表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この世界の光と影  作者: 混乱天使
第二章 時間海、無尽反響
44/65

其の九 エミと黒い約束

 …

 果てしなく広がる氷原。まるで空の裏側みたい。でも、その氷の上には厚い雪が積もっていて、真っ白で、空を映すことなんてできない。

 んー…凍りついた海。冷たい海。こんなに広くて、優しくて…でも、どこか遠い海。

 もしこの海が凍っていなかったら、私は迷わず飛び込んでいたかもしれない。目を閉じて、静かに沈んでいくのを待って……そして、海の一部になるの。

 海の一部になったら……パパとママに会える。いなくなったみんなに、また会える。

 パパとママはきっと言うんだ。「みんな、死んでなんかいないよ。海の底に、新しい村を作ったんだ」って。

 そこには悲しみも痛みもなくて、苦しみもなくて……みんな、幸せに暮らしているんだって。

 誰もパパとママを責めない。誰もお兄ちゃんを責めない。誰も、私を責めない。

 墨雪家は「呪われた一族」なんかじゃなくて、みんなを海へと導いた英雄なんだって。

 ん……いいなぁ……そんな世界。

 でも、私はまだ死ねない。

 お兄ちゃんはまだ落桜城で傷を癒してる。私は、お兄ちゃんが帰ってくるのを待ってる。

 春かな?夏かな?きっと、帰ってくる。

 だから、それまでの間は……

 この「現実」っていう、苦しくて痛い世界を、私一人で耐えなくちゃいけない。


 …

 ちょっと疲れちゃった。ちょっと、落ち込んでる。

ううん、落ち込むなんてものじゃない。なんだか、もう…絶望してるのかもしれない。

 村長は、私にすごくよくしてくれる。村の中には、私のことを好いてくれる人もいる。……でも、私、もう耐えられそうにない。

 村長は言った。「時間神」も、「宝物」も、みんな嘘っぱちだって。伝説の話なんて、ただの作り話だって。

 村長は優しい。私はずっと、そう信じてる。

 だから、疑いたくないし、確かめるつもりもない。

 海の中には何もない。ただ、果てしない水か、果てしない氷があるだけ。この荒れ果てた大地と同じで、何もない。

 …私は、ずっとそう思ってた。

 じゃあ。

 私は今、なんで海に向かってるんでしょう。

 村長が知ったら、怒るでしょうか。分かってるはずなのに……

 なのに、どうして足が止まらないの?

 何かを期待してるの? 何かを願ってるの? 何かを信じてるの?

 分からない。

 ただ、私は…前に進むだけ。

 

 …

 氷原には、小さな木が十数本ほど生えていた。枝には、黒い鳥が何羽かとまっている。

 カラス?

 村長が言ってた。すごく賢くて、すごく綺麗で…夜みたいに真っ黒な鳥のことを、「カラス」って呼ぶんだって。

 でも、私の目は悪すぎて、よく見えない。

 「ガァ」「アァ」って、まるで誰かの声みたいに鳴く声だけが聞こえる。

近づいたら、カラスたちはバサバサッと飛び立っていった。

 …私には、興味ないんだね。

 なら、邪魔しないよ。


 …

 カラスたちと別れて、私はさらに海の奥へと進んでいく。

 もう、かなり歩いた。

 このまま進んだら、日が暮れるまでに家に帰れなくなるのは分かってる。

 それでも、止まりたくなかった。だって、聞こえたから。

 海の奥から聞こえる、何かの声。

 女の子の声。カラスの鳴き声。

 ぼんやりとした黒い影…そして、大きな、大きな、黒い影。


 …

 私が近づくと、その姿がはっきりと見えた。

 その巨大なカラスは、まるで怪物みたいだった。恐ろしい姿をしていたけれど…でも、優しかった。

 ゆっくりと首を下げて、大きなくちばしを開く。鋭い牙で噛むのではなく、柔らかい舌でそっと私の額に触れた。

 お互いの敵意がないことを確かめると、その大きな体を私の前でゆっくりと伏せた。

 私はそっと歩み寄り、その首にしがみつくように抱きしめた。

 大きなカラスは「アァ……」と、優しく鳴く。まるで、私を慰めるように。

 「ねえ、『大公』。この子のこと、気に入った?」少女が言った。

 「ガアア……」

 大公は静かに私の抱擁を受け入れた。私は、その温かい息遣いを感じることができた。

 …あったかい。

 なんか。涙が出そうになった。

 

 …

 少女が、私の目の前まで歩み寄ってきた。

 漆黒の髪、蒼白の肌、そして…血のように赤い瞳。

 こんな場所に現れるなんて、きっと神様なんだ。もしかして、伝説の「時間神」?

