其の六 萌芽
晴れていて、ほんのり暖かい朝のはずなのに。僕の心の中は、まるで土砂降りの真夜中だった。
――お姉さま、我が偉いお姉さま!お願いだよ、せめて今朝だけはここにいさせて!お願いだっ!
このときばかりは、プライドも恥も全部捨てるしかなかった。「可愛い弟」モード全開で、なんとかお姉さまの前で甘えて、助けを引き出そうとする。
ゆっくりと、白い磁器のカップを手に取る。立ちのぼる温かいコーヒーの香りに、そっと鼻先を近づける。くん、と香りを吸い込んで、口元に小さな笑み。そして唇をカップに触れさせ、濃くて深い茶色の液体を舌の上に滑らせ、そのまま喉へと流し込む。
「ん…ちょっと苦いわね。」
眉をほんの少しだけひそめ、カップを小皿に戻す。テーブルの端に置かれたガラス瓶から角砂糖を一つ取り出すけれど、少し大きすぎて、また瓶に戻す。代わりにちょうどいいサイズの角砂糖を選び、コーヒーに落とす。真っ白な角砂糖が、静かに、音もなく、茶色の海に沈んでいった。
――クっ……
そう。悠奈の世界の中では、今この瞬間、可愛い弟「蘭空祈」はもう存在していない。
どんなに必死でお願いしても、彼女は完全に僕を「空気」扱い。
甘え作戦、完全失敗。頼れるお姉さまですら、今はまったく反応してくれない。僕はすっかりしょげ返り、ここ数日の悲惨な出来事が頭にフラッシュバックして、もう心が折れそうになる。
短い沈黙のあと――僕はついに、駄々っ子のように暴れ出した。
――あああ!僕を殺してくれ、殺してくれ!もう限界だあああ!!
半分は本気の心の叫び。もう半分は、見え透いた芝居だった。
「はいはい。もうコーヒーも用意して?祈の好みに合わせて、白雪角砂糖3つに、南山町名産の大麦ミルクをひとさじ。飲んでみて?きっと一日中ハッピーになれるよ。」
ううっ…。お姉さま、やっぱり優しい…涙が出そうなくらい感動した。
で。これで油断しちゃダメだ。悠奈を本気で折れさせて、僕をここに引き止めるには、まだ演技が足りない。
――今はコーヒー飲んでる場合じゃないだろっ!僕、今にも死にそうなんだよ!?お願いだから、お姉さま!この可哀想な弟を、救ってください…
「まったくもう、祈。たとえお姉ちゃんでも、自分の弟が無責任なのは許せないんだからね。」
や、やばい。この口調…「先生・悠奈」モードが、「姉・悠奈」モードを圧倒し始めてる。こうなったら、いったん静かにして、様子を見るしかない。
「そうだよね。風鈴の信頼できる仲間になるって、風鈴と一緒に訓練すると決めたのは――祈自身でしょ?ならば、簡単に逃げ出すのはダメよ。」
――うっ……。
優秀な先生であるお姉さまの、説得力抜群の一言に、何も言い返せなくなってしまった。
……はぁ。やっぱり、僕が悪いのかもな。ちょっとカッコつけすぎた。
蘭空家に引き取られて、貴族として生きるようになってから、僕はずっと「冷静で」「思慮深く」「自制的な」――そんな貴族らしい振る舞いを目指してきた。
もちろん、「途中からの貴族」ってことで限界はあるけど、それなりに様になってきたとは、自分でも思ってた。
だけど。あの不思議な少女と出会ってから。僕の中にずっと眠っていた、あの「本来の自分」が、少しずつ目を覚まし始めた気がするんだ。
理不尽で、原始的で、生き延びるためなら手段を選ばなかった、あの頃の「祈」。
彼女の存在が――僕に、あの頃を思い出させてくる。なんでかは、わからない。彼女の何がそうさせるのかも、聞いたことすらない。
でも。たぶん、どこか似てるんだ。最初のころの僕と。彼女の中にある“何か”が、ずっと気になって仕方ない。
そのたびに、思い出すんだ。死んでしまった「あいつら」のことを。
――「星野」孤児院で、一緒に育った仲間たちのことを。そして、伯爵家の坊ちゃんのことを。そして……
何もかもを恐れずに生きてた、最初の僕のことを。
ははっ。やっぱり。風鈴の「呪い」ってやつだな、これが。「共犯者」蘭空祈。
どう考えても、情でも理でも、逃げ道はない。今日の悠奈とのやり取り――完敗だったっぽい。
もうこうなったら、現実を受け入れるしかない。できることはひとつだけ。
愚痴って、ボヤく。それだけだ。
――はぁぁ。なんで僕、こんな惨めなんだよぉ!!冬休みが恋しい!香蘭果ジャムを塗ったあの小さなお菓子が恋しい!この世で一番かわいい、ヒカリちゃんが恋しいよ!あぁぁぁぁ!もう、もう、戻れないんだ!
