其の一 血桜
第一章、第二章で描かれたのは、「時間」を巡るひとつの完結した物語。
そして今、その時の章は幕を閉じ、新たな物語が始まろうとしている。
もともとの構想では、本章はプロローグとしての位置づけだった。
ここから物語の本筋が徐々に展開し、物語全編を通して活躍する主要人物たちが次々と登場することになる。
もし、これまでの陰鬱で苛烈な物語が好みでなかったのなら、
ぜひこの章から、彼らの物語に触れてみてほしい。
もっとも、今後の展開については約束できないが。少なくとも、この章に限っては、明るく、楽しく。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
今後とも『この世界の光と影』をよろしくお願いいたします。
金色の小さな伝書鳩が空へと飛び立った。くるくると旋回しながら、次第に卵のような形へと変化していく。ゆっくりと上昇し、ついにはシャンデリアのすぐ下、ほんの数センチの位置でぴたりと止まった。力を失ったかのように、そのまま急降下。シャンデリアに触れたわけでもないのに、流星のように一直線に床へと落ちていき――
「カーンッ!」
金属と大理石のぶつかる甲高い音が、静かな図書室に響き渡った。
――あーあ。
小さくため息をつき、しゃがみ込んで、その哀れな硬貨をそっと拾い上げる。磨き上げられた金メッキの表面に、一羽の凛々しいフクロウがふわりと浮かび上がった。
顔を上げる。
そして――見えたのは、いつも通りの、少女の裸。
うん。心の準備はしてた。
してた、けど。
僕は普通の14歳の男子だ。どれだけ予想していようと、どれだけ意志を強く持とうと、突然こんな光景を目の前にしたら、さすがに心臓が跳ねるし、顔だって熱くなる。
だからこそ、表情が崩れる前に、そして体が無意識に反応する前に――「驚いてないし?」みたいな顔を作って、さっさと目を閉じ、顔をそむけた。
「ねぇ、『蒼華君』返して!」
軽やかな声が、弾むように背後から響く。
――いや、その前に服を着ろ!
「先に返してよ!」
――だから先に服を着ろ!
こんな子どもの喧嘩みたいなやり取りは正直好きじゃないんだけど。でも、相手がヒカリの場合は、こういう単純で雑な方法の方が効果的だったりする。
「キー! 祈のバカ!」
――ふん!
……
沈黙。
10秒ほど、互いに押し黙ったまま、勝者も敗者もないまま時間だけが過ぎていく。ちょうど、審判が欠席した試合みたいに。
「…はぁ、もう、わかったわよ。」
ヒカリがしぶしぶ折れたようだ。
どうやら和解ということで、今回の微妙な攻防戦は幕を下ろしたらしい。よし、これで安心して目を開けられる。
目の前で、魔法書がゆっくりと宙を舞い、その場で静かに停止する。羊皮紙の表紙がぱたりと開き、黄ばんだページがちらりと顔をのぞかせた。
「そんなに大げさにすること? 祈、うちの体なんて、もう何度も見てるじゃん。」
――おい、自分が「魔法書」だってこと忘れてないか?人間の姿になるのがそんなに楽しいなら、せめて人間の習慣くらい学んでくれよ。
「はいはい…祈の言う通りにしますよーだ。」
適当に流しながら、光がふわりと輝く。次の瞬間、魔法書は再び少女の姿へと変わった。
白く透き通るような肌の少女の体を、ふわりと大きな羊皮のマントが包み込む。うん、これならようやくまともに見られるな。
