其の七 残響
冷たい風が外から吹き込んでくる。けれど、優しい陽射しがそっと頬を撫でていた。
目を擦りながら、ゆっくりとベッドの上に身を起こす。
大きなクジラの抱き枕をポフポフと叩いてみた。中身はきっと上質なコットンだろう。ふんわりとへこみ、まるで風船のようにぷうっと元に戻る。「ぷしゅっ、ぷしゅっ」と、小さく弾ける音がした。
完全に目が覚めた頃、窓辺のカラスが小さく鳴いた。
「ガアーー」
鋭い漆黒の羽根。全身から放たれる猛者の気配。――すぐにわかった、中尉だ。
僕の視線を捉えると、小さく首を傾げ、嬉しそうに軽く跳ねた。相変わらず、僕に対する親しみを隠そうともしない。ああ、変わらないな、この感覚。
――やあ、友よ。ここにいるということは……
決して、良い知らせではない。
目の前の寒鴉が告げるのは、ただ一つの恐るべき事実。いや、恐れるまでもない、いずれ訪れるべき運命だった。
予想していた通りだ。亡霊は、時間海の壁を超える術を知らない。だが、僕は知っている。僕が先駆者――己の刃で壁を切り裂き、止まった時間の流れを再び巡らせた者。
壁が消えた後、亡霊は当然のようにこちらへ渡ってきた。そして、今や時間の歪みもほとんどゼロに収束しつつある。僕のように、時間の波に引き裂かれることもなく、ただ静かに、しかし確実に、僕の背後へと付き従ってきたのだ。
そして今、奴らは僕の成し遂げたものを奪いに来る。
わかる。――「海神」が来る。
風花湾の者たちが忘れられぬ悪夢。
あの災厄が、ついにここへやって来る。
――友よ、教えてくれ。お前の主は、もうこの島に降り立ったのか?
「ガアア!」
中尉の答えは――「イエス」。
――では、お前たちはどうする? この狩りに加わるつもりか?
「ガアー」
答えは――「ノー」。
……ふむ。「海神」ほどの邪悪な存在ならば、雑兵など必要としないのかもしれない。それとも、奴は余計な邪魔が入るのを嫌っているのか。今回は己の手で、完璧な儀式を完成させたいのだろう。
そう、奴は何も恐れる必要がない。僕との戦いを心配することもない。暮鐘が砕かれることで訪れる災厄さえ、奴にとっては何の意味も持たない。
なぜなら、奴は「海神」。強大なる邪霊。
力ある者は、往々にして純粋なものだ。彼らはただ、己の望むままに振る舞う。そして今、奴が望むのは――ただ楽しむことだけ。
一方で、僕に選択肢はない。
たった一つ。
この脆い命と、温かな血肉をかけて。
――奴と、戦う。
灯台を出て、葦原へと戻った。
青々と生い茂る――「生」を象徴する葦の中に立ち、静かに刀を抜く。
目の前、十数メートル先。漆黒の影が、約束通り現れた。
「海神」。
彼は、枯れ果てた――「死」を象徴する葦の中から歩み出る。
生と死の境界を超え、静かにその歩みを止めた。
――ついに、風花湾の物語が幕を閉じる時が来た。待ちわびたんでしょ?この瞬間を。
海神は何も言わない。ただ、静かに耳を傾ける。
――時間神の秘宝のためか?この鈍く、重たい剣のため?どれほど待ち続けた?数十年?あるいは、百年か?いや、お前にとってはほんの一瞬だったかもしれないな。
――お前は何も差し出す必要がなかった。お前は苦しむことも、痛みに耐えることもなかった。ただ、人間の力を嘲り、人間の命を踏み躙るだけで良かった。そして今もまた、変わらずにその蔑みを抱き、最後の標的であるこの僕を裁こうとしているんでしょうか?
海神は、それでも黙っている。
――だがな、邪霊よ。残念だが、それは叶わない。この「創世者・時の心」は、僕のものだ!人間のものでもなく、亡者のものでもないんだ!もし欲しいなら――戦え!
刀を構える。
対する海神も、躊躇うことなく寒霜杖を高々と掲げた。
多くの言葉は不要だった。必要なのは、ただひとつ。
互いの存在が理解し合う、この戦いの「流儀」。
卑劣な盗人と、冷酷な処刑人。
今、この葦原で、時の神の秘宝を巡り――生死を決する。
深く息を吸う。
肺が空気で満たされた瞬間、全てを吐き出す。
もしかしたら、こうすることで心臓の鼓動が少しでも落ち着くかもしれない。
もしかしたら、この不安を誤魔化せるかもしれない。
もしかしたら、ほんの少しだけでも、勇敢に見えるかもしれない。
もしかしたら、次の戦いに、何かしらの良い影響を与えられるかもしれない。
……ぷっ。
笑いそうになった。
ねえ、風鈴…お前の相手は邪霊なんだよ?