「ぷっ」
口元を手で押さえながら、笑った悠奈。そして、いたずらっぽい視線が、あの淡いピンクの瞳から射し込んできた。
「なーんだよ、そういうことか。ヒカリに会いたかったんだ?ふふっ、素直に言えばいいのに。恥ずかしがり屋なんだから~。じゃ、今夜帰ったら、ヒカリに伝えとくね?明日から時間あるときは、一緒に学園に来てもらうようにするよ?」
うぅ。感動。
僕のささやかな願いに気づいてくれて、しかも、それを「体面」を保ったまま叶えてくれるなんて。さすが、さすが我がお姉様!
風鈴のような超絶トラブル製造機と一緒にいると、僕の精神が壊れそうになるんだ!絶対に、ヒカリちゃんの癒しが必要なんだよ僕は!
「ほら、もう時間よ。早く風鈴と合流しなさい。」
――……
「祈、もっと回避と機動の練習をしないとダメよ?優秀な斥候なら、それくらいは必須だから。あ、あと約束。絶対に、遅刻しないこと。絶っっっっ対にね。」
――ぼ、僕…
「まあ。もし祈くんがどうしても行きたくないなら…ここに残っても、全然構わないよ。その代わり、お姉ちゃんと一緒に――崎零先生の件について、じ~っくり話し合おうか。」
「……ッッッ!!」
微笑んだままの顔。でも、ほんの少しだけ細められたその目の奥から放たれる圧力が、すべてを物語っていた。
まだ十五歳。だけど、特別任用の見習い講師。なのにあの視線――下手すれば、五十歳の冷徹な教務主任より怖いってどういうこと。
バカでもわかる。これは「最後通告」。
風鈴にボコられるか。それとも悠奈に料理されるか。どっちにしろ死ぬなら、せめて――風鈴のほうがマシだ。
よし。とりあえず、コーヒーを飲もう。
月影原の広々とした屋外訓練場――
一面の緑の草原に着いたとき、僕は彼女の姿を見つけた。
「おっ!おはよう、祈君!さぁさぁ、こっちこっち!待ちきれなかったよ~!」
――お、おはよ……
手は、すでに刀の鞘をぎゅっと握りしめていた。親指で鍔を押し上げ、「カチャリ」と小さな音。鞘と鍔の隙間から、ほんの少しだけ顔を出した刃が、まるで地獄から放たれた冷たい殺意のように輝いた。
――ちょ、ちょっと待って……!
「どした?」
――聞いてくれ。頼むから、今日は手加減してくれ!特に、あのヤバい炎魔法だけはやめてくれ!マジで焼かれる!
「たぶん、使わないと思う。」
首を小さく傾けて、ゆらりと笑った。
「祈君、めっちゃ弱そうだから、わざわざ魔力使うまでもないかな~って。」
――チッ!
いきなり後輩にそんなナチュラルにディスられて、僕は顔が真っ赤になった。
というか、その言い方!まるで天気の話でもするかのような自然さじゃないか!
しかも、悔しいけど反論できない!事実、僕は雑魚なんだよ!
――よーし。そっちが魔法使わないなら、こっちは遠慮なく行かせてもらうぜ!
シュバッと、一気に抜刀!
自分の武器を見つめて、内心ちょっと恥ずかしくなった。本来は立派な魔剣なのに――僕にかかると、ただの逃走用スタッフみたいな扱いになってる。
でも、頼むよ。僕の白き相棒よ。今度こそ、君の力を信じさせてくれ――
頼むぞ、『細雪』!
「おっ?いいじゃんいいじゃん!魔剣、ってとか。うん、ちゃんと味見させてもらうよ。僕、参上っ!」
……相変わらず中二テンション全開だけど、その目に宿る戦意は、もはや本気そのもの。謎の紫髪少女は、再び冷酷な暗殺者の顔に戻っていた。
つまり。本気でやるつもりだ。……なら、こっちも全力で挑まなきゃいけない!「王国斥候・蘭空祈」として、僕が目指すべきはただ一つ!
