其の七 弐の残影・野良星
三四八六年、星癸月・第四の火丁日。真冬の午後。
屋敷の最上階、あの古びた屋根裏へ。鉄製の螺旋階段をぎしぎしと登っていって、低くて豪華な木の扉をそっと開けた。湿ってて、ちょっと埃っぽくて、でもどこか懐かしい――そんな木の匂いが、ふわっと鼻をくすぐる。
……なんか、落ち着く。
どうせ誰もいないと思ってた。けど、いたんだ。星の光みたいにきらきら輝く、あの光の中に――小さなふたつの影が、浮かび上がってた。
「誰か、入ってきた?妹。」
ふわっとしたピンク色の短髪。男の子が、こちらを振り返る。
「誰か、入ってきたみたい。兄さん。」
今度は、長いピンクの髪の女の子が、振り返る。
――えっ…ご、ごめん。まさか誰かいるとは思わなくて……あの、僕は――
「知らない人?」
男の子が僕の言葉を遮って、女の子を見る。
「知らない人、だね。」
女の子が、男の子を見る。
――えっと、その。僕は…祈、だ。
「星?星だな。」
男の子が訊く。
「星。やっぱり星だよ。」
女の子が答える。
「みて。『新世界』が、ちゃんと予告してくれた。星が来るって。」
女の子が、光を放つ水晶球を指さす。
「ああ、やっぱり。星だ。」
男の子が、こくりと頷いた。
――あの…?
『地獄の魂霊のルーンは冥泉の花びらに書かれ、七と四分の三の角度で回転する。人形は血肉を交換し、黒き太陽を地平線から奪い取る。偽りの雛鳥の嘘は山脈を追放し、宇宙に反射した死光は、血涙の瞳に哀悼を捧げる。そうだろ、妹?』
『異界より来た古の秘文は、蒼白の伝説を断頭台に捧げる。無垢な雲の胸腔で、輝く種が罪の花を咲かせる。高き壁は凝結し、殉教者の卑劣に溜息を吐く。四方の羅針盤を逆回転させ、不滅の王は法の庭に葬られる。そうだね、兄さん。』
「どうも、星。蘭空悠希、霊媒師。」
少年が立ち上がり、僕の方を向いて、少しだけ首を下げた。
「どうも、星。蘭空悠寧、占い師。」
少女も立ち上がり、僕に向かって、静かにお辞儀した。
――あ、えっと、どうも…あの、ここって……
「ねえ、妹?」
「うん、兄さん。」
「星は――侵入者かな?」
「星は――侵入者だね。」
「侵入者は、本来ここにいてはいけない。僕が星を、天から引きずり下ろすべきかな、妹?」
「侵入者は、ここにいてはいけない。そうだね、星を静かな湖に投げ込もう、兄さん。」
おかしい。この二人、急に何かに合意したみたいに、ぴたりと視線を交わし――そして、こくりと頷き合った。
次の瞬間。二つの視線が、同時に僕を射抜いた。
少年の目には、静かな怒りの中に――確かに、残酷な殺意が宿っていた。
少女の目には、冷たい拒絶の奥に――はっきりと、敵意があった。
――は、はい…わ、わかった。ごめんなさい、ごめんなさい。失礼…
まぁ、そうだな。この屋根裏は、もう二人の「秘密基地」なんだ。僕みたいな外から来たやつなんて、歓迎されるはずない。
ちゃんと察して、僕はぺこりと頭を下げて、そっと扉を閉めて階段を降りる。
そして。
階段の下で、ある少女が、僕に手を振っていた。
――…蘭空。
「も~う、何度も言ったでしょ?『悠奈』って呼んでいいのよ?もちろん、『お姉さま』って呼んでくれたら、もっと嬉しいけど?」
――うん。…ゆ、悠奈。
「ふふっ、そんなにかしこまらなくてもいいのに~。これからは、私たち――家族になるんだから。」
やわらかい笑顔が、彼女の顔に咲いた。そして、ぱたぱたと駆け寄ってきたかと思うと、僕の手をそっと握ってくる。
「祈、さっき…悠希と悠寧に会ったんでしょ?」
――はい。見ての通り、追い出された。
「ぷっ」
――はぁ…
思わず、ため息がこぼれた。
やっぱり…来たばっかりなのに、もう嫌われたかもな。まあ、蘭空家に拾ってもらえたおかげで命は助かったけど――でもなんだろう。どうしても、胸の奥がちょっと寂しくなる。
「もう、そんなに気にしないの。悠希と悠寧、別に悪い子じゃないのよ。あの子たち、まだ七つ八つだから、ちょっと変なことするのが好きなだけ。子どもの世界って、そういうもんよ。」
――って言っても、僕もまだ十一歳なんだけど。
