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この世界の光と影  作者: 混乱天使
第三章 薄桜城、白夜残影
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其の六 萌芽

 晴れていて、ほんのり暖かい朝のはずなのに。僕の心の中は、まるで土砂降りの真夜中だった。

 ――お姉さま、我が偉いお姉さま!お願いだよ、せめて今朝だけはここにいさせて!お願いだっ!

 このときばかりは、プライドも恥も全部捨てるしかなかった。「可愛い弟」モード全開で、なんとかお姉さまの前で甘えて、助けを引き出そうとする。

 ゆっくりと、白い磁器のカップを手に取る。立ちのぼる温かいコーヒーの香りに、そっと鼻先を近づける。くん、と香りを吸い込んで、口元に小さな笑み。そして唇をカップに触れさせ、濃くて深い茶色の液体を舌の上に滑らせ、そのまま喉へと流し込む。

 「ん…ちょっと苦いわね。」

 眉をほんの少しだけひそめ、カップを小皿に戻す。テーブルの端に置かれたガラス瓶から角砂糖を一つ取り出すけれど、少し大きすぎて、また瓶に戻す。代わりにちょうどいいサイズの角砂糖を選び、コーヒーに落とす。真っ白な角砂糖が、静かに、音もなく、茶色の海に沈んでいった。

 ――クっ……

 そう。悠奈の世界の中では、今この瞬間、可愛い弟「蘭空祈」はもう存在していない。

どんなに必死でお願いしても、彼女は完全に僕を「空気」扱い。

 甘え作戦、完全失敗。頼れるお姉さまですら、今はまったく反応してくれない。僕はすっかりしょげ返り、ここ数日の悲惨な出来事が頭にフラッシュバックして、もう心が折れそうになる。

 短い沈黙のあと――僕はついに、駄々っ子のように暴れ出した。

 ――あああ!僕を殺してくれ、殺してくれ!もう限界だあああ!!

 半分は本気の心の叫び。もう半分は、見え透いた芝居だった。

 「はいはい。もうコーヒーも用意して?祈の好みに合わせて、白雪角砂糖3つに、南山町名産の大麦ミルクをひとさじ。飲んでみて?きっと一日中ハッピーになれるよ。」

 ううっ…。お姉さま、やっぱり優しい…涙が出そうなくらい感動した。

 で。これで油断しちゃダメだ。悠奈を本気で折れさせて、僕をここに引き止めるには、まだ演技が足りない。

 ――今はコーヒー飲んでる場合じゃないだろっ!僕、今にも死にそうなんだよ!?お願いだから、お姉さま!この可哀想な弟を、救ってください…

 「まったくもう、祈。たとえお姉ちゃんでも、自分の弟が無責任なのは許せないんだからね。」

 や、やばい。この口調…「先生・悠奈」モードが、「姉・悠奈」モードを圧倒し始めてる。こうなったら、いったん静かにして、様子を見るしかない。

 「そうだよね。風鈴の信頼できる仲間になるって、風鈴と一緒に訓練すると決めたのは――祈自身でしょ?ならば、簡単に逃げ出すのはダメよ。」

 ――うっ……。

 優秀な先生であるお姉さまの、説得力抜群の一言に、何も言い返せなくなってしまった。

 ……はぁ。やっぱり、僕が悪いのかもな。ちょっとカッコつけすぎた。

 蘭空家に引き取られて、貴族として生きるようになってから、僕はずっと「冷静で」「思慮深く」「自制的な」――そんな貴族らしい振る舞いを目指してきた。

 もちろん、「途中からの貴族」ってことで限界はあるけど、それなりに様になってきたとは、自分でも思ってた。

 だけど。あの不思議な少女と出会ってから。僕の中にずっと眠っていた、あの「本来の自分」が、少しずつ目を覚まし始めた気がするんだ。

理不尽で、原始的で、生き延びるためなら手段を選ばなかった、あの頃の「祈」。

 彼女の存在が――僕に、あの頃を思い出させてくる。なんでかは、わからない。彼女の何がそうさせるのかも、聞いたことすらない。

 でも。たぶん、どこか似てるんだ。最初のころの僕と。彼女の中にある“何か”が、ずっと気になって仕方ない。

 そのたびに、思い出すんだ。死んでしまった「あいつら」のことを。

 ――「星野」孤児院で、一緒に育った仲間たちのことを。そして、伯爵家の坊ちゃんのことを。そして……

 何もかもを恐れずに生きてた、最初の僕のことを。

 ははっ。やっぱり。風鈴の「呪い」ってやつだな、これが。「共犯者」蘭空祈。

 どう考えても、情でも理でも、逃げ道はない。今日の悠奈とのやり取り――完敗だったっぽい。

 もうこうなったら、現実を受け入れるしかない。できることはひとつだけ。

 愚痴って、ボヤく。それだけだ。

 ――はぁぁ。なんで僕、こんな惨めなんだよぉ!!冬休みが恋しい!香蘭果ジャムを塗ったあの小さなお菓子が恋しい!この世で一番かわいい、ヒカリちゃんが恋しいよ!あぁぁぁぁ!もう、もう、戻れないんだ!