そう!全力で逃げること!!
風鈴の殺人的な猛攻の中――華麗に逃げ切ること!
……ダサくても、意味がある!だって僕、自分の戦闘力くらいちゃんとわかってるんだ。風鈴に勝つなんて、どう考えても無理ゲー。だからせめて――
倒される前に、逃げきってやる!!
――「氷の力・白霧」!
魔剣『細雪』を媒介に、魔力を一気に集中・展開!
水属性の魔力を微細な水滴として空中に拡散させ。そこへ氷属性の魔力を流し込み、空気を急速冷却!最終的に、視界を覆う「白い霧」を作り出す!
…はい。まったく攻撃力ない。ゼロだ。でも、逃げるには超便利な魔法なんだ!風鈴の視界を霧で遮ってる今こそ!気に距離を取るんだ!
「シュッ――」
次の瞬間。視界に、黒い影が――スッと、現れた。
「祈君!その黒い髪と黒い瞳、白い霧の中じゃ目立ちすぎでしょっ!」
そう言いながら、黒刀『星滅』が振り下ろされる!
戦闘力クソ雑魚な僕、避けるどころか反応すらできず。左肩に、軽く鈍い痛み。気づけば、あの黒刀の木製の鞘が、ピンポイントで僕の肩を叩いていた。
「これが本当の戦闘だったら――今ごろ、祈君は遺言でも考えてるところだったよ!」
――チッ!言われなくても分かってる!!
細雪を水平に振り抜く――が、弱すぎる。遅すぎる。少女はひらりと後ろに下がり、その一瞬で黒刀を軽々と構え、受け流してきた。
鞘同士がぶつかり合い、「カッ」と乾いた音。
――「氷の霊・銀白天穹」!
いわゆる、「力」レベル魔法の「白霧」、「霊」レベル魔法の上位互換。僕の逃げ技レパートリーの中では、わりと秘蔵の切り札。
戦闘訓練の授業では、よくこの技で逃げおおせていた。クラスメイトたちには毎回バカにされたけど。実際、成功率はけっこう高い。普通の生徒相手なら、霧に紛れれば見失わせるのは難しくない。
……ま、風鈴に通じるとは思ってないけど!でも今はもう、逃げるしかないんだ――!
霧が立ちこめる中、僕は必死で離脱を試みる――
しかし。
まるでさっきの再現かのように――スッと、あの黒い影が、またしても僕の眼前に現れた。
「悪くないと思うよ!身体の姿は完全に隠せてた。でもね、祈君。ひとつだけ忘れてること、あるんじゃない?」
――なに!
「その濃い魔力の息吹と匂い!爆発的に放ったその『源』が、居場所をバッチリ教えてくれちゃうんだよ!」
バンッ!バンッ!
またしても、木の鞘が連打でぶつかってくる。
風鈴にとっては、じゃれあいレベルの軽い攻撃なんだろうけど。僕にとっては、もう限界寸前!腕がジンジン痛むし、息も乱れてきた!
――「氷の力・湖氷」!
これも、あんまりカッコよくない魔法。足元の地面に水を張って、それを一気に凍らせて、つるっつるの氷の床を作るだけ。
で?相手が足を滑らせたら反撃するのかって?いやいやいや!滑った隙に逃げるに決まってるだろ!!
それが僕――戦いは苦手だけど、逃げ足だけは一級品な、蘭空祈なのだ!!
「祈君!氷属性と水属性を使えば、もっとカッコいい魔法出せるはずなのに!なんで毎回そんなネタ魔法ばっか使うのっ!?ちゃんと真剣に!戦ってよ!!」
――う、うるさいなぁっ!!こっちは超本気だろ!!
「えいっ!」
黒刀の鞘の先端が、突然真っ赤に染まり。まるで燃え上がるような熱を帯びる。そのまま彼女は、氷の地面に「ガッ」と鞘を打ちつけた!
炎のような見えない魔力が爆発し、凍った湖面が一瞬で蒸気に変わって消えた――!
やばい!追いつかれるっ!
――くっ!「水の力・波刃」》!!
って、えっと、これってどうやって発動するんだっけ!?くそ、ダメだ!思い出せない…やっぱりちゃんと詠唱文覚えておけばよかった!
感覚とか経験で誤魔化してきたけど。唱えないと発動しないなら、せめて詠唱くらい覚えとけって話!!
