其の九 エミと黒い約束
…
果てしなく広がる氷原。まるで空の裏側みたい。でも、その氷の上には厚い雪が積もっていて、真っ白で、空を映すことなんてできない。
んー…凍りついた海。冷たい海。こんなに広くて、優しくて…でも、どこか遠い海。
もしこの海が凍っていなかったら、私は迷わず飛び込んでいたかもしれない。目を閉じて、静かに沈んでいくのを待って……そして、海の一部になるの。
海の一部になったら……パパとママに会える。いなくなったみんなに、また会える。
パパとママはきっと言うんだ。「みんな、死んでなんかいないよ。海の底に、新しい村を作ったんだ」って。
そこには悲しみも痛みもなくて、苦しみもなくて……みんな、幸せに暮らしているんだって。
誰もパパとママを責めない。誰もお兄ちゃんを責めない。誰も、私を責めない。
墨雪家は「呪われた一族」なんかじゃなくて、みんなを海へと導いた英雄なんだって。
ん……いいなぁ……そんな世界。
でも、私はまだ死ねない。
お兄ちゃんはまだ落桜城で傷を癒してる。私は、お兄ちゃんが帰ってくるのを待ってる。
春かな?夏かな?きっと、帰ってくる。
だから、それまでの間は……
この「現実」っていう、苦しくて痛い世界を、私一人で耐えなくちゃいけない。
…
ちょっと疲れちゃった。ちょっと、落ち込んでる。
ううん、落ち込むなんてものじゃない。なんだか、もう…絶望してるのかもしれない。
村長は、私にすごくよくしてくれる。村の中には、私のことを好いてくれる人もいる。……でも、私、もう耐えられそうにない。
村長は言った。「時間神」も、「宝物」も、みんな嘘っぱちだって。伝説の話なんて、ただの作り話だって。
村長は優しい。私はずっと、そう信じてる。
だから、疑いたくないし、確かめるつもりもない。
海の中には何もない。ただ、果てしない水か、果てしない氷があるだけ。この荒れ果てた大地と同じで、何もない。
…私は、ずっとそう思ってた。
じゃあ。
私は今、なんで海に向かってるんでしょう。
村長が知ったら、怒るでしょうか。分かってるはずなのに……
なのに、どうして足が止まらないの?
何かを期待してるの? 何かを願ってるの? 何かを信じてるの?
分からない。
ただ、私は…前に進むだけ。
…
氷原には、小さな木が十数本ほど生えていた。枝には、黒い鳥が何羽かとまっている。
カラス?
村長が言ってた。すごく賢くて、すごく綺麗で…夜みたいに真っ黒な鳥のことを、「カラス」って呼ぶんだって。
でも、私の目は悪すぎて、よく見えない。
「ガァ」「アァ」って、まるで誰かの声みたいに鳴く声だけが聞こえる。
近づいたら、カラスたちはバサバサッと飛び立っていった。
…私には、興味ないんだね。
なら、邪魔しないよ。
…
カラスたちと別れて、私はさらに海の奥へと進んでいく。
もう、かなり歩いた。
このまま進んだら、日が暮れるまでに家に帰れなくなるのは分かってる。
それでも、止まりたくなかった。だって、聞こえたから。
海の奥から聞こえる、何かの声。
女の子の声。カラスの鳴き声。
ぼんやりとした黒い影…そして、大きな、大きな、黒い影。
…
私が近づくと、その姿がはっきりと見えた。
その巨大なカラスは、まるで怪物みたいだった。恐ろしい姿をしていたけれど…でも、優しかった。
ゆっくりと首を下げて、大きなくちばしを開く。鋭い牙で噛むのではなく、柔らかい舌でそっと私の額に触れた。
お互いの敵意がないことを確かめると、その大きな体を私の前でゆっくりと伏せた。
私はそっと歩み寄り、その首にしがみつくように抱きしめた。
大きなカラスは「アァ……」と、優しく鳴く。まるで、私を慰めるように。
「ねえ、『大公』。この子のこと、気に入った?」少女が言った。
「ガアア……」
大公は静かに私の抱擁を受け入れた。私は、その温かい息遣いを感じることができた。
…あったかい。
なんか。涙が出そうになった。
…
少女が、私の目の前まで歩み寄ってきた。
漆黒の髪、蒼白の肌、そして…血のように赤い瞳。
こんな場所に現れるなんて、きっと神様なんだ。もしかして、伝説の「時間神」?
「いいえ。時間神じゃない。」
美しい鎧をまとい、背には剣を背負っている。それに、こんなに大きな騎乗獣まで…もしかして、騎士様?
