其の十一 参の残影・虚湖
時間、不明。場所、不明。
目を開けたとき、虚無の上に立っていた。足元には、どこまでも広がる蒼白の空。四方も、頭上も、同じく白く、何もない。
この広大な世界には、他の存在が一つとして見当たらない。まるで、とうの昔に壊れ果てた、異形の世界そのものだった。
――じゃ、僕は?
この間違った世界に取り残された、ただ一つの「間違い」なのか?
それとも、僕一人のために用意された夢の中で、沈み、彷徨う迷子なのか?
あるいは、この果てしない墓場で、自分の終わりを待つ「死にゆく者」なのか?
…いや。わからない。何も、思い出せない。
僕は誰だ?今、どこにいる?何をしようとしている?どこから来て、どこへ行く?そして、この手の中にある硝子玉は、何だ?
生まれたばかりの赤ん坊のように、自分自身に問いかけた。誰もが知っているようで、実は誰も答えられない問いを。
何も知らない。
僕は神じゃない。観測者でもない。ただ「生きている物体」として、この蒼く虚ろな世界に、たった一つだけ残された存在。
感じ取れるのは。
時が、ひとつ、またひとつと過ぎていくその流れだけだった。
五秒が過ぎた、その瞬間だった。
すべての記憶が、怒涛のように魂へと流れ込んできた。
時間、三四八七年・土戊月。
場所、蘭空家の屋敷。
名前、蘭空祈。
任務、悠希と悠寧の『心界』魔法のテストに協力すること。
ああ、思い出した。全部、はっきりと。僕は、双子が作り上げた不思議な装置を通じて――「心界」という存在の中に入った。
双子の説明によれば、心界とは、ひとりの人間の精神世界が具現化されたもの。
あらゆる抽象的で、曖昧で、虚ろだった「心」の情報が、現実のように、視覚化され、物質化されるという。
そう、彼らは完成させたのだ。悠希と悠寧、神秘学の知識に長けたふたりの子どもが。
とはいえ、彼らの発明は、機械でも武器でもなかった。それはむしろ、儀式と呼ぶほうがふさわしいものだった。
そして僕は、その実験の最初の被験者となった。
…幸運であり、不運でもあった。
半分は疑い。あの年齢でそんなものが作れるなんて、信じられなかった。もう半分は好奇心だった。僕、蘭空祈もまた、知りたかったのだ。自分の心の中には、一体どんな風景が広がっているのか。
長年にわたって、僕はずっと戦い続けてきた。駆け引きに忙殺され、生き延びることに必死だった。
傷だらけの心。ボロボロになった内面。そんなものを、考える余裕すらなかった。
でも今、僕は。
演者であり、観測者であり、夢の創造者であり、夢を彷徨う者でもある。
誰の助けもなく。ただひとり、この心の世界の果てを目指して、歩き続けるのだ。
――おーい?悠希、聞こえるか?
手の中の硝子玉に向かって、大きな声で呼びかける。
今の僕の本体は、蘭空家の屋敷で眠ったまま。ここにいる僕は、心界へとダイブした意識体。つまり、自分自身の夢の中にいるようなものだ。
だからこそ、この手に持つ玉こそが、現実世界に残った双子との唯一の通信手段だった。
「……」
返ってくるのは、ざらついた雑音と、かすかな声。でも、何を言っているのかは聞き取れない。
…なるほど。さっそく最初のトラブルってわけか。
とはいえ、心界への侵入そのものは、ちゃんと成功しているようだ。
目を閉じる。
そして、もう一度。開く。
虚無の世界が、静かに消えていった。空間も、時間も、すでに「心界」へと完全に上書きされている。
耳元に、微かな風の音がした。どこか遠くから吹いてくる、優しい風が、澄んだ青空をなぞっていく。そして、風が止み――世界は、音を失った。静寂の中で、ひとつの光景が視界に広がっていく。
それは――巨大な湖。
果てのない水面が、遠くの丘の彼方まで続いていて、境界線すら見えない。きらきらと輝く波の面は、まるで宇宙のプリズム。夜空を丸ごと映し出すように、星々が湖に揺れていた。
目を閉じれば、微かなさざ波が、音楽のように聞こえてくる。ダイヤモンドが奏でるしずくの旋律。その調べは、静かに、湖の奥へ奥へと広がっていった。
湖畔には、銀色の珊瑚群。水面から顔を出したそれらは、どこか雪山のように真っ白で。澄みきった湖水の中に、銀の斑がゆらゆらと映り込んでいた。
遠くの地平には、連なる土の丘が見える。低く丸い山々を、緑の草が這うように覆っていき、やがて一面が、濃く深い緑で塗りつぶされていった。
すべてが――この「心界」と呼ばれる幻想の中に、僕の心が、形を持って現れた風景だった。
――ふふ、悪くないじゃん。僕の心。湖。
まあ、波乱万丈とか、英雄譚とか、そういう派手さはないかもしれない。でも、これだけの湖があれば、心が洗われるような気持ちになる。
正直、僕みたいな卑屈で、歪んでて、毎日生き延びるために必死な人間に。こんなにも穏やかで、調和の取れた心界があるとは思ってなかった。
蘭空家での新しい暮らしが、僕を変えたのか?それとも、元から僕の心は、こうだったのか?