「祈は私より一つ年下なだけで、全然子どもっぽくないんだもん。うーん、むしろ『大人』って感じ?かっこいい!」
僕は小さく笑った。苦笑、ってやつかな。
…まあ、わかんないだろうな。
毎日をお気楽に過ごしてる貴族の人たちには、きっと僕のことなんて理解できない。
生まれたときから捨てられて、生きるだけで精一杯だった僕みたいな人間のことなんて。この世界からの優しさを、ちゃんと受け取れたことなんて、たぶん一度もない。きっと、そのせいで心も…ずいぶん前に、年を取っちゃったんだ。
…でもまあ、悠奈には悪気はないし。少なくとも、彼女の優しさは――嘘じゃない。
だから、僕もちゃんと向き合おう。この「新しい姉さん」に、ちゃんと優しくしてあげようって、そう思った。
「そういえば、祈はどうして屋根裏に行こうと思ったの?」
――ああ、そのことか。話すと…ちょっと長いよ。実は、昔。暮光城にいた頃は、ずっと屋根裏で暮らしてたんだ。
そう。星野孤児院を出て、いろいろ苦労して――
やっとのことで、霧間伯爵家の坊ちゃんのご機嫌を取ることに成功してさ。それで、彼の「専属の従者」として屋敷に住み込みで仕えることになったんだ。
「彼らは皆、愚か者だぞ!俺の偉大なる計画を理解しない。でも君は違う、祈。君だけは俺を理解してくれる!そうだろ!」
……まあ、正直言うと、僕も魔法使いそっちのけで弓とかクロスボウをいじってるのって、どうかと思ってた。
けど僕は、ただただ完璧に。坊ちゃんの「心の中」を理解してるフリをした。坊ちゃんのために働けるのなら、僕はなんだってやります。
「うむ!では、弩の作り方を教えてやろう。たった一度だけしか教えないから、ちゃんと覚えろよ?」
――全力で、がんばります。
「よろしい。今日の雑務を全部終わらせたら、夜までに弩の矢を最低でも二十本作っておけ。明日の朝、庭で新型弩の威力を試すぞ!」
――了解です、坊ちゃん。
…はぁ。
今思えば、あの日々は。不幸だったのか、幸運だったのか、もうよくわかんない。
たしか、あの晩は、僕一人で三十五本の矢を作ったんだよな。指の皮が擦り切れて血がにじんで、夜中の一時まで作業して。最後は「『霧間瞳』って、クソ野郎!」って悪態つきながら、泥のように寝落ちした。
翌朝は、わざとらしく笑顔で、瞳の新兵器完成を祝ったよ。坊ちゃんは、本気で喜んでた。けど、僕は内心ずっと罵ってた。
……まあ、全部。もう過去のことだ。
瞳は死んだ。
『暮光城』は滅んだ。
赤月が、あの空を覆った。
つまり、あの頃のことは。もう、僕には関係ないんだ。
霧間家のことなんか、考える必要もない。今、僕が向き合うべきなのは、僕の「新しい家」――蘭空家だけだ。
――ってわけ。だから、屋根裏に来たのも、ただのクセだよ。前からそうだったから、なんとなく落ち着くってだけ。あっ、もちろん! 蘭空家にもらった部屋は最高で…前の屋根裏なんかより、何百倍も快適で。ぜんぜん、不満とかじゃないからね!
「もー、祈はそんなに気を使わなくてもいいのに~。そのうち、ここでの暮らしにもきっと慣れるよ。」
――はい、がんばるよ。ところで、悠奈。その…僕はいつから「就任」すればいいんだろう。蘭空様、いや、偉大なる蘭空家に仕えるために。
僕は至って真面目だった。けれど、目の前の少女は、まるでおかしなコントでも始まったかのように――ぷっと吹き出して、笑い出した。
…強く湧き上がってくる嫌な感情を、なんとか押し殺して。僕はただ、まっすぐに悠奈を見つめていた。返事を、待ちながら。
「祈くん、君はさ……最初から言ってるでしょ。今の君は『蘭空祈』。お父さまの息子で、おじいさまの孫で――私の、大事な弟なの。つまりね、祈はもう蘭空家の「家族」なの。働きに来た使用人なんかじゃないんだよ?」
…うん。わかる。
悠奈は、何も偽ってない。
彼女が言った言葉は、たぶん、そのまんま彼女の本心なんだろう。
…ほんと、いい貴族だなって思った。この「ひどい世界の貴族たち」の中で、ほんのわずかに存在する、「ちゃんとした人」。
もしかして、考えを少し変えた方がいいのかもな。もしかして、蘭空家のみんなって――本当に、いい人ばっかりなのかも?