 「いいえ。時間神じゃない。」

 美しい鎧をまとい、背には剣を背負っている。それに、こんなに大きな騎乗獣まで…もしかして、騎士様?

 「いいえ。騎士でもない。」

 じゃあ。この人は、一体…

 「『亡霊姫』だ。」

 亡霊…? 姫…?

 「そんなことは重要じゃない。」

 じゃあ、どうしてここに…

 「この地の神に会い、その恩恵を授かろうと思った。でも、残念ながら。あなたも私も、神に拒まれた者のよう。たぶん、神はすでに彼女自身の意思を決めていたのでしょう。だから、私たちは門前払い。でも、だからといって、簡単に引き下がるつもりはない。」

 …少なくとも、その言葉は正しかった。

 「さあ、次は私の番よ。人間よ。あなたは、なぜここへ来たの?」

 私は…なぜ…?

 私は正直者だ。嘘はつかない。ただ、分からないだけ。

 「あなたが幸せじゃないことくらい、私には分かる。」

 幸せ…?私、もうどれくらいの間、幸せなんて感じていないんでしょう。パパもママも死んだ。お兄ちゃんもいなくなった。私は、ひとりぼっちになった。どうすれば……幸せになれる?

 「でも、私は感じる。あなたの中にある力を。」

 力?

 「『怒り』『憎しみ』『苦痛』『悲しみ』…どれも、私には正確に言い表せない。でも、それは確かに存在している。とても強く、とても純粋に。ねえ、教えて。あなたは、何に怒っているの?」

 私…私、分からない。私は冷静だ。怒ってなんていない…はず。

 「でも、あなたの心の炎は、氷雪を溶かし始めている。」

 …炎。

 「じゃ、教えて。あなたは、誰を憎んでいるの?」

 私…私は、誰も憎みたくない。憎むことなんて、したくない。私は、全てを許そうとしているのに…。

 「でも、あなたの手にある刃は、血に染まり始めている。」

 …刃。

 「教えて。あなたは、何に苦しんでいるの?」

 私…私、分からない。でも、胸が痛い。病気じゃないのに。

 「あなたの夢は、現実を喰らおうとしている。」

 …夢。

 「教えて。あなたは、何を悲しんでいるの?」

 私…私、分からない。ただ、ときどき涙がこぼれる。雪の上に、ぽつぽつと。

 「あなたが待ち続ける人は、もう、届かない場所へ行こうとしている。」

 …人。


 …

 少女は、じっと私を見つめた。

 「私が助けることができる。救うことはできないが、手を差し伸べることならできる。」

 彼女は、一歩前に出た。

 「そうよ。私と友達になりなさい、人間よ。」

 彼女の手が、そっと私の胸に触れた。

 「この海は、大公にとってさえ広すぎる。ここには、新しい『邪霊』が必要だ。」

 彼女は、一歩後ろに下がる。

 「だから、友になりなさい。そして、私のために生きなさい。」

 剣が、鞘から抜かれる音がした。

 「――亡霊姫の名において命ずる。汝、邪霊となれ。」

 剣先が、私の胸を貫いた。

 「今より、汝の名は――『幻蝶』。『黒鋼・鴉羽』と『寒霜』を授けよう。吾の意志を継ぎ、海に踏み入る者を斬り伏せる。」

 鋭い刃が、心臓を貫いた。


 …

 邪霊「幻蝶」となってから、すべてが確かに良くなっていった。

 私は姫のためにこの大海を守り、侵入者を容赦なく処刑する。黒い死神。それが私の役目。

 私を憎み、責め、誤解した者たちの多くは、すでに私の刃の下に散った。

 彼らの血は雪を紅く染め、彼らの骸は「死の樹」となり、彼らの魂は私の使い魔となる。

 それが、心地よかった。それが、私を満たしてくれた。

 昼は村に潜み、寒鴉たちと共に彼らを見下ろす。誰が海へと向かうのかを、ただ待ちながら。

 夜は大海を彷徨い、脆き人間どもを片っ端から狩る。

 ふむ…哀れむつもりなどない。焦りも、後悔も、感じたことはない。

 殺すことは、ただの「職務」。そこに個人的な感情を混ぜる気はない。

それに、そもそもこいつらは「相応の報い」を受けているだけだ。

 死ぬべきだ――神の領域を穢した罰として。

 死ぬべきだ――私の家族を、無惨にも踏みにじった咎として。

 死ぬべきだ――私に刃向かった報いとして。

 そうだ、私に。私、「墨雪」に…

 …墨雪?

 違う。私の名前は…

 ――何だった?