 「ぷっ」

 口元を手で押さえながら、笑った悠奈。そして、いたずらっぽい視線が、あの淡いピンクの瞳から射し込んできた。

 「なーんだよ、そういうことか。ヒカリに会いたかったんだ?ふふっ、素直に言えばいいのに。恥ずかしがり屋なんだから~。じゃ、今夜帰ったら、ヒカリに伝えとくね?明日から時間あるときは、一緒に学園に来てもらうようにするよ?」

 うぅ。感動。

 僕のささやかな願いに気づいてくれて、しかも、それを「体面」を保ったまま叶えてくれるなんて。さすが、さすが我がお姉様!

 風鈴のような超絶トラブル製造機と一緒にいると、僕の精神が壊れそうになるんだ!絶対に、ヒカリちゃんの癒しが必要なんだよ僕は!

 「ほら、もう時間よ。早く風鈴と合流しなさい。」

 ――……

 「祈、もっと回避と機動の練習をしないとダメよ?優秀な斥候なら、それくらいは必須だから。あ、あと約束。絶対に、遅刻しないこと。絶っっっっ対にね。」

 ――ぼ、僕…

 「まあ。もし祈くんがどうしても行きたくないなら…ここに残っても、全然構わないよ。その代わり、お姉ちゃんと一緒に――崎零先生の件について、じ~っくり話し合おうか。」

 「……ッッッ!!」

 微笑んだままの顔。でも、ほんの少しだけ細められたその目の奥から放たれる圧力が、すべてを物語っていた。

 まだ十五歳。だけど、特別任用の見習い講師。なのにあの視線――下手すれば、五十歳の冷徹な教務主任より怖いってどういうこと。

 バカでもわかる。これは「最後通告」。

 風鈴にボコられるか。それとも悠奈に料理されるか。どっちにしろ死ぬなら、せめて――風鈴のほうがマシだ。

 よし。とりあえず、コーヒーを飲もう。


 月影原の広々とした屋外訓練場――

 一面の緑の草原に着いたとき、僕は彼女の姿を見つけた。

 「おっ!おはよう、祈君!さぁさぁ、こっちこっち!待ちきれなかったよ~!」

 ――お、おはよ……

 手は、すでに刀の鞘をぎゅっと握りしめていた。親指で鍔を押し上げ、「カチャリ」と小さな音。鞘と鍔の隙間から、ほんの少しだけ顔を出した刃が、まるで地獄から放たれた冷たい殺意のように輝いた。

 ――ちょ、ちょっと待って……!

 「どした?」

 ――聞いてくれ。頼むから、今日は手加減してくれ!特に、あのヤバい炎魔法だけはやめてくれ!マジで焼かれる!

 「たぶん、使わないと思う。」

 首を小さく傾けて、ゆらりと笑った。

 「祈君、めっちゃ弱そうだから、わざわざ魔力使うまでもないかな~って。」

 ――チッ!

 いきなり後輩にそんなナチュラルにディスられて、僕は顔が真っ赤になった。

 というか、その言い方!まるで天気の話でもするかのような自然さじゃないか!

 しかも、悔しいけど反論できない!事実、僕は雑魚なんだよ!

 ――よーし。そっちが魔法使わないなら、こっちは遠慮なく行かせてもらうぜ!

 シュバッと、一気に抜刀!

 自分の武器を見つめて、内心ちょっと恥ずかしくなった。本来は立派な魔剣なのに――僕にかかると、ただの逃走用スタッフみたいな扱いになってる。

 でも、頼むよ。僕の白き相棒よ。今度こそ、君の力を信じさせてくれ――

 頼むぞ、『細雪』!

 「おっ?いいじゃんいいじゃん!魔剣、ってとか。うん、ちゃんと味見させてもらうよ。僕、参上っ!」

 ……相変わらず中二テンション全開だけど、その目に宿る戦意は、もはや本気そのもの。謎の紫髪少女は、再び冷酷な暗殺者の顔に戻っていた。

 つまり。本気でやるつもりだ。……なら、こっちも全力で挑まなきゃいけない!「王国斥候・蘭空祈」として、僕が目指すべきはただ一つ!