金橙色の短髪をゆるくカールさせ、毛先には燃えるような赤が差している。その琥珀色の瞳は、夜明けの陽光のように輝き、金色の波が揺らめくように、生き生きとした光を湛えていた。
正直なところ。こうして見ると、ヒカリの「人間の姿」って、普通に可愛い女の子だよな。
まあ、もっとマナーを気にしてくれればの話だけど。でも、たぶん無理だろうな。所詮、こいつはただの魔法書。僕人間ほど、ややこしい生き物じゃない。
ヒカリはイタズラっぽく微笑みながら、僕の手から哀れな硬貨を受け取る。そして、それを羊皮のマントのポケットにそっとしまいこんだ。
この「蒼華君」という硬貨、どこのものなのかは知らないけれど、とりあえず、悠奈が適当にヒカリに渡したものらしい。
なのに、ヒカリにとっては、この世で一番の宝物になってしまったらしく、毎日手の中でクルクル回して遊んでいる。
まぁ、たいていは器用にキャッチするんだけど。今回みたいに、時々「やらかす」んだよな。
悠奈のことなんだけど。僕がわざわざ図書室まで光を探しに来たのは、悠奈の行方を聞くためだった。
この広大な邸の中、地下展示室から屋根裏部屋までくまなく探したけど、悠奈の姿はどこにも見当たらなかった。
「蘭空悠奈」、15歳。蘭空家の孫四人兄妹の次女だ。
伯父の子である長男「蘭空悠憫」は、いま王都「天時郡」で官職に就いている。
叔父の子である三男「蘭空悠希」と、四女「蘭空悠寧」は、まだ幼く、屋敷の中で子供らしい遊びに夢中になっている。
じゃあ、なんで「蘭空ヒカリ」を数に入れないのかって?それは、こいつがただの魔法書だから。なんで 「蘭空祈」、つまり僕も数に入れないのかって?僕が悠奈の父親に養子として拾われた身だから。
この年頃の子供は、普通「薄桜城国立大学」に通ってる。でも、悠奈の場合はちょっと事情が違う。
彼女の祖父は薄桜城でも名の知れた大魔法使いの一人だし、悠奈自身も魔法の才能は飛び抜けている。
だから、僕より一つ年上なだけなのに、悠奈はすでに「見習い講師」になっている。
今日は新学期前、休みの最後の日。まあ、それは学生にとっての話であって。先生たちはその前日に学院に出向き、開校準備をすることになっている。見習いとはいえ悠奈も学院に行ったらしい。
――だから、ヒカリ。悠奈が何しに行ったか、知ってる?
「……」
僕の言葉が聞こえてるのはわかってるし、意味も理解してるはず。返してきたのは無言の軽蔑だった。
――おい、聞いてんのか、ヒカリ!悠奈が何しに行った?
「ふんっ!」
ぷいっと顔をそむけて、むくれた表情を見せる。
……。
10秒の沈黙。またしても僕たちの小さな対決が始まってしまった。
前回の勝者は僕だったが、今回はもうダメだ。心はすでにぐちゃぐちゃで、こんなどうでもいい駆け引きに付き合う気力はなかった。
――はい、はい…じゃ、僕たちの「お、姉、さ、ま」は、一体どこに行かれた?」
この瞬間だった。歯車がかみ合った時計塔が急に動き出すように。魔法陣の最後の線が引かれた瞬間に光が溢れ出すように。
「うん!お姉さまは先覚塔の鐘楼儀式に行ったはずだよ!」
――は?
思わず目の前が真っ暗になりそうだった。さんざん時間をかけて聞き出した答えが、それかよ。
――城の桜なんてとっくに満開なんだぞ?!鐘楼儀式って、今さら何を鳴らすんだよ!
