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この世界の光と影  作者: 混乱天使
第二章 時間海、無尽反響
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其の七 残響

 冷たい風が外から吹き込んでくる。けれど、優しい陽射しがそっと頬を撫でていた。

 目を擦りながら、ゆっくりとベッドの上に身を起こす。

 大きなクジラの抱き枕をポフポフと叩いてみた。中身はきっと上質なコットンだろう。ふんわりとへこみ、まるで風船のようにぷうっと元に戻る。「ぷしゅっ、ぷしゅっ」と、小さく弾ける音がした。

 完全に目が覚めた頃、窓辺のカラスが小さく鳴いた。

 「ガアーー」

 鋭い漆黒の羽根。全身から放たれる猛者の気配。――すぐにわかった、中尉だ。

 僕の視線を捉えると、小さく首を傾げ、嬉しそうに軽く跳ねた。相変わらず、僕に対する親しみを隠そうともしない。ああ、変わらないな、この感覚。

 ――やあ、友よ。ここにいるということは……

 決して、良い知らせではない。

 目の前の寒鴉が告げるのは、ただ一つの恐るべき事実。いや、恐れるまでもない、いずれ訪れるべき運命だった。

 予想していた通りだ。亡霊は、時間海の壁を超える術を知らない。だが、僕は知っている。僕が先駆者――己の刃で壁を切り裂き、止まった時間の流れを再び巡らせた者。

 壁が消えた後、亡霊は当然のようにこちらへ渡ってきた。そして、今や時間の歪みもほとんどゼロに収束しつつある。僕のように、時間の波に引き裂かれることもなく、ただ静かに、しかし確実に、僕の背後へと付き従ってきたのだ。

 そして今、奴らは僕の成し遂げたものを奪いに来る。

 わかる。――「海神」が来る。

 風花湾の者たちが忘れられぬ悪夢。

 あの災厄が、ついにここへやって来る。

 ――友よ、教えてくれ。お前の主は、もうこの島に降り立ったのか?

 「ガアア!」

 中尉の答えは――「イエス」。

 ――では、お前たちはどうする? この狩りに加わるつもりか?

 「ガアー」

 答えは――「ノー」。

 ……ふむ。「海神」ほどの邪悪な存在ならば、雑兵など必要としないのかもしれない。それとも、奴は余計な邪魔が入るのを嫌っているのか。今回は己の手で、完璧な儀式を完成させたいのだろう。

 そう、奴は何も恐れる必要がない。僕との戦いを心配することもない。暮鐘が砕かれることで訪れる災厄さえ、奴にとっては何の意味も持たない。

 なぜなら、奴は「海神」。強大なる邪霊。

 力ある者は、往々にして純粋なものだ。彼らはただ、己の望むままに振る舞う。そして今、奴が望むのは――ただ楽しむことだけ。

 一方で、僕に選択肢はない。

 たった一つ。

 この脆い命と、温かな血肉をかけて。

 ――奴と、戦う。


 灯台を出て、葦原へと戻った。

 青々と生い茂る――「生」を象徴する葦の中に立ち、静かに刀を抜く。

 目の前、十数メートル先。漆黒の影が、約束通り現れた。

 「海神」。

 彼は、枯れ果てた――「死」を象徴する葦の中から歩み出る。

 生と死の境界を超え、静かにその歩みを止めた。

 ――ついに、風花湾の物語が幕を閉じる時が来た。待ちわびたんでしょ?この瞬間を。

 海神は何も言わない。ただ、静かに耳を傾ける。

 ――時間神の秘宝のためか?この鈍く、重たい剣のため?どれほど待ち続けた?数十年?あるいは、百年か?いや、お前にとってはほんの一瞬だったかもしれないな。

 ――お前は何も差し出す必要がなかった。お前は苦しむことも、痛みに耐えることもなかった。ただ、人間の力を嘲り、人間の命を踏み躙るだけで良かった。そして今もまた、変わらずにその蔑みを抱き、最後の標的であるこの僕を裁こうとしているんでしょうか?

 海神は、それでも黙っている。

 ――だがな、邪霊よ。残念だが、それは叶わない。この「創世者・時の心」は、僕のものだ!人間のものでもなく、亡者のものでもないんだ!もし欲しいなら――戦え!