わからない。
でも、ただひとつ確かなことは、この美しい湖を目の前にして、僕の身体は自然と震え、その震えの中に、隠しきれない喜びが滲んでいたことだ。
心の奥から溢れる。本当の、嬉しさだった。
う、さむっ。なんか寒くないか。てか僕、今なに着てんだ?まさか、裸!?
慌てて自分の身体を見下ろす。
そこには、空気で膨らんだ風船みたいな、透明で白っぽい輪郭だけがあった。
なるほど、これなら服着てるかどうかとか、どうでもいいや。
「…もしもーし?」
手の中の玉が、かすかに明滅していた。その光の揺らぎに混じって、小さな声が聞こえてくる。
――おおい?悠希か?
「…あ、星?意識を感じられてよかった。そっちはどう?」
男の子の声。悠希だ。
――バッチリだよ!正直言って、実験は大成功だったって認めるしかないね。想定どおり、僕はちゃんと自分の「心界」にいる。
「うん。私たちの位置からは、『新世界』を通して、星の心界の様子、ちゃんと見えてるよ。そして星自身の姿もね。」
今度は、悠寧の声。
なるほど。
あの子たちがいつもいじってる、占い用の水晶球『新世界』ってやつ――あれ、リアルタイムで僕の状態をモニターできるってわけか。
いや、まあ、嬉しいっちゃ嬉しいんだけど。正直、ちょっとだけ複雑な気持ちもある。だってさ、自分の心の中って、あんまり人に覗かれたくないじゃん?
ほんとは、この世界をひとりでのんびり楽しむつもりだったのに。
まあいいか。悠希と悠寧がいなきゃ、そもそもここに来ることすらできなかったわけだし。
――ってことで、僕は僕で、ここを満喫させてもらうよ。我が心の楽園。もうちょっと遊ばせて!
「うん。でも、心界は安定した構造とはいえ。夢と同じで、いつ混乱や予期せぬ展開が起こるかわからない。だから、十分注意してね。もし現実に戻りたくなったら、手に持ってる玉を、砕いて。わかった?」
――砕くって?はは、冗談だろ。こんな楽園、そう簡単に捨てるもんか。もうしばらく、この湖の中で、心のままに漂わせてもらうよ。
この世界、ちょっと寒いけど。でも、この夢みたいな景色を前にしたら、そんなの大した問題じゃない。
周りを見渡しても、他には何もなさそうだし。だったら、あのいちばん高そうな丘に登って、草の上でごろーんと寝転がろうかな。
はっ。どうやら僕がこの水晶球を割らない限り、悠希と悠寧には、僕を現実に戻す手段はないらしい。
一日?一年?数百年?ここに滞在する期間なんて、どうとでもなる。
僕のユートピア。
ここに沈んで、ここに漂って。もう現実になんて、戻らなくていいかも。
…まあ。本当にそうしたら、ヒカリや悠奈に会えなくなるけどな。みんなもこの世界に入れたら、もっと楽しいのに。
…そういえば。
…ん?