…いや、違う。待て。待って。まだ早い。
油断は禁物だ。何も、終わってない。だからこそ、僕は――信じちゃいけないんだ。
だって僕は、こんなにも脆くて、ちょっとした風で吹き飛びそうな、ただの「枯れ草」みたいな子どもだから。だから、いつも――ずっと、警戒してなきゃダメなんだ。
誰かの優しい言葉に、簡単に心を許したら、生き残れない。やり直しなんてできない。失敗は、許されない。
僕は、そうやって――
十一年間、生きてきた。
そう。だから今もまた、そうする。ふいに浮かんだ「嬉しさ」を、ぐっと押し殺して。
その代わりに、疑いと警戒心を、もう一度、脳の奥に引っ張り出してくる。
「ん~? なに考えてたの、祈?」
――あ、やば。気づかれた…いや。なんでもないよ!ちょっと、嬉しくて。ありがとう、悠奈。
「ふふっ、いーのいーの。これからは、私のほうこそ祈に頼っちゃうからね?」
その声は、あったかくて。その笑顔は、あかるくて。
ピンク色の少女は、まるで、ぽかぽか燃えてる炎みたいだった。それでいて、ふわりと香る春の花みたいに、優しくて。
「そうだ、祈。さあ、行こ?兄さんが待ってるの。」
――はい。
二階の廊下をずっと奥まで進んで。その突き当たりにある部屋の扉を、そっと開けた。
一気に、異様な空気が流れ込んでくる。
大小さまざまな瓶や壺の中には、色とりどりの液体が満たされていて。正方形のガラス容器には、たくさんの死んだ動物たちの身体が液体の中に沈んでいた。
奇妙な金属の道具と機械が、巨大な作業台の上に乱雑に並んでいて。石みたいに分厚い本が十数冊、塔のように積み上げられていた。
さっき感じたあの匂い。きっと、この薬品たちが発する混ざり合ったガスの匂いなんだろう。別にいい匂いってわけじゃないけど、気持ち悪くなるほどでもなかった。
「ああ、来ましだ。」
ピンク色の髪の少年が、手に持っていたルーペを金属製のケースにそっと収める。
そして、小さなピンセットで、綿の布の上に横たわっていた虫の死骸を掴み、すぐそばのガラス瓶に落とした。虫は底まで沈み、彼は容器の蓋をきゅっと締めて、それを棚の隅に並べる瓶たちの列に置いた。
「祈くんですね。はじめまして。蘭空悠憫です。よろしくね。」
見た目はそれほど年上って感じじゃないけど、すでに声変わりしていて、どこか落ち着いてて優しそうな印象だった。
――祈。どうも、悠憫。
悠憫は、ちょっと驚いたようにまばたきした。そのせいで、笑顔が一瞬だけぎこちなくなる。彼は、悠奈の方をちらりと見た。まるで、何か説明を待ってるみたいに。でも妹のほうは何も言わず、ただ小さく頷いて、ぱちりと瞬きしただけだった。数秒の沈黙のあと、悠憫はまた穏やかな笑顔を浮かべた。
「よし。じゃ祈くん、前に話してた通り、健康診断をさせてもらうよ。」
「兄さんはね、将来の蘭空家の主治医候補なんだから。祈は安心して、言われたとおりにしてればいいの!」
――はい、わかった。あの。ていうか、ここ……
「どうした?」
――なんか…少し。懐かしい、ような?
懐かしさ。
理由はわからない。でも、確かにそう感じた。
絶対にここじゃないんだけど。どこかで、この雰囲気を見たような…気がした。
「懐かしい?ああ、祈くんがそう言ってくれるなんて、私としては嬉しいな。もし興味が湧いたら、いつでも遊びにおいで?医学って、とっても面白いんだから。」
――たぶん、ただの夢だったのかも。うん、なんでもないよ。
「そう。じゃあ、祈くん。準備ができたら始めようか。リラックスして、大丈夫だよ。」
十五分後、悠憫の研究室を出た。
正直、もっと怖い健康診断を想像してたんだけど。実際には、以前のケガの状態を軽く診てもらうだけだった。
まあ、大したことはない。脚にでかい裂け傷があるのと、腕の皮がごっそり剥けてるだけ。
僕にとっては、そんなの全然どうってことない。とにかく、暮光城のあの大災害を生き延びたんだから、それだけで奇跡だ。ちょっとくらいケガしたくらいで文句なんか言えないよ。
「結果はどうだったの?兄さん?」
「うん、大丈夫。祈くんは健康そのもの。何も問題ない。すぐに祖父さまへ報告してくるよ。」
そう言って、悠憫はどこからともなく、一枚の紙を取り出した。
そこには――びっしりと、何語かわからないくらいの流れるような筆記体が書かれていた。
――おい!いつの間に書いたんだよ!?全然気づかなかったんだけど!?