「いいえ。騎士でもない。」
じゃあ。この人は、一体…
「『亡霊姫』だ。」
亡霊…? 姫…?
「そんなことは重要じゃない。」
じゃあ、どうしてここに…
「この地の神に会い、その恩恵を授かろうと思った。でも、残念ながら。あなたも私も、神に拒まれた者のよう。たぶん、神はすでに彼女自身の意思を決めていたのでしょう。だから、私たちは門前払い。でも、だからといって、簡単に引き下がるつもりはない。」
…少なくとも、その言葉は正しかった。
「さあ、次は私の番よ。人間よ。あなたは、なぜここへ来たの?」
私は…なぜ…?
私は正直者だ。嘘はつかない。ただ、分からないだけ。
「あなたが幸せじゃないことくらい、私には分かる。」
幸せ…?私、もうどれくらいの間、幸せなんて感じていないんでしょう。パパもママも死んだ。お兄ちゃんもいなくなった。私は、ひとりぼっちになった。どうすれば……幸せになれる?
「でも、私は感じる。あなたの中にある力を。」
力?
「『怒り』『憎しみ』『苦痛』『悲しみ』…どれも、私には正確に言い表せない。でも、それは確かに存在している。とても強く、とても純粋に。ねえ、教えて。あなたは、何に怒っているの?」
私…私、分からない。私は冷静だ。怒ってなんていない…はず。
「でも、あなたの心の炎は、氷雪を溶かし始めている。」
…炎。
「じゃ、教えて。あなたは、誰を憎んでいるの?」
私…私は、誰も憎みたくない。憎むことなんて、したくない。私は、全てを許そうとしているのに…。
「でも、あなたの手にある刃は、血に染まり始めている。」
…刃。
「教えて。あなたは、何に苦しんでいるの?」
私…私、分からない。でも、胸が痛い。病気じゃないのに。
「あなたの夢は、現実を喰らおうとしている。」
…夢。
「教えて。あなたは、何を悲しんでいるの?」
私…私、分からない。ただ、ときどき涙がこぼれる。雪の上に、ぽつぽつと。
「あなたが待ち続ける人は、もう、届かない場所へ行こうとしている。」
…人。
…
少女は、じっと私を見つめた。
「私が助けることができる。救うことはできないが、手を差し伸べることならできる。」
彼女は、一歩前に出た。
「そうよ。私と友達になりなさい、人間よ。」
彼女の手が、そっと私の胸に触れた。
「この海は、大公にとってさえ広すぎる。ここには、新しい『邪霊』が必要だ。」
彼女は、一歩後ろに下がる。
「だから、友になりなさい。そして、私のために生きなさい。」
剣が、鞘から抜かれる音がした。
「――亡霊姫の名において命ずる。汝、邪霊となれ。」
剣先が、私の胸を貫いた。
「今より、汝の名は――『幻蝶』。『黒鋼・鴉羽』と『寒霜』を授けよう。吾の意志を継ぎ、海に踏み入る者を斬り伏せる。」
鋭い刃が、心臓を貫いた。
…
邪霊「幻蝶」となってから、すべてが確かに良くなっていった。
私は姫のためにこの大海を守り、侵入者を容赦なく処刑する。黒い死神。それが私の役目。
私を憎み、責め、誤解した者たちの多くは、すでに私の刃の下に散った。
彼らの血は雪を紅く染め、彼らの骸は「死の樹」となり、彼らの魂は私の使い魔となる。
それが、心地よかった。それが、私を満たしてくれた。
昼は村に潜み、寒鴉たちと共に彼らを見下ろす。誰が海へと向かうのかを、ただ待ちながら。
夜は大海を彷徨い、脆き人間どもを片っ端から狩る。
ふむ…哀れむつもりなどない。焦りも、後悔も、感じたことはない。
殺すことは、ただの「職務」。そこに個人的な感情を混ぜる気はない。
それに、そもそもこいつらは「相応の報い」を受けているだけだ。
死ぬべきだ――神の領域を穢した罰として。
死ぬべきだ――私の家族を、無惨にも踏みにじった咎として。
死ぬべきだ――私に刃向かった報いとして。
そうだ、私に。私、「墨雪」に…
…墨雪?
違う。私の名前は…
――何だった?