「えっ?もう咲いてるの?今日?」
ヒカリの顔には「純粋な驚き」が浮かんでいた。それが演技でないことは、一目でわかった。
つまり、ヒカリは本当に何も知らなかったというわけだ。
…はぁ。そりゃそうだよな。
この引きこもり魔法書、毎日図書室にこもって、お菓子を食べて、硬貨を転がして、本を読むことしかしてないんだから。外で何が起こってるかなんて、知るはずがない。
もう、怒る気にもならなかった。
無言で、ヒカリの手から本を奪い取り、机のランプを消し、厚いカーテンを開け放つ。
そして、少女を抱き上げ、まるで家具を配置するかのように窓辺に置いた。
――
夕暮れの光が差し込む中、庭の桜が静かに咲き誇っている。
春風が吹き抜け、桜の花びらが舞い落ちる。
まるで、「血の雨」のように――
3489年、風甲月、第四雷庚日。
風甲月の最終日。冬の最終日。休暇の最終日。
そして。本来なら、桜が咲く「前日」のはずだった。
薄桜城。
人類王国の「魔法の都」。
その中心にそびえる「薄桜城国立大学」の敷地内には、一際高い塔がそびえ立っている。
そこが「先覚塔」。
数多くの大魔法使いたちが集い、学院としても機能している場所だ。
賑やかな市街地を抜け、視界に広がるのは広大な平原。雑踏から離れると、耳に届く音も次第に穏やかになる。
道は一本ではなく、四方八方へと延び、まるで世界の隅々まで繋がっているかのようだ。平原には、様々な形の家々が立ち並び、それぞれが独自の趣を持っている。
毎年、春の第一日目。
すなわち、木乙月の第一風甲日、零時ちょうどに。
街の桜は一斉に満開となる。
どんなに細い路地の隅でも、どんなに目立たない場所でも、甘く優しい花の香りが漂う。それらの桜は「先覚者」たちによって、未来を占う魔力を宿されたものだという。
そして、桜が咲く瞬間。尖閣塔の鐘が鳴り響く。
それは、この一年の安寧と平和を祈るための鐘だった。
…だが、今年。
街中の桜は、一日早く開花した。
しかも、すべて真紅に染まっていた。
遠くから見れば、「血の海」。まるで戦乱の時代に戻ったかのような、惨劇の光景。
おそらく、今年。先覚塔の鐘は鳴らない。血のような桜を前に、高き塔は沈黙を貫くだろう。目覚めることを拒んでいるかのように。
街の人々は口々に噂していた。
これは「厄災の前触れ」だと――
「亡霊姫」。
数年前、彼女が降臨して以来、世界は徐々に緊張を増していった。
亡霊連邦と人類王国は、表面上の平和を保っているが、密かに戦争の準備を進めているという噂が絶えない。
いつか、ある日突然。西方から亡霊の大軍が押し寄せるのではないか。世界の中心線を越え、東の人間王国へと侵攻するのではないか。
「時間海」。
世界最北の内海の秘宝が、つい最近盗まれたという。悠奈によれば、あの秘宝は「神々の至宝」であり、世界の均衡を覆すほどの力を秘めているらしい。
幸運にも、それを奪った者ごと王国の手の内に収まったらしいが。不幸にも、連邦は王国が秘宝を独占したことを知ってしまった。
亡霊が黙っているはずがない。
「千代城」。
人間王国と亡霊連邦の関係は、すでに極限の緊張状態にあった。そんな折、千代城までもが不穏な動きを見せ始めた。
表向きは城主のもと、何事もないように見えるが。
実際に権力を握っているのは若き城主、「南森南」。彼は王国からの独立を宣言しようとしている。
蘭空家は南森家との関係が深い。これが原因で、面倒ごとに巻き込まれなければいいのだが。
…とにかく、嫌なことばかりだ。
「まぁまぁ、そんなに深く考えなくてもいいんじゃん?」
突然、目の前に差し出されたのは。
香蘭果ジャムのサンドクッキー。
「政治とか戦争とか世界のこととかさ、そんなのうちには関係ないよ。とりあえず、やるべきことをやって、楽しく過ごせばいいの!さぁ、口開けて、あーん!」
ヒカリの無邪気な笑顔。甘いジャムの香り。
…少しだけ、気持ちが軽くなった。
――んむんむ…うまい。
光のこんな楽天的すぎる性格、本当に羨ましい。こんな状況でも、悩むことなく笑っていられるなんて。
「うーん。うちはね、この世界に生まれた理由がお姉さまを守ること。それだけだ。だから、祈ほど色々考えてないよ?やっぱり少しは気楽になったほうがいいと思うよ。だって、ほら――」