あの湖の上、誰か…歩いてる?
湖の中。たしかに、誰かがいた。穏やかな水面の上を、静かに歩いていた。
目を凝らして見ても、その姿はぼやけていて。
無数の星々と、宇宙の粒子で形作られたような、光に満ちた「人の輪郭」しか見えなかった。
たとえこうしてお互いを見つめ合っていても。たとえ、僕との間に広がるのが、たった一面の湖だけだったとしても。
…なぜだろう。
その人は、絶対にこちらへ来ない。そして僕も、絶対にあちらへは行けない。
そんな予感が、時間とともにじわじわと意識の奥へと染み込んでいった。
目の前には、ただ広がる湖。その深さは、僕にはわからない。
僕は、岸辺に立ったまま、一歩も踏み出せずにいた。
…行けない。そう思っている。
なのに、心のどこかで、誰かがささやく。
「追え。行け。確かめろ。あの輪郭のそばへ。」
けれどその声は、すぐに嘲笑うように続ける。
「無理だ。どうやっても届かない。渡れない。」
その声は何度も、何度も、何度も繰り返された。
そして、ある瞬間。その声は、はっきりと僕の中で「真実」として確信に変わった。
僕は、決してあの彼岸には届かない。
遥か彼方。とてつもなく遠くて、触れることすらできない距離。その想いが、僕の心に冷たい壁をいくつもいくつも築いていった。
なぜだろう。
どうして僕は、そんなふうにしか思えないんだろう。
俯いた視線の先。足元の湖面は、ただ静かに、何も語らず揺れていた。
まるで、それ自体が越えられぬ断絶であるかのように。
思考が霞みはじめた、その一瞬。
足元の草原が。突如、きらめく水面へと姿を変えた。
いつの間にか湖岸は数メートルも後退し、僕の身体は湖の真上に浮かされていた。
そして、次の瞬間――
「ばしゃっ――!」
何の前触れもなく、湖へと落ちた。
飛び散る水飛沫は、琉璃の蝶。空へ舞い上がり、光を弾いて消えていった。
全身が、瞬時に凍りつくような冷たさに包まれる。
体が動かない。目も、開けられない。
想像もしてなかった。この湖の水が、ここまで冷たいなんて。
たとえ流れが優しくても。たとえ僕の体を静かに支えてくれていても。たとえ、水の音が、誰かの囁きのように柔らかくても。
それでも、この湖水には、一片の温度さえなかった。
水温は刻一刻と下がっていき、四肢を切り離そうとするかのように、冷たく、重く絡みついてくる。
ここは心界。意識の中の世界のはずなのに。魂を貫くようなこの痛みは、まぎれもない本物だった。
声を上げて叫んだ。
助けを求めて。現実世界にいる、誰かの反応を信じて。
だが、氷に包まれたような硝子玉から聞こえてきたのは、ぷつぷつと途切れる、掠れたノイズだけだった。
それでも、全身の痛みに耐えながら、必死に水中を泳いだ。空気を孕んだ魚のように、銀白色の、透き通った僕の身体を、少しずつ、湖面へと向かって押し上げていく。
…空だ。
あの上に、空がある。
あと少しで、湖の向こうに広がる空が、もう一度見える。
――ぶはっ!!!
頭が、水面を割った。飛び散った水滴は、まるで凍てついた涙のようだった。
そして、目を開けた。
青空はない。芳しい草原もない。美しい丘も、銀白の珊瑚も、もうどこにもなかった。
真実の姿をあらわにしたこの世界は、ただ、荒れ狂う白い霧に包まれていた。
吹き荒れる風が、剃刀のように僕の身体を叩きつける。太陽の影すらなく、あるのは、霧に喰われて滅びかけた光の欠片だけ。
湖。
そこにあったのは、変わらず湖だった。けれど、もうそれは湖ではなかった。
一面、凍りついていた。蒼白の氷が世界を覆い、その下には、無数の紅い鯉が閉じ込められていた。氷の中で、色を失い、宝石の彫刻のように、永遠に静止している。
死神が通り過ぎた後のような、音のない終わりの湖。
『虚湖』。
――くそっ、このままじゃ!本当に死ぬ。何か、何かしなきゃ!玉、玉を…今、砕けば!