…
私の異変に最初に気づいたのは、村長だった。
彼は、本来知るはずのないことを知ってしまった。けれど、私は彼を殺さなかった。
村長は「いい人」だ。私は、彼に感謝している。
何より驚いたのは。彼が、どこか私に似ていること。
「わしの、哀れな孫娘よ…この間に、ずいぶんと成長したようじゃ。」
「迷うな、心配するな。人間どもなど、救う価値もない。もし彼らが愚かにも目を覚まさぬのなら、死が最善の結末じゃ。」
「何せ、これは『神の裁き』なのだからな、ハハ。」
「行くがよい、好きなように。人間だろうと亡霊だろうと、そんなことはどうでもよい。ただ、己の役目を果たせばよい。」
「咲。」
…咲?
それは、誰の名前?
私の? それとも、誰か別の?
私は「幻蝶」。それは、私が誰よりも知っている。
じゃあ、咲って…誰?
…
違う。何かが、おかしい。
すべてが「良くなった」はずなのに。たった一つ、妙なことがある。
姫と約束を交わして以来、私の記憶が少しずつ、失われている。
たぶん、それは当然のことなのかもしれない。
私はすでに人間ではない。亡霊となったのだから、人間だった頃の記憶など、捨てるべきなのかもしれない。
むしろ、その方がいい。
過去の思い出など、ろくなものじゃなかった。いっそ、全部忘れてしまえたら、それでいいじゃないか。
…でも、本当に?
幻蝶よ、私自身に問いかけろ。
何か、忘れてはいけないものがあるんじゃない?
…ひとり。
墨。雪。瑛。
私の兄。私の、大切な兄。
自分の名前は思い出せなくても――
兄のことだけは、すべて覚えている。
彼の声、彼の顔、彼のすべて…
私は、決して忘れない。
私は知っている。想いは、人を苦しめるものだと。
私は知っている。兄への想いだけは、姫ですら解決できない問題なのだと。
時が経つにつれ、その想いはどんどん大きくなり、どんどん重くなっていった。
まるで心の奥で無限に膨れ上がる、巨大な球のように。
やがて、その球に鋭い棘が生えた。それは、毎時、毎分、毎秒、私の心臓を刺し貫いていく。
幻蝶よ、どうするつもりだ?
忘れる?…いや。
それが最善の選択?…いや。
忘れさえすれば、もっと純粋になれる。もっと楽しめる。…いや。
何も考えず、無邪気な子供のように、大海の中で心ゆくまで人を殺せる。毎秒、幸福を感じられる。…いや。
じゃ、覚えていたいの?…うん。
たとえ、その想いが痛みを伴うとしても?…うん。
それでも、忘れたくないの? …うん。
…
もし兄さんが戻ってきたら、どう思うでしょう。
私がこんなに酷いことをしたと知ったら。こんなに多くの命を奪ったと知ったら。
失望するでしょうか?
この事実を隠すのは難しい。でも、兄さんに失望されたくない。
…どうすればいいの。
この「黒い約束」を、壊せばいいの?
それが「救い」ではないことはわかっている。ただの「逃避」だということも。
それが「誠実」ではないことはわかっている。ただの「身勝手」だということも。
だが、姫を裏切れば、私は死ぬ。亡霊として死に、完全に消える。
それでもいい。
もう、人を殺すことも、大海を守ることも、どうでもよくなった。
私には、ただ一つの願いがある。
兄に会いたい。
それだけ。
彼に会えたなら…その瞬間、私は自ら命を絶つ。
ただ、一度だけでいい。
…
果てしなく広がる氷原。まるで空の裏側みたい。
二度目。
そう、私は再びこの大海の深奥へと足を踏み入れた。
前回は、大公と姫に出会った。
今回は、新たな存在を探しに来た。
「——あら、見覚えがあるわね。毎日私の家の前で殺戮を繰り返す、悪い子じゃん?そうでしょ、エミ。墨、雪、咲。」
目の前の少女が、いたずらっぽく微笑む。
騎士でもなく、亡霊姫でもない。
彼女は、「時間神」。
本物の、時間神。
「なるほどね。忘れるくらいなら、覚えていたいと?」
…うん。
もはや迷いはなかった。
「へぇ…よくそんなことが言えるわね。亡霊の少女と交わした約束があるくせに。今度は、私に助けを求めるというの?
…うん。
私は、すでに覚悟を決めた。
「いいよ。その願いを叶えてあげるよ。」
…
「白い約束」。それは、私と時間神だけの契約。
私は、墨雪咲。「黒い約束」によって、私は「幻蝶」となった。
私は、幻蝶。「白い約束」によって、私は再び「墨雪咲」となる。
――忘れるよりも、覚えることを選んだ。