つい、素でツッコミを入れてしまう。
悠憫は一瞬きょとんとした後、吹き出して笑った。
「ははっ。これもお医者さんとしての基本スキルだよ?」
――それ、もう魔法じゃん。
「医者にとって、『医学』こそが『魔法』なんだよ。」
きっちりしてそうな雰囲気だった悠憫が、いたずらっぽく僕の肩をぽんっと叩いて、
ちょっと狡猾な笑みを浮かべた。
「さて、冗談はこの辺にして。私はこれで失礼する。悠奈、祈くんのことは任せた。」
そう言って、彼はさっと背を向けて、そのまま数秒で視界から消えた。
――おいおい。走ってもいないのに、なんでそんなに早いんだよ!これも「魔法」ってやつか!?
「ぷふっ」
こらえきれずに笑い出した悠奈。
「お医者さんって、そういうもんよ?祈もカッコいいって思ったなら、目指してみてもいいんじゃない?私の部屋に医学の本、たくさんあるから、いつでも貸してあげるよ。」
――いやいやいや。僕には、ちょっと異世界すぎ…
「ははっ、冗談だってば。さてと、行こっか。祈の部屋はまだお掃除中だから、まずは私の部屋に行こう。あ、そうだ。祈くんって――コーヒー、好き?」
――コーヒー?えっと……飲んだことないや。昔、瞳が飲んでるのを見たことあるけど、「めちゃくちゃ不味い」って言ってた。
「な、な、な、な、なにぃぃぃぃぃいいいいいいっっっっ!?」
さっきまであんなに優しかった少女が――
一瞬で、怒れる獅子に変貌した。
「それはダメ! 絶対にダメッ! なんてこと言うのよ!」
「祈、今すぐ私についてきて!今日こそは、世界一おいしい飲み物――『コーヒー』を、ちゃんと味わってもらうからね!ちゃんと!公平に!誠実に!その味を判断してもらうから!!」
そう叫んだ彼女は、くるっと背を向けて歩き出した。
走ってるわけじゃないのに、その一歩一歩がまるで巨人みたいに力強くて――風を割って進む戦士のようだった。
二、三秒ぼうっとしてたら、もう見えなくなりそうになってて――
さすが。あれも、「蘭空家」の魔法”ってやつかもな。
くそ。急いで追いかけろ、祈!
たとえ――たとえ瞳が正しかったとしても。今日は、絶対にこう言わなきゃいけないんだ。「う、うまい!コーヒーって…世界一おいしい飲み物だ!!」って。
…はは。
なんか、変だな。
貴族なんて、大嫌いだったはずなのに。他人なんて、警戒しかなかったはずなのに。
それなのに、なんか。少しだけ、楽になった気がする。
少しだけ、この人たちのことが、もう「当たり前」になってきた気がする。
…まあ、いいか。考えるのはあとで!
とりあえず、今は――
コーヒー、飲みに行こう!
十分後。
――ん…
一人きりで、悠奈の部屋のソファにぽつんと座って。手の中、空っぽになったコーヒーカップを見つめていた。
もう一杯、飲もうかなって思ったけど。コーヒーの淹れ方なんて知らないし、諦めた。
あの大きな本棚にずらりと並ぶ、精巧な装丁の本たち。一冊くらい読んでみようかなって思ったけど。うっかり汚したら嫌だし、それもやめた。
だから僕は、ただふかふかのソファに座って、じっと、流れる時間を感じていた。
――ちょっと、苦かったな。でも、もし角砂糖とか入れたら……きっと完璧だった。コーヒーは、確かにおいしかった。
それは、心からそう思った。本当なら――この気持ちを、悠奈にちゃんと伝えたかった。
だけど。
今、この部屋には僕ひとりしかいない。
…はぁ。
悠奈のやつ、本当にもう。せっかくコーヒー淹れた直後に、いきなり叫びだして――
「しまったああああああああっ!お祖父さんと約束してたんだった!二時までに魔法の勉強に行くって言ってたのに!」
「やばい、やばい!!!遅れたらマジで切腹しかないやつ~~~!!」
…とか言って、慌てて本と杖を掴んで。コーヒーを一気に飲み干して、そのまま――文字通り「風のように」出て行った。
――はぁ…暇。
こうなると、もう何すればいいのか、さっぱりだ。
そんなことをぼんやり考えていた時――
コンコン。
ノックの音がして、誰かがそっと扉を開けた。
「お姉様っ!!!!」
その声は、まるで宝石のように透き通っていて。心を撫でる風のように、やさしくて――
どこか、空の音みたいな、そんな声だった。
「ヒカリだよ!遊びに来ましたよ~、お姉様っ!」
そして。
初めて、彼女の姿をちゃんと見た。
それは。汚れひとつない、純白の光。
まるで黄金の太陽が、少女の姿になって現れたかのようだった。きっとこの世のどんなものよりも、眩しくて、まぶしくて。
そんな彼女が、何の前触れもなく――
突然、僕の世界に飛び込んできたんだ。
金色の少女。