「偉大なるお姉さまもいるし、頼れる蘭空家の皆もいるし。それに、竜一くんと、滄溟くんもいるじゃない?できないことなんて、ないって思わない?」
――そうだな、ヒカリ…ありがとう。
ヒカリのふわふわした髪をそっと撫でる。それが、癒しをくれた少女へのささやかな褒美だった。
ヒカリは満足げな猫のように、心地よさそうな喉の音を響かせた。
心地よいこの時間を、もう少しだけ楽しみたかった。しかし、それを許さぬかのように、扉を叩く音が響いた。
短く、重く、鋭いノック。まるで、来訪者の「苛立ちと焦燥感」を表すような音だった。
返事をする間もなく、扉が勢いよく開かれる。
「よー、ヒカリちゃん!こんばんは。」
誰もが、ヒカリを愛さずにはいられない。少年の顔に優しい笑顔が浮かぶ。
「おや、余計なものまでいるな――祈?」
その笑顔が僕に向けられることは決してない。代わりに、彼の目には冷ややかな軽蔑が宿っていた。
まぁ、こいつとは犬猿の仲だからな。理由はわからないが、どうも僕は心の底から見下されているらしい。
…まぁ、いい。少なくとも、完全に無視されることはなかった。こうして一応挨拶してくれるだけ、ありがたいと思うべきか。
――こんばんは、滄溟。
水のような青を宿す少年。
邪霊「滄溟」――。
そう、彼は亡霊に属する強大な存在、邪霊。
かつて、何らかの罪を犯した彼は、数十年前、亡霊連邦から追放され、巨大な大鎌に封印されてしまった。全力を振り絞り強力な呪術を発動させ、自らを千里離れた人間王国へ転送した。そして、そこで長い眠りについた。
だが、数年前。彼が封じられた大鎌は竜一によって偶然発見され、解放された。滄溟は竜一に憑依し、その体を借りることで人間社会に適応することとなる。
とはいえ、大半の力を失った彼は、かつてのような恐るべき存在ではなくなっていた。それでも、彼の戦闘力は依然として驚異的であり、結果的に人類の仲間となったのだった。
それにしても、珍しい。
滄溟は普段、竜一に憑いて行動しているはずだ。なのに、今日は単独で動いている。
「竜一のやつ、展示室に行ったよ。俺様はな、あれらの古くてダサい石なんか興味ねぇし。だから、先にこっちに来たってわけだ。」
そう言って、滄溟はヒカリに視線を向けた。
「そうだ、ヒカリ。今年のバトル競技大会、もうすぐ開催だな?」
「え? そうなの?…ねぇ、お姉さまも参加するの? 」
「当然だろ? 本気でヒカリと戦う準備、もうできてるぜ。」
「えぇ…マジで?うち、興味ないんだけど…。」
――戦う気ゼロの魔法書。――戦いを愛する邪霊。
この二人が試合でぶつかったら、どうなることやら…
竜一の戦闘能力は、もともとずば抜けて高い。そこに滄溟の力が加われば、学院最強の存在となるのも当然のことだった。
もし彼が「物理科」の「戦闘系」や「魔法科」に進んでいたら、間違いなくトップクラスの実力者になっていただろう。
しかし、選んだのは物理科の「能源系」。
彼は鉱石を愛してやまない。だからこそ、能源系に進んだのだ。
とはいえ、戦闘力には一切の影響はない。おそらく、今年の競技大会も、また能源系が優勝するだろう。
悠奈もまた、魔法科の「普通系」代表として参加する。
しかし、魔法科の他の系は人数が圧倒的に少ない。「占星系」、「癒術系」、「呪術系」、「召喚系」、「付呪系」。五系統を全て合わせても、普通系の人数に及ばない。
つまり、悠奈は実質、魔法科の顔として戦うことになる。
…もっとも、悠奈は「彼氏を大切にする性格」だ。当然、竜一も彼女には本気で攻撃しないだろう。
となると、今年の競技大会は。
「ヒカリと滄溟の世紀大決戦」に発展する可能性が高い。
見た目に騙されるな。ヒカリは、普段は無邪気で可愛い少女だが、本気になった彼女は、滄溟にも決して引けを取らない。
「ま、どうでもいいけどな。」
滄溟がこちらを一瞥する。
「お前みたいな役立たずは、こういう戦いには関わらないほうがいいんじゃねぇぞ。」
――っ……。
「どうせ、お前の雑魚戦闘力とインチキ魔法じゃ、新人相手にすらボコボコにされるのがオチだろ?大人しく観客席で、俺様の勇姿を拝んでな!」
――ぐっ……。
言葉は容赦ない。邪霊は正直。そして、現実は残酷。
事実、僕は戦闘科の中では最弱だ。反論の余地はどこにもない。
これ以上、この話題を続けたくない。とっとと話を逸らすべきだ。
――あの、滄溟。竜一はいるなら、悠奈も一緒じゃない?