「どうせ自分は斥候だ。騎士じゃない。攻撃魔法なんか覚えなくていい。」とか言って。逃げ続けてきた自分。今、そのツケを完ッ全に払わされてるんだ!
細雪の鞘に水の魔力が集中し。本来なら弧を描いた「刃」になるはずが。一瞬でバラバラに砕けて、水滴となって霧散した。
「もう打つ手なし、って感じかな?祈君!じゃ――こっちは遠慮なくいかせてもらうねっ!」
――くそ…!「氷の力・氷雨」!!
空気中に浮かぶ無数の水滴が、ピタッと静止し、次の瞬間――すべてが鋭い氷の矢へと変化する。それが一斉に、風鈴めがけて降り注ぐ!僕が使える、数少ない攻撃系の魔法。
まあ……威力は、かなりしょぼいけど!
今回は!
あえて逃げず、真正面から撃ち放った!あたかも「共に沈む」覚悟を決めたように!
その演出に、一瞬だけ風鈴が動きを止めた。…が、すぐに反応。
彼女が受けたところで傷一つつかないのは分かってたけど、練習バトルとしては、真剣に捌く気らしい。
黒刀を身体の前に構え、手首と指を器用にひねって――柄を軸に、刀身全体をくるりと回転させる。そのまま、刀を手から放つ!
「星滅」が風鈴の前で、黒い円盤のように回り。まるで硬質の盾のように、飛来する氷の矢すべてを粉砕した!
そして風鈴は、そのままスッと手を伸ばし、空中で回転していた刀を――再び、完璧にキャッチした。
――ぐっ!「氷の霊・太陽氷雨」!
こんな低レベルな魔法ばかりでも、連発すればそれなりに負担になる。特に、戦闘が苦手でずっと練習もしてこなかった僕にとっては――限界に近い。
でも。堪えた。急速に失われる魔力に、脳を締め付けるような感覚に耐えながら、なんとか、この一撃を放った。
空を覆うように広がる、氷の矢の雨。
だが――その全てが、少女の周囲に近づいた瞬間、熱を帯びて水蒸気へと変わっていった。
さすがは豊富な実戦経験を持つ戦闘の達人。風鈴。
彼女は先ほどのように刀で防ぐのではなく――身体をひらりと回し、マントを大きく振るった。
そのマント――「霧の紗」。
パラシュートとしても使える、例の謎アイテム。僕の魔法程度なら、受け止めることなど造作もない。
予想どおり、霧状になった水分はすべて、風鈴のマントに吸収され――またしても、僕の攻撃を完璧に無力化した。
「もういいでしょ?次はこっちの番だよ!」
風を切る音。風鈴が高く跳び上がり、鞘を僕の肩めがけて、真っ直ぐに振り下ろす!
――「氷の霊・氷棺」!
……認めるしかない。もう僕は、完全に追い詰められてる。
この魔法も、本来はほんの数秒しか時間を稼げない「捨て技」。でも、他に手段はなかった。
一瞬で、僕の身体が巨大な氷の塊に包まれ――その氷に、風鈴の鞘が直撃。「ゴンッ」という音と共に、鞘が跳ね返された。
「『影の力・陽炎』!」
その瞬間、風鈴が抜刀。赤く燃える炎が、黒刀「星滅」の刃に宿る。そして、炎が小さな火球となって放たれ――
棺に命中!
「ジュッ」と音を立て、氷が一気に溶けていく!僕の身体が露出しかけた、そのとき――
――まだだ!「氷の霊・銀白天穹」!
限界ギリギリの魔力を絞り出し。溶けた水滴を再び凍結させて、巨大な白い霧を発生させる!
「祈君!もう限界だか!僕が終わらせるっ!!」
風鈴の怒声が響く。
けれど。僕は聞いちゃいなかった。ただただ、霧に紛れて、全力で背を向けて――逃げる!
「『影の力・闇朏』!」
背後で、漆黒の魔力が渦巻く。不気味なほど冷たい、禍々しい気配が背筋をなぞる。
反射的に、振り返った。
三日月。
影の魔力が、濃い紫の三日月の刃へと姿を変え、空気を引き裂きながら、一直線に僕へと迫る。
――これは!