封鎖線に立つ大騎士たち――人類王国最高の戦士たちですら、奴と戦うことを恐れた。
それを、お前は今、たった一人で立ち向かおうとしているのか?
思い出せ。
奴がどれほど容易く、仁也を殺したのか。奴がどれほど楽しげに、人間を嘲笑ったのか。次の瞬間には、あの鋭い短剣がこの僕の喉を裂き、あの青い呪力が血に溶け込み、あの漆黒の酸が骨を焼き尽くす…そうでしょうか。
だが――それでも。
僕は、ここまで来た。もう、戻る道などない。
仲間たちは皆、死んだ。ならば、僕も地獄へ行き、彼らに会う。それが「敗北」。
あるいは――
僕はついに時間神と相対し、その秘宝を手に入れた。それが「勝利」。
敗北か、勝利か。どちらにせよ、僕はこの運命の道を進み、ここに辿り着いた。
これは、僕が望んだ結末か?これは、僕にとって驚くべきことか?
……もう、そんなことはどうでもいい。
頭の中から、余計な思考は燃え尽きた。ただ、戦う意志だけが、全てを焼き払い、今の僕――「風鈴」という名の少女を支配する。
そうだ、何も考えるな。今、やるべきことはただひとつ。
――目の前の邪霊を、倒すだけだ!
相手はまだ動かない。ならば、この時間を無駄にはしない。一秒、一瞬すらも、逃さずに相手の様子を観察する。
だが——おかしい。
目の前の邪霊が、どこか違う。
あの海で初めて出会った時の、あの圧倒的な威圧感。強大な亡霊が発する、あの恐怖すら支配するような気配。それらが、今の僕は感じられない。
いや、亡霊の気配そのものは確かにある。だが、それは以前とはまるで別物。まるで、何かが欠けてしまった「不完全な存在」のような……
海神は相変わらず、漆黒のマントを羽織っている。マントには、寒鴉の羽が隙間なく貼り付けられており、まるで一羽の巨大な鴉のように見える。
僕の記憶にある彼の姿は、純白の仮面をつけた男。その仮面には、鋭い鉤爪のような刃がついていて、まるで鳥の嘴のようだった。しかし今、その仮面はボロボロにひび割れ、あの刃も失われている。
さらに――
彼は、あの象徴的な武器を手にしていなかった。強大な呪力を帯びた短剣は影も形もなく、代わりに、魔法使いのように寒霜杖を握りしめている。
……妙だ。あまりにも、妙すぎる。
僕は、敏感に異変を察知した。だからこそ、余計に落ち着かない。
何かを隠している?それとも、僕をわざと欺こうとしているのか?そんなことをする必要があるのか?僕を殺すのは、彼にとって造作もないはず。なぜ、こんな回りくどいことを?これは、彼の計画の一部なのか?
……チッ、邪霊どもは、どいつもこいつも「異常」ばかりだ。奴らの思考を理解しようとするだけ無駄だ。
だったら、考えるよりも先に戦うまで。
以前も言ったが、亡霊どもは生まれつき「影」に適応している。
そして、僕の属性も「影」。
つまり、影の魔法で亡霊を攻撃するのは、そもそも効果が薄い。弱い相手なら、火や雷の力を付与して無理やりダメージを与えられるが、この「海神」ほどの邪霊には、僕の魔法では通用しない。
ならば、魔法を使う意味はない。無駄に魔力を消耗するくらいなら、最初から純粋な力で斬るまでだ。
幸い、「星滅」は魔刀だ。「魔法」という手段が否定されたのなら、今はその「刀」としての役割に全てを委ねるまでだ。
海神もまた、これ以上の膠着を望まなかったのか。ついに、彼の方から動いた。
低く、呪文を詠唱する声が響く。
次の瞬間、寒霜杖の先端に光が集まり始めた。
――フン。こっちは接近戦を挑もうとしているのに、呪術で迎え撃つ気か?これ、不公平じゃない?
そう皮肉めいたことを呟きながら、相手の動きを見極める。
これまでの戦いでは、彼の呪力が杖の先に収束し、そこから青白い光が迸るのが常だった。だが今回、杖の先に浮かび上がった光は、赤だった。
赤い呪力……?