「お、いい質問だな。」
滄溟がニヤリと笑った。
「ほら、来た――」
ふんわりとした桃色のライトローブ。
裾や袖口には、真っ白なコットンファーがあしらわれている。
広いつばの先の尖った魔法帽。その下から覗くのは、わずかに桃色がかった柔らかな巻き髪。
ふわふわと丸みを帯びながら肩の後ろへと垂れ、軽やかに揺れている。
丸い銀縁メガネ。
薄く透き通ったレンズの奥で、涼やかな瞳が優しく瞬いた。瞳孔の縁には、ほんのりとした淡い桃色――春の桃花のように。
白い頬には、小さなそばかすがぽつりぽつり。それが彼女の可憐さを、より引き立てている。
「お姉さまっ!!!」
猛獣のように飛びかかるヒカリ。悠奈に全力で抱きつき、そのまま勢いよく胸へとダイブした。
悠奈の指先が優しくヒカリの髪を撫でた瞬間。
「にゃぁぁん…」
また猫のように。心地よさそうに喉を鳴らすヒカリ。
「こんばんは、ヒカリ、祈、滄溟。」
「こんばんは、悠奈! ねえ、こっそり教えてあげるよ。この役立たずの祈、ずっと悠奈を待ってたんだぜ。」
「役立たずって、そんなこと言っちゃダメだよ。」
悠奈の指が少年の鼻先をちょん、と突く。
笑顔は優しげ。だが、その瞳はすでに鋭さを帯びていた。
…さすがは「先生」だ。僕の偉大な姉上よ。
「う…ごめん…」
滄溟、撃沈。
彼ですら悠奈の威圧感には抗えず、しょんぼりと頭を垂れ、トボトボとその場から退散していった。
「それで、祈。どうしたの?私に何か用?」
――はい、姉さん。えっと、ただ今日の午後、学院で何をしてたのか気になって…
「あぁ、それね。今日は編入生が学院に来たのよ。私、ちょっと手伝ってたの。魔法科の呪術系に入る子なんだけど、珍しいでしょ?」
――編入生?咒術系?まさか、かなりの実力者?
「ううん、『普通の子』だよ。もし興味があるなら、祈にも紹介しようか。」
悠奈の微笑みは限りなく優しく、それでいてどこか楽しげだった。まるで、からかうように。
いや、待て。
「編入生」。「咒術系」。
この二つの「超希少ワード」が並んでいる時点で、「普通」なわけがない。
――その新入り、名前は?
「『風鈴』だよ。珍しい名前でしょ?」
風鈴。か…。
…いや、待て。
――風鈴?
この名前…どこかで聞いたような。
いや、違う…ついさっき、耳にしたばかりだ。
風鈴…
……
!?
風鈴!? まさか!
その瞬間、脳裏に「血」がよぎる。
何かが、悪いものが、僕の記憶の奥底から浮かび上がろうとしていた。気づけば、僕は心の中の劇場の観客席にいた。目の前の舞台の主役は、僕自身だ。
ステージの上で、まさにあるシーンを演じている最中だった。
突如、鋭い剣が胸を貫く。心臓を射抜かれた僕の体から、鮮血が勢いよく噴き出す。
ゆっくりと崩れ落ちる。散る花弁のように。
空想悲劇の幕が閉じると、
すぐに次の場面へと移り変わる。
雨の中に倒れていた。
閉じた瞼の裏で、無情な大粒の雨が頬を叩き続ける。
体を覆うのは、死のような冷たさだけだった。
…記憶の中の、あの雨の夜が再び浮かび上がる。