 そう!全力で逃げること!!

 風鈴の殺人的な猛攻の中――華麗に逃げ切ること!

 ……ダサくても、意味がある!だって僕、自分の戦闘力くらいちゃんとわかってるんだ。風鈴に勝つなんて、どう考えても無理ゲー。だからせめて――

 倒される前に、逃げきってやる!!


 ――「氷の力・白霧」!

 魔剣『細雪』を媒介に、魔力を一気に集中・展開!

 水属性の魔力を微細な水滴として空中に拡散させ。そこへ氷属性の魔力を流し込み、空気を急速冷却!最終的に、視界を覆う「白い霧」を作り出す!

 …はい。まったく攻撃力ない。ゼロだ。でも、逃げるには超便利な魔法なんだ!風鈴の視界を霧で遮ってる今こそ!気に距離を取るんだ!

 「シュッ――」

 次の瞬間。視界に、黒い影が――スッと、現れた。

 「祈君!その黒い髪と黒い瞳、白い霧の中じゃ目立ちすぎでしょっ!」

 そう言いながら、黒刀『星滅』が振り下ろされる!

 戦闘力クソ雑魚な僕、避けるどころか反応すらできず。左肩に、軽く鈍い痛み。気づけば、あの黒刀の木製の鞘が、ピンポイントで僕の肩を叩いていた。

 「これが本当の戦闘だったら――今ごろ、祈君は遺言でも考えてるところだったよ!」

 ――チッ!言われなくても分かってる!!

 細雪を水平に振り抜く――が、弱すぎる。遅すぎる。少女はひらりと後ろに下がり、その一瞬で黒刀を軽々と構え、受け流してきた。

 鞘同士がぶつかり合い、「カッ」と乾いた音。

 ――「氷の霊・銀白天穹」!

 いわゆる、「力」レベル魔法の「白霧」、「霊」レベル魔法の上位互換。僕の逃げ技レパートリーの中では、わりと秘蔵の切り札。

 戦闘訓練の授業では、よくこの技で逃げおおせていた。クラスメイトたちには毎回バカにされたけど。実際、成功率はけっこう高い。普通の生徒相手なら、霧に紛れれば見失わせるのは難しくない。

 ……ま、風鈴に通じるとは思ってないけど!でも今はもう、逃げるしかないんだ――!

 霧が立ちこめる中、僕は必死で離脱を試みる――

 しかし。

 まるでさっきの再現かのように――スッと、あの黒い影が、またしても僕の眼前に現れた。

 「悪くないと思うよ!身体の姿は完全に隠せてた。でもね、祈君。ひとつだけ忘れてること、あるんじゃない?」

 ――なに!

 「その濃い魔力の息吹と匂い!爆発的に放ったその『源』が、居場所をバッチリ教えてくれちゃうんだよ!」

 バンッ!バンッ!

 またしても、木の鞘が連打でぶつかってくる。

 風鈴にとっては、じゃれあいレベルの軽い攻撃なんだろうけど。僕にとっては、もう限界寸前!腕がジンジン痛むし、息も乱れてきた!

 ――「氷の力・湖氷」!

 これも、あんまりカッコよくない魔法。足元の地面に水を張って、それを一気に凍らせて、つるっつるの氷の床を作るだけ。

 で?相手が足を滑らせたら反撃するのかって?いやいやいや!滑った隙に逃げるに決まってるだろ!!

 それが僕――戦いは苦手だけど、逃げ足だけは一級品な、蘭空祈なのだ!!

 「祈君!氷属性と水属性を使えば、もっとカッコいい魔法出せるはずなのに!なんで毎回そんなネタ魔法ばっか使うのっ!?ちゃんと真剣に!戦ってよ!!」

 ――う、うるさいなぁっ!!こっちは超本気だろ!!

 「えいっ!」

 黒刀の鞘の先端が、突然真っ赤に染まり。まるで燃え上がるような熱を帯びる。そのまま彼女は、氷の地面に「ガッ」と鞘を打ちつけた!

炎のような見えない魔力が爆発し、凍った湖面が一瞬で蒸気に変わって消えた――!

 やばい!追いつかれるっ!

 ――くっ!「水の力・波刃」》!!

 って、えっと、これってどうやって発動するんだっけ!?くそ、ダメだ!思い出せない…やっぱりちゃんと詠唱文覚えておけばよかった!

 感覚とか経験で誤魔化してきたけど。唱えないと発動しないなら、せめて詠唱くらい覚えとけって話!!