そう思って俯いた瞬間、凍結した湖面が、僕の首を飲み込んでいた。
頭だけが氷の上に出て、妙な角度で空を見上げていた。灰色に濁った空。どこまでも遠く、どこまでも寒い。
身体はすべて、氷の下に沈んでいる。動かない。息も、声も出ない。
硝子玉は、氷塊と一体化していた。二度と切り離せない運命のように。
――だめだ…。
悠希と悠寧は言っていなかった。「もしも自分の心界で死んだら、どうなるのか」なんて。
これはただの夢なのか?死んだ瞬間、目を覚まして、「ああ、無事でよかった」って笑えるのか?
それとも。本当に死ぬのか?この心界の中の僕も、現実世界の僕も。どちらも、永遠に目を開けないまま。
…怖い。
…後悔してる。
…あたたかい家に帰りたい。
…ヒカリや悠奈のそばに、帰りたい。
ふ。もう身体が完全に凍って、震えることすらできない。
銀白の虚ろな身体から、ひとしずく、涙が流れた。けれどその涙も、瞬く間に凍り、砕けて散った。
――寒い…ほんとうに、ほんとうに、死んじゃうのか。
少しずつ、身体が硬くなっていく。少しずつ、温度が奪われていく。
そして。
白い霧の中に、あの星空のような人影が、再び現れた。
けれど、やはりその姿は見えない。僕の目に映るのは、ただ夢の中のように、幻想的で、壮大な星々の輝きだけだった。
――たすけて…
凍えた声で、彼に呼びかける。
どうか。どうか、少しでもいいから、何かをしてほしい。
そのわずかな願いさえも、氷の冷たさに閉ざされ、息を呑むような静寂の湖面へと散っていった。
彼は、ただ僕を見ていた。動かず、近づかず、何も言わず。
その身体の中で、無数の星々と宇宙の欠片がぶつかり合い、砕け散り、鈴のように澄んだ、高く鋭い音を響かせる。
新しい世界が、いま誕生しているかのように。
――たすけて…お願いだから…
いつの間にか、僕の声を聞いていた。
星々でできたその人影が、ゆっくりと、こちらへ歩み寄ってくる。
やがて、僕のすぐそばまで来ると、彼は立ち止まった。何もせず、何も言わず、ただそこに立ち尽くしていた。
星空。
言葉にならないほど、美しい星空だった。壮大な葬送の儀を見届けに来た旅人のように。
「我に…何の関わりが。」
交差する星河のざわめきの中で、彼の声が聞こえた。
――な、に……?
「我に…何の関わりが?」
その瞬間。突如として叫び出した。
「あああああああッ!!!」
彼の内側で渦巻いていた星々が、狂ったように回転を始める。
星が砕け、物質が消滅し、すべてのものが無限の速さで崩壊と生成を繰り返していく。
「――ああああああああ!!!」
次の瞬間、体が爆ぜた。全ての星河が、一点の特異点へと収束し。そして、宇宙の誕生のように爆発的に拡散した。
世界を塗り替えるほどの衝撃。虚構が現実を押し潰すほどの力。
けれど。湖は、そこにあった。
『虚湖』は、そこにあった。
白い霧が、溢れ出した星河を静かに呑み込んでいく。轟音すら、凍りついた湖水の中に吸い込まれ。世界は、再び、静寂に包まれた。
その星空の消滅を見届けながら、自分の命が終わりに近づいていくのを感じていた。
視界が、暗く染まっていく。もう、これ以上この寒さには耐えられない。
体温が失われていく。意識が、ゆっくりと遠ざかっていく。
――さよなら。さよなら、僕の「心界」。
最後の力を振り絞って。心界に、湖に、別れを告げる。
そして、そっと目を閉じた。
星の光が、白い霧の中で消えていく。霧が、やがて黒い闇の中に溶けていく。
僕は目覚めるのか。それとも、このまま、永遠の眠りに落ちるのか。
わからない。
でも、湖は、そこにあった。
『虚湖』は、ずっと。
そこにあった。