 刀を構える。

 対する海神も、躊躇うことなく寒霜杖を高々と掲げた。

 多くの言葉は不要だった。必要なのは、ただひとつ。

 互いの存在が理解し合う、この戦いの「流儀」。

 卑劣な盗人と、冷酷な処刑人。

 今、この葦原で、時の神の秘宝を巡り――生死を決する。


 深く息を吸う。

 肺が空気で満たされた瞬間、全てを吐き出す。

 もしかしたら、こうすることで心臓の鼓動が少しでも落ち着くかもしれない。

 もしかしたら、この不安を誤魔化せるかもしれない。

 もしかしたら、ほんの少しだけでも、勇敢に見えるかもしれない。

 もしかしたら、次の戦いに、何かしらの良い影響を与えられるかもしれない。

 ……ぷっ。

 笑いそうになった。

 ねえ、風鈴…お前の相手は邪霊なんだよ?

 封鎖線に立つ大騎士たち――人類王国最高の戦士たちですら、奴と戦うことを恐れた。

それを、お前は今、たった一人で立ち向かおうとしているのか?

 思い出せ。

 奴がどれほど容易く、仁也を殺したのか。奴がどれほど楽しげに、人間を嘲笑ったのか。次の瞬間には、あの鋭い短剣がこの僕の喉を裂き、あの青い呪力が血に溶け込み、あの漆黒の酸が骨を焼き尽くす…そうでしょうか。

 だが――それでも。

 僕は、ここまで来た。もう、戻る道などない。

 仲間たちは皆、死んだ。ならば、僕も地獄へ行き、彼らに会う。それが「敗北」。

 あるいは――

 僕はついに時間神と相対し、その秘宝を手に入れた。それが「勝利」。

 敗北か、勝利か。どちらにせよ、僕はこの運命の道を進み、ここに辿り着いた。

 これは、僕が望んだ結末か?これは、僕にとって驚くべきことか?

……もう、そんなことはどうでもいい。

 頭の中から、余計な思考は燃え尽きた。ただ、戦う意志だけが、全てを焼き払い、今の僕――「風鈴」という名の少女を支配する。

 そうだ、何も考えるな。今、やるべきことはただひとつ。

 ――目の前の邪霊を、倒すだけだ!


 相手はまだ動かない。ならば、この時間を無駄にはしない。一秒、一瞬すらも、逃さずに相手の様子を観察する。

 だが——おかしい。

 目の前の邪霊が、どこか違う。

 あの海で初めて出会った時の、あの圧倒的な威圧感。強大な亡霊が発する、あの恐怖すら支配するような気配。それらが、今の僕は感じられない。

 いや、亡霊の気配そのものは確かにある。だが、それは以前とはまるで別物。まるで、何かが欠けてしまった「不完全な存在」のような……

 海神は相変わらず、漆黒のマントを羽織っている。マントには、寒鴉の羽が隙間なく貼り付けられており、まるで一羽の巨大な鴉のように見える。

 僕の記憶にある彼の姿は、純白の仮面をつけた男。その仮面には、鋭い鉤爪のような刃がついていて、まるで鳥の嘴のようだった。しかし今、その仮面はボロボロにひび割れ、あの刃も失われている。

 さらに――

 彼は、あの象徴的な武器を手にしていなかった。強大な呪力を帯びた短剣は影も形もなく、代わりに、魔法使いのように寒霜杖を握りしめている。

 ……妙だ。あまりにも、妙すぎる。

 僕は、敏感に異変を察知した。だからこそ、余計に落ち着かない。

 何かを隠している?それとも、僕をわざと欺こうとしているのか?そんなことをする必要があるのか?僕を殺すのは、彼にとって造作もないはず。なぜ、こんな回りくどいことを?これは、彼の計画の一部なのか?

 ……チッ、邪霊どもは、どいつもこいつも「異常」ばかりだ。奴らの思考を理解しようとするだけ無駄だ。

 だったら、考えるよりも先に戦うまで。

 以前も言ったが、亡霊どもは生まれつき「影」に適応している。

 そして、僕の属性も「影」。

 つまり、影の魔法で亡霊を攻撃するのは、そもそも効果が薄い。弱い相手なら、火や雷の力を付与して無理やりダメージを与えられるが、この「海神」ほどの邪霊には、僕の魔法では通用しない。

 ならば、魔法を使う意味はない。無駄に魔力を消耗するくらいなら、最初から純粋な力で斬るまでだ。

 幸い、「星滅」は魔刀だ。「魔法」という手段が否定されたのなら、今はその「刀」としての役割に全てを委ねるまでだ。


 海神もまた、これ以上の膠着を望まなかったのか。ついに、彼の方から動いた。

 低く、呪文を詠唱する声が響く。

 次の瞬間、寒霜杖の先端に光が集まり始めた。

 ――フン。こっちは接近戦を挑もうとしているのに、呪術で迎え撃つ気か?これ、不公平じゃない?

 そう皮肉めいたことを呟きながら、相手の動きを見極める。

 これまでの戦いでは、彼の呪力が杖の先に収束し、そこから青白い光が迸るのが常だった。だが今回、杖の先に浮かび上がった光は、赤だった。

 赤い呪力……?

