかったのか。どうしてこんな明らかに体調を崩している様子なのに、気づけなかったのか。疲れて腕を動かすのにも億劫だと思っていた気持ちなど、どこかに吹き飛んだ。
熱が上がったのだろう、自分が二人いるなんて言い出したのだから。真っ赤な顔をした魔王様に休んでもらうために、速やかにベッドに入っていただかなくては。
「しておりませんよ。グランバルドにそんな高度な魔法は使いこなせませんから」
「ヴェルメリオ、この件が終わったら詳しく話そうじゃないか」
さらりと告げたヴェルメリオに思わず出た言葉は、魔王様の耳には届かなかったらしい。いつもだったらこのような言葉遣いをした自分を見て、きっと目を丸くされるはずなのに。
熱に浮かされてぼんやりしているのだろう。ヴェルメリオが介助するままにベッドに入った魔王様は、少し息を荒げていて苦しそうだ。
「医師を呼んできますね。グランバルドは魔王様の看病をして差し上げてください」
「あっ! おいヴェルメリオ!」
それだけを言い残したヴェルメリオはさっと執務室を出て行った。追いかけて文句の一つでも言ってやりたかったが、こんな状態の魔王様を放っておけるはずもない。
まだ不慣れな魔法だが、水を使うことは少し練習をしている。ひとまず自分のハンカチを冷やしてそっと魔王様の額に乗せる。
治癒の魔法が使える医師ならば、きっと魔王様のこともすぐに治してくださるだろう。その魔法を使えない自分が、歯がゆいけれど。
「魔王様、こちら飲めますか」
「ん……」
急いで執務室に置いてあったお茶を持ってくる。魔王様が何を欲しているのか分からないけれど、冷やしたハンカチを額に乗せた時には、ずいぶんと気持ちよさそうな表情をしていた。ならばきっと冷たいものはあったほうがいいはずだ。
先ほどのぬるめに用意したお茶よりも冷やしたけれど、どうやら問題はないようだ。
半分寝てしまいそうに閉じている目を少しだけ開いた魔王様は、おいしそうにお茶を飲んでくれた。そうしてまた体をベッドに戻して、額にハンカチを乗せる。
「大丈夫です、すぐにヴェルメリオが医師を連れてきてくださいます」
それだけしか言えなくて、ヴェルメリオが戻ってくるまでただただ、ハンカチを冷やし続けた。