そんなもの、奴が使うのを見たことがない。
……なるほど、よほどこの戦いに入れ込んでいるらしい。新しい力を見せてくれるというのか。
ならば、見せてもらおうじゃないか、海神!!
赤い呪力は、猛々しい炎へと変わる。燃え上がる火の塊が、杖の先端で激しく揺らめく。
そして、彼は寒霜杖を勢いよく振り下ろした。次の瞬間、燃え盛る火焔弾が解き放たれる。
くる!!
反射的に身構えた、その時だった。
でもそれは、一瞬で消えた。
飛んでくるはずだった火炎が、突如として掻き消える。辺りに残るのは、焦げ臭い灰の匂いだけ。
――何?
脳裏に、疑問が浮かぶ。しかし、それを考えている暇はない。
戦場では、どんな些細な誤りも致命傷になり得る。「何が起きたのか」ではなく、「この隙をどう使うか」が、今の僕にとって最も重要だ!
――今だ!死ね!!!
全力で地を蹴り、疾走する。風を切り裂きながら、奴の懐へ一気に飛び込む。
攻撃圏内、突入!
狙いを定める…首だ!
刀を横一閃に振り抜く!!!
「——キィンッ!」*
やはり、一筋縄ではいかないか。
海神は即座に寒霜杖を両手で握りしめ、胸元で防御を固めた。
星滅の刃が寒霜杖へと叩きつけられた瞬間、手に鈍い衝撃が走る。
――クッ!
腕が痺れ、じんじんと痛む。だが、ここで剣を手放すわけにはいかない。柄を握る手に力を込め、なんとか武器のコントロールを維持する。
一方、海神も衝撃をまともに受け、バランスを崩した。
が、奴の反応は早い。一瞬のうちに左足を後方へと引き、態勢を立て直そうとしている。
――喰らえ!
右足を一歩踏み出し、刃の横薙ぎに生じた遠心力を利用して素早く回転。全身の力を込め、左足を敵の腹部めがけて蹴り飛ばす!
「ドンッ!!」
足先が確かに相手の胴を捕えた。
海神は苦痛の声も漏らさず、数歩よろめく。
そのまま倒れるかと思いきや、寒霜杖を地面へと突き立てた。杖のように機能し、ギリギリのところで体勢を維持する。
――チッ!貴様!殺してやる!
気づけば、怒りに身体が支配されていた。
何故、こんなにも憤怒に駆られているのか。自分でも分からない。
ただ、心臓が狂ったように跳ね上がる。全身の血管が熱を帯び、震えが止まらない。
目の前の男を睨みつける視線は、まるで千本の刃。それら全てで、奴を切り裂いてやる。
この動き、この仕草…何かが、脳裏を掠めた。この姿勢、この動き——見覚えがある。
――それはエミのものだ! 返せ!!
怒声と共に、再び星滅を振りかぶる。
無心の一撃。
それは、速さの限界を超えた斬撃だった。だが、距離が足りない。
速すぎた。
この攻撃は、ただの「怒りの発露」に過ぎなかった。「斬る」のではなく、「憤怒を叩きつける」ための斬撃。
それでは、敵を討つには至らない。
だが、もう遅い。
刃は既に、奴の仮面へと届いていた。
「カシャンッ!!」
仮面が音を立てて、真っ二つに割れた。
その瞬間、時間が——止まったかのようだった。
左半分の仮面が地面に落ちる。乾いた土埃が、小さく舞い上がる。
右半分は、枯れた葦の上へ。しかし、その脆い葉は仮面の重みすら支えきれず、崩れ落ちる。
砕けた金色の葉が、宙を舞う。まるで蝶のように風に運ばれ、どこか遠くへと流されていった。
海神の仮面は、その使命を全うし、大地の一部となった。
僕は、ゆっくりと顔を上げる。
そして、ついに奴の素顔を見た。
彼は咄嗟に左手を持ち上げた。顔を隠そうとする仕草。
しかし、それが無意味だと悟ったのか、静かに腕を下ろす。
かつてならば、この瞬間、寒鴉たちは、狂喜の声を上げたことだろ。
だが、今日は違う。彼らは、ただ静かに待っていた。
まるで劇のクライマックスに到達した観客のように。主役が口にする「最も重要な台詞」を、固唾を飲んで待ち望むかのように。
僕は…
無意識のうちに、その期待に応えた。
――……
そして、低く——囁くように、言葉を紡ぐ。
――村長。