 そんなもの、奴が使うのを見たことがない。

 ……なるほど、よほどこの戦いに入れ込んでいるらしい。新しい力を見せてくれるというのか。

 ならば、見せてもらおうじゃないか、海神!!

 赤い呪力は、猛々しい炎へと変わる。燃え上がる火の塊が、杖の先端で激しく揺らめく。

 そして、彼は寒霜杖を勢いよく振り下ろした。次の瞬間、燃え盛る火焔弾が解き放たれる。

 くる!!

 反射的に身構えた、その時だった。

 でもそれは、一瞬で消えた。

 飛んでくるはずだった火炎が、突如として掻き消える。辺りに残るのは、焦げ臭い灰の匂いだけ。

 ――何?

 脳裏に、疑問が浮かぶ。しかし、それを考えている暇はない。

 戦場では、どんな些細な誤りも致命傷になり得る。「何が起きたのか」ではなく、「この隙をどう使うか」が、今の僕にとって最も重要だ!

 ――今だ!死ね!!!

 全力で地を蹴り、疾走する。風を切り裂きながら、奴の懐へ一気に飛び込む。

 攻撃圏内、突入!

 狙いを定める…首だ!

 刀を横一閃に振り抜く!!!

 「——キィンッ!」*

 やはり、一筋縄ではいかないか。

 海神は即座に寒霜杖を両手で握りしめ、胸元で防御を固めた。

 星滅の刃が寒霜杖へと叩きつけられた瞬間、手に鈍い衝撃が走る。

 ――クッ!

 腕が痺れ、じんじんと痛む。だが、ここで剣を手放すわけにはいかない。柄を握る手に力を込め、なんとか武器のコントロールを維持する。

 一方、海神も衝撃をまともに受け、バランスを崩した。

 が、奴の反応は早い。一瞬のうちに左足を後方へと引き、態勢を立て直そうとしている。

 ――喰らえ!

 右足を一歩踏み出し、刃の横薙ぎに生じた遠心力を利用して素早く回転。全身の力を込め、左足を敵の腹部めがけて蹴り飛ばす!

 「ドンッ!!」

 足先が確かに相手の胴を捕えた。

 海神は苦痛の声も漏らさず、数歩よろめく。

 そのまま倒れるかと思いきや、寒霜杖を地面へと突き立てた。杖のように機能し、ギリギリのところで体勢を維持する。

 ――チッ!貴様!殺してやる!

 気づけば、怒りに身体が支配されていた。

 何故、こんなにも憤怒に駆られているのか。自分でも分からない。

 ただ、心臓が狂ったように跳ね上がる。全身の血管が熱を帯び、震えが止まらない。

 目の前の男を睨みつける視線は、まるで千本の刃。それら全てで、奴を切り裂いてやる。

 この動き、この仕草…何かが、脳裏を掠めた。この姿勢、この動き——見覚えがある。

 ――それはエミのものだ! 返せ!!

 怒声と共に、再び星滅を振りかぶる。

 無心の一撃。

 それは、速さの限界を超えた斬撃だった。だが、距離が足りない。

 速すぎた。

 この攻撃は、ただの「怒りの発露」に過ぎなかった。「斬る」のではなく、「憤怒を叩きつける」ための斬撃。

 それでは、敵を討つには至らない。

 だが、もう遅い。

 刃は既に、奴の仮面へと届いていた。

 「カシャンッ!!」

 仮面が音を立てて、真っ二つに割れた。


 その瞬間、時間が——止まったかのようだった。

 左半分の仮面が地面に落ちる。乾いた土埃が、小さく舞い上がる。

 右半分は、枯れた葦の上へ。しかし、その脆い葉は仮面の重みすら支えきれず、崩れ落ちる。

 砕けた金色の葉が、宙を舞う。まるで蝶のように風に運ばれ、どこか遠くへと流されていった。

 海神の仮面は、その使命を全うし、大地の一部となった。

 僕は、ゆっくりと顔を上げる。

 そして、ついに奴の素顔を見た。

 彼は咄嗟に左手を持ち上げた。顔を隠そうとする仕草。

 しかし、それが無意味だと悟ったのか、静かに腕を下ろす。

 かつてならば、この瞬間、寒鴉たちは、狂喜の声を上げたことだろ。

 だが、今日は違う。彼らは、ただ静かに待っていた。

 まるで劇のクライマックスに到達した観客のように。主役が口にする「最も重要な台詞」を、固唾を飲んで待ち望むかのように。

 僕は…

 無意識のうちに、その期待に応えた。

 ――……

 そして、低く——囁くように、言葉を紡ぐ。

 ――村長。

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