任務了解
話はそう難しくはない。
結婚の話が舞い込んだのは、軍の秘密機関を辞職して間もなくの頃だった。
秘密機関員として問題を起こしたことはないし、起こしそうになったこともない。つまり、すべての任務を完璧にやり遂げた。
自分ではそう思っている。
「冷血将軍」は、わたしが秘密機関に所属した当初からの直属の上司である。
当初、彼は下級将校だった。
それがどんどん出世し、あっという間に将軍のひとりになった。将軍になってからも、いくつもの戦争においてわが国アルドリッジ帝国を勝利に導き、戦後処理も完璧なまでに行った。
「冷血将軍」という彼のふたつ名は、彼が冷酷非情だからという理由だけでつけられたわけではない。そのスマートさを讃えられてのものなのだ。
彼のことはともかく、秘密機関の存在は、軍の中でさえ謎めいている。
諜報部のさらに上をいく組織。
他国自国問わず、あらゆる調査や工作を行う。
わたしはその組織の一員として、数々の任務をこなしてきた。
「冷血将軍」とは、任務上の最低限の付き合いしかなかった。
つまり、彼はわたしに指令を下し、わたしが彼に報告をする、という関係である。
それだけの関係である。
彼から与えられる指令のほとんどが、過酷すぎて危険すぎて汚すぎる。
肉体的精神的にダメージが大きいのは当然のこと。
この前の戦勝終結を機に、引退することにした。
肉体的精神的に疲弊しきっているのは当然のことながら、ふと虚しくなった。
嘘と暴力と猜疑に塗りかためられた世界にいることが。
ふつうのレディになりたい。人並みの生活をしてみたい。やさしくて真面目で正直な男性と家庭を築き、子どものニ、三人を産み育てたい。年老いたら孫たちの面倒を見、穏やかな死を迎えたい。
そんな他愛のない夢や将来を思い描くようになったら、秘密機関員はおしまいである。
だから、引退を決意した。
貯えはある。充分すぎるほどに。
しばらくは働かなくてもやっていける。
まずはのんびりする。睡眠と読書と料理に夢中になってみてもいい。
それらに飽きたら、働き口を見つける。
辞職を申し出てから、あっという間にあらゆる手続きを終えて無事辞職出来た。
帝都から離れ、田舎に行った。
ある町の長期滞在者用の宿舎に落ち着いた。
が、それも長くは続かなかった。
退職して三年は居場所を知らせる必要がある。
そんなこと、仮出所者よりもひどい。
というわけで、居場所は知られている。呼び出すのはたやすい。
わたしを呼び出したのは、「冷血将軍」だった。
呼び出しに応じないわけにはいかない。そういうルールだからである。
指定場所は、軍の駐屯地や軍の本部ではなかった。
帝都にあるレドモンド侯爵家の屋敷だった。
そこで告げられたのである。
「結婚して欲しい」
そのように。
しかも書面で。というか、指令書で。
それを読んだあと、いつもの習慣でその指令書を裁断するところだった。
危なかった。
その指令書にはまだ続きがあった。
「妻という肩書でわが侯爵家領に潜入し、侯爵家ならびに侯爵領で行われている不正を暴いて欲しい」
内容は、簡潔に書かれていた。
「報酬は望むまま。妻役としては、好き勝手にやっていい」
とも書かれていた。
(ちょうど暇を持て余していたし、金貨はどれだけあっても困ることはない。働こうかと思っていたから、この条件はいいかもしれない)
ウエイトレスやメイドの仕事を探そうと考えていた。
だれにも過去を知られない為には、あらやゆることを偽るしかない。
だれにも過去を知られてはいけないこともまた、退職時に課せられた条件のひとつである。
もっとも、今回は雇い主である将軍に気兼ねする必要はない。
しかも、仕事の内容は自分の得意の分野である。
なにより、将軍に興味がある。
あの「冷血将軍」が、まさか私事で仕事の依頼をしてくるとは。しかも、「結婚」というまったく想像のつかない誘い文句で依頼してきた。
これは、のらない手はない。
というわけで、そうたいして考えずに引き受けることにした。