 「どうせ自分は斥候だ。騎士じゃない。攻撃魔法なんか覚えなくていい。」とか言って。逃げ続けてきた自分。今、そのツケを完ッ全に払わされてるんだ!

 細雪の鞘に水の魔力が集中し。本来なら弧を描いた「刃」になるはずが。一瞬でバラバラに砕けて、水滴となって霧散した。

 「もう打つ手なし、って感じかな?祈君!じゃ――こっちは遠慮なくいかせてもらうねっ!」

 ――くそ…!「氷の力・氷雨」!!

 空気中に浮かぶ無数の水滴が、ピタッと静止し、次の瞬間――すべてが鋭い氷の矢へと変化する。それが一斉に、風鈴めがけて降り注ぐ!僕が使える、数少ない攻撃系の魔法。

 まあ……威力は、かなりしょぼいけど!

 今回は!

 あえて逃げず、真正面から撃ち放った!あたかも「共に沈む」覚悟を決めたように!

 その演出に、一瞬だけ風鈴が動きを止めた。…が、すぐに反応。

 彼女が受けたところで傷一つつかないのは分かってたけど、練習バトルとしては、真剣に捌く気らしい。

 黒刀を身体の前に構え、手首と指を器用にひねって――柄を軸に、刀身全体をくるりと回転させる。そのまま、刀を手から放つ!

 「星滅」が風鈴の前で、黒い円盤のように回り。まるで硬質の盾のように、飛来する氷の矢すべてを粉砕した!

 そして風鈴は、そのままスッと手を伸ばし、空中で回転していた刀を――再び、完璧にキャッチした。

 ――ぐっ!「氷の霊・太陽氷雨」!

 こんな低レベルな魔法ばかりでも、連発すればそれなりに負担になる。特に、戦闘が苦手でずっと練習もしてこなかった僕にとっては――限界に近い。

 でも。堪えた。急速に失われる魔力に、脳を締め付けるような感覚に耐えながら、なんとか、この一撃を放った。

 空を覆うように広がる、氷の矢の雨。

 だが――その全てが、少女の周囲に近づいた瞬間、熱を帯びて水蒸気へと変わっていった。

 さすがは豊富な実戦経験を持つ戦闘の達人。風鈴。

 彼女は先ほどのように刀で防ぐのではなく――身体をひらりと回し、マントを大きく振るった。

 そのマント――「霧の紗」。

 パラシュートとしても使える、例の謎アイテム。僕の魔法程度なら、受け止めることなど造作もない。

 予想どおり、霧状になった水分はすべて、風鈴のマントに吸収され――またしても、僕の攻撃を完璧に無力化した。

 「もういいでしょ?次はこっちの番だよ!」

風を切る音。風鈴が高く跳び上がり、鞘を僕の肩めがけて、真っ直ぐに振り下ろす!

 ――「氷の霊・氷棺」!

 ……認めるしかない。もう僕は、完全に追い詰められてる。

 この魔法も、本来はほんの数秒しか時間を稼げない「捨て技」。でも、他に手段はなかった。

 一瞬で、僕の身体が巨大な氷の塊に包まれ――その氷に、風鈴の鞘が直撃。「ゴンッ」という音と共に、鞘が跳ね返された。

 「『影の力・陽炎』!」

 その瞬間、風鈴が抜刀。赤く燃える炎が、黒刀「星滅」の刃に宿る。そして、炎が小さな火球となって放たれ――

 棺に命中!

 「ジュッ」と音を立て、氷が一気に溶けていく!僕の身体が露出しかけた、そのとき――

 ――まだだ!「氷の霊・銀白天穹」!

 限界ギリギリの魔力を絞り出し。溶けた水滴を再び凍結させて、巨大な白い霧を発生させる!

 「祈君!もう限界だか!僕が終わらせるっ!!」

 風鈴の怒声が響く。

 けれど。僕は聞いちゃいなかった。ただただ、霧に紛れて、全力で背を向けて――逃げる!

 「『影の力・闇朏』!」

 背後で、漆黒の魔力が渦巻く。不気味なほど冷たい、禍々しい気配が背筋をなぞる。

 反射的に、振り返った。

 三日月。

 影の魔力が、濃い紫の三日月の刃へと姿を変え、空気を引き裂きながら、一直線に僕へと迫る。

 ――これは!