 …

 私の異変に最初に気づいたのは、村長だった。

 彼は、本来知るはずのないことを知ってしまった。けれど、私は彼を殺さなかった。

 村長は「いい人」だ。私は、彼に感謝している。

 何より驚いたのは。彼が、どこか私に似ていること。

 「わしの、哀れな孫娘よ…この間に、ずいぶんと成長したようじゃ。」

 「迷うな、心配するな。人間どもなど、救う価値もない。もし彼らが愚かにも目を覚まさぬのなら、死が最善の結末じゃ。」

 「何せ、これは『神の裁き』なのだからな、ハハ。」

 「行くがよい、好きなように。人間だろうと亡霊だろうと、そんなことはどうでもよい。ただ、己の役目を果たせばよい。」

 「咲。」

 …咲?

 それは、誰の名前?

 私の? それとも、誰か別の?

 私は「幻蝶」。それは、私が誰よりも知っている。

 じゃあ、咲って…誰?


 …

 違う。何かが、おかしい。

 すべてが「良くなった」はずなのに。たった一つ、妙なことがある。

 姫と約束を交わして以来、私の記憶が少しずつ、失われている。

 たぶん、それは当然のことなのかもしれない。

 私はすでに人間ではない。亡霊となったのだから、人間だった頃の記憶など、捨てるべきなのかもしれない。

 むしろ、その方がいい。

 過去の思い出など、ろくなものじゃなかった。いっそ、全部忘れてしまえたら、それでいいじゃないか。

 …でも、本当に?

 幻蝶よ、私自身に問いかけろ。

 何か、忘れてはいけないものがあるんじゃない?



 …ひとり。

 墨。雪。瑛。

 私の兄。私の、大切な兄。

 自分の名前は思い出せなくても――

 兄のことだけは、すべて覚えている。

 彼の声、彼の顔、彼のすべて…

 私は、決して忘れない。

 私は知っている。想いは、人を苦しめるものだと。

 私は知っている。兄への想いだけは、姫ですら解決できない問題なのだと。

 時が経つにつれ、その想いはどんどん大きくなり、どんどん重くなっていった。

 まるで心の奥で無限に膨れ上がる、巨大な球のように。

 やがて、その球に鋭い棘が生えた。それは、毎時、毎分、毎秒、私の心臓を刺し貫いていく。

 幻蝶よ、どうするつもりだ?

 忘れる?…いや。

 それが最善の選択?…いや。

 忘れさえすれば、もっと純粋になれる。もっと楽しめる。…いや。

 何も考えず、無邪気な子供のように、大海の中で心ゆくまで人を殺せる。毎秒、幸福を感じられる。…いや。

 じゃ、覚えていたいの?…うん。

 たとえ、その想いが痛みを伴うとしても?…うん。

 それでも、忘れたくないの? …うん。


 …

 もし兄さんが戻ってきたら、どう思うでしょう。

 私がこんなに酷いことをしたと知ったら。こんなに多くの命を奪ったと知ったら。

 失望するでしょうか?

 この事実を隠すのは難しい。でも、兄さんに失望されたくない。

 …どうすればいいの。

 この「黒い約束」を、壊せばいいの?

 それが「救い」ではないことはわかっている。ただの「逃避」だということも。

 それが「誠実」ではないことはわかっている。ただの「身勝手」だということも。

 だが、姫を裏切れば、私は死ぬ。亡霊として死に、完全に消える。

 それでもいい。

 もう、人を殺すことも、大海を守ることも、どうでもよくなった。

 私には、ただ一つの願いがある。

 兄に会いたい。

 それだけ。

 彼に会えたなら…その瞬間、私は自ら命を絶つ。

 ただ、一度だけでいい。


 … 

 果てしなく広がる氷原。まるで空の裏側みたい。

 二度目。

 そう、私は再びこの大海の深奥へと足を踏み入れた。

 前回は、大公と姫に出会った。

 今回は、新たな存在を探しに来た。

 「——あら、見覚えがあるわね。毎日私の家の前で殺戮を繰り返す、悪い子じゃん?そうでしょ、エミ。墨、雪、咲。」

 目の前の少女が、いたずらっぽく微笑む。

 騎士でもなく、亡霊姫でもない。

 彼女は、「時間神」。

 本物の、時間神。

 「なるほどね。忘れるくらいなら、覚えていたいと?」

 …うん。

 もはや迷いはなかった。

 「へぇ…よくそんなことが言えるわね。亡霊の少女と交わした約束があるくせに。今度は、私に助けを求めるというの?

 …うん。

 私は、すでに覚悟を決めた。

 「いいよ。その願いを叶えてあげるよ。」

 

 …

 「白い約束」。それは、私と時間神だけの契約。

 私は、墨雪咲。「黒い約束」によって、私は「幻蝶」となった。

 私は、幻蝶。「白い約束」によって、私は再び「墨雪咲」となる。

 ――忘れるよりも、覚えることを選んだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