見えた。月が。
死を象徴する、あの月が。
風鈴の魔法が、あれじゃないけど。でもどうして。こんな不気味な感じ。
魂の奥深く――
記憶の最深層に刻まれた、あの光。
決して消え去らぬ、永遠の残光。
『赤月』
涙に滲む視界の中――僕は、あの『赤月』を見上げていた。
「祈!祈ぃ!助けて!助けてぇぇぇぇ!!」
どこかで――誰かが叫んでいた。
その声は、懐かしくて、悲しくて、そして……恐ろしくて仕方がなかった。
まるで封印されていた箱が、唐突に開かれたように。
記憶が、奔流のように押し寄せてきた。
――「蘭空祈」。
その名は、一瞬で死んだ。いや、“死んだ”というよりも、存在のすべてを――消された。
――「祈」。
そして、一瞬で――戻ってきた。
逃げ続け、災厄を目の当たりにし、常に不運に見舞われるあの「祈」。
僕がずっと嫌っていた自分。
僕が必死に抑え込んできた、あの「祈」。
そのすべてが――今、よみがえる。
過去に起きた惨劇の数々が、スライドのように脳内を高速で流れ込む。
だけど、僕はそれを一枚一枚、鮮明に見ていた。
怒涛のように切り替わる残像が、
まるで“時間”そのものの喉元を、ギリギリと締めつけているようだった。
引き裂かれた肉体――
『赤月』
瞬時に消滅した魂――
『赤月』
真っ二つに分かれた身体――
『赤月』
死んでいく仲間たち――
『赤月』
訪れる破滅――
『赤月』!
すべてが失われた――
『赤月』!!
不運だけが残った――
『赤月』!!!
すべて、すべての出来事が!あの血に染まった空の下、あの赤い月の支配のもとで、死んだ!
――くそっ!!くそ!!!!赤月、赤月!ふざけるな!ふざけるなッ!
二度と、同じことは繰り返さない――
絶対に、二度と!!
残像が砕け散る。記憶の映写が停止する。怒りが心臓を打ち鳴らす。
この瞬間、響き渡ったのは――僕の咆哮だった。
名を「祈」とする生物の、魂の叫びだった。
怒り。痛み。後悔。恥。恐怖。絶望。
あらゆる感情が、一瞬にして混ざり合い、爆発した。
右手が――「細雪」の柄を、固く握りしめる。
親指の爪が薬指の皮膚に食い込み、鋭い刃のように肉を切り裂き、真っ赤な血が溢れ出る。
魔剣が、灼熱を帯びていく。
だが、それは剣の意志ではない。「細雪」は――耐えている。僕の魂の「力」を受け止めている。その力が、銀白の刃から、今まさに解き放たれようとしていた。
灼けるような柄が、掌を焦がし――
怒りの感情が、心臓を爆発させそうになり――
魂そのものが、強大なエネルギーで震えていた。
――祈!
――今だ!!!
力が限界点に達したその瞬間――
「細雪」の鞘が、音もなく、しかし派手に――
砕け散った。
刹那。僕は見た。
美しく、眩い星空を。
それは偽りの蜃気楼でも、幻想の夢でもない。
確かにこの目で見た。
幾千の色彩を抱き、幾万の星を宿す――あの星空を。
かつて、僕のものだった、懐かしい星空を。
――「星野」…アニキ…七海……みんな…
全ての名前。
とうに失われたはずの名前たち。
とうに壊れたはずの記憶たち。
今この瞬間、そのすべてが、この壮大な星空の中に結晶していた。
――あああああああああ!!
瞬間、星河が爆ぜる。無数の星々が、轟く滝のように流れ、鮮烈で巨大な、灼熱の光柱となって迸る。
「祈君、キミっ!」
最後の最後に、少女の悲鳴がかすかに届いた。だが、その微かな声は、爆ぜる星河に飲み込まれた。
彼女の身体ごと、壮烈で絢爛な星空に、呑み込まれていく。
――いや…風、風鈴!
あの猛烈な衝撃をまともに受けた彼女は、すぐに意識を失った。全身に刻まれた灼け跡を、ひと目見ることすらできずに。
少女の膝が崩れ、地面に倒れ込む。
それは――僕の勝利の証だった。
たとえ、どれだけ嫌でも。
受け入れたくなくても。
――くそっ…僕。僕が、いったい何をしてんだ…
必死に、彼女のそばへ行こうとした。だが、自分の身体も、限界を超えた反動で崩れていく。
魔剣が、手から滑り落ち、地面に転がる。
視界が暗くなる。心臓が動きを止め、血が冷えていく。
最後の力を振り絞って、焦げた右手を見つめた。
無限の闇へと、堕ちていった。