 見えた。月が。

 死を象徴する、あの月が。

 風鈴の魔法が、あれじゃないけど。でもどうして。こんな不気味な感じ。

 魂の奥深く――

 記憶の最深層に刻まれた、あの光。

 決して消え去らぬ、永遠の残光。

 『赤月』


 涙に滲む視界の中――僕は、あの『赤月』を見上げていた。

 「祈!祈ぃ!助けて!助けてぇぇぇぇ!!」

 どこかで――誰かが叫んでいた。

 その声は、懐かしくて、悲しくて、そして……恐ろしくて仕方がなかった。

 まるで封印されていた箱が、唐突に開かれたように。

 記憶が、奔流のように押し寄せてきた。

 ――「蘭空祈」。

 その名は、一瞬で死んだ。いや、“死んだ”というよりも、存在のすべてを――消された。

 ――「祈」。

 そして、一瞬で――戻ってきた。

 逃げ続け、災厄を目の当たりにし、常に不運に見舞われるあの「祈」。

 僕がずっと嫌っていた自分。

 僕が必死に抑え込んできた、あの「祈」。

 そのすべてが――今、よみがえる。

 過去に起きた惨劇の数々が、スライドのように脳内を高速で流れ込む。

 だけど、僕はそれを一枚一枚、鮮明に見ていた。

 怒涛のように切り替わる残像が、

 まるで“時間”そのものの喉元を、ギリギリと締めつけているようだった。

 引き裂かれた肉体――

 『赤月』

 瞬時に消滅した魂――

 『赤月』

 真っ二つに分かれた身体――

 『赤月』

 死んでいく仲間たち――

 『赤月』

 訪れる破滅――

 『赤月』!

 すべてが失われた――

 『赤月』!!

 不運だけが残った――

 『赤月』!!!

 すべて、すべての出来事が!あの血に染まった空の下、あの赤い月の支配のもとで、死んだ!

 ――くそっ!!くそ!!!!赤月、赤月!ふざけるな!ふざけるなッ!

 二度と、同じことは繰り返さない――

 絶対に、二度と!!

 残像が砕け散る。記憶の映写が停止する。怒りが心臓を打ち鳴らす。

 この瞬間、響き渡ったのは――僕の咆哮だった。

 名を「祈」とする生物の、魂の叫びだった。

 怒り。痛み。後悔。恥。恐怖。絶望。

 あらゆる感情が、一瞬にして混ざり合い、爆発した。

 右手が――「細雪」の柄を、固く握りしめる。

 親指の爪が薬指の皮膚に食い込み、鋭い刃のように肉を切り裂き、真っ赤な血が溢れ出る。

 魔剣が、灼熱を帯びていく。

 だが、それは剣の意志ではない。「細雪」は――耐えている。僕の魂の「力」を受け止めている。その力が、銀白の刃から、今まさに解き放たれようとしていた。

 灼けるような柄が、掌を焦がし――

 怒りの感情が、心臓を爆発させそうになり――

 魂そのものが、強大なエネルギーで震えていた。

 ――祈!

 ――今だ!!!

 力が限界点に達したその瞬間――

 「細雪」の鞘が、音もなく、しかし派手に――

 砕け散った。


 刹那。僕は見た。

 美しく、眩い星空を。

 それは偽りの蜃気楼でも、幻想の夢でもない。

 確かにこの目で見た。

 幾千の色彩を抱き、幾万の星を宿す――あの星空を。

 かつて、僕のものだった、懐かしい星空を。

 ――「星野」…アニキ…七海……みんな…

 全ての名前。

 とうに失われたはずの名前たち。

 とうに壊れたはずの記憶たち。

 今この瞬間、そのすべてが、この壮大な星空の中に結晶していた。

 ――あああああああああ!!

 瞬間、星河が爆ぜる。無数の星々が、轟く滝のように流れ、鮮烈で巨大な、灼熱の光柱となって迸る。

 「祈君、キミっ!」

 最後の最後に、少女の悲鳴がかすかに届いた。だが、その微かな声は、爆ぜる星河に飲み込まれた。

 彼女の身体ごと、壮烈で絢爛な星空に、呑み込まれていく。

 ――いや…風、風鈴!

 あの猛烈な衝撃をまともに受けた彼女は、すぐに意識を失った。全身に刻まれた灼け跡を、ひと目見ることすらできずに。

 少女の膝が崩れ、地面に倒れ込む。

 それは――僕の勝利の証だった。

 たとえ、どれだけ嫌でも。

 受け入れたくなくても。

 ――くそっ…僕。僕が、いったい何をしてんだ…

 必死に、彼女のそばへ行こうとした。だが、自分の身体も、限界を超えた反動で崩れていく。

 魔剣が、手から滑り落ち、地面に転がる。

 視界が暗くなる。心臓が動きを止め、血が冷えていく。

 最後の力を振り絞って、焦げた右手を見つめた。

 無限の闇へと、堕ちていった。

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