其の四 暮鐘
鏡面にそっと指先を触れ、目を閉じた。
心の中で、静かに秒を数える。
――永遠というものは、時間より一秒だけ速い。
――時間というものは、永遠より一秒だけ遅い。
今、平和な虚無へと沈み込む。時間の長流を超え、永遠の謎に触れる。この一秒というわずかな隙間の中で、神域へと足を踏み入れる。
「……チク……タク……」
一秒。
完璧な一秒。誤差一つない、精密な一秒。
目を開けた。
風一つ吹かぬ広大な野原が目の前に広がっていた。
その中心には、白鈴花の花海が静かに咲き誇っている。
白鈴花。あまりにも馴染み深いその花々が、今は時間神の作り上げたこの世界の中で、穏やかに揺れているのだ。
そして花海の上空には、巨大な魔法陣が浮かんでいた。
予想はしていた。それでも、いざ目の当たりにすると、その壮大さに息を呑まずにはいられない。
何しろそれは、時間神が遺した完璧なる造物の一つ――「暮鐘」だったからだ。
銀白色の短針と長針、金色に輝く秒針、光り輝く目盛り。暮鐘の中心には、大時計の姿をした魔法陣が鎮座していた。
精密に絡み合う軸と歯車がその大時計を支え、一つの完全な構造を形成している。全てが高等魔法の形として具現化されていた。
それはまるで伝説の時計職人が作り上げた精密な時計塔……いや、それ以上だ。どんな複雑な機械でさえ、この完全無欠の構造には敵わない。
世界中のどの数式よりも複雑である。何故なら、時間の流れそのものが論理だからだ。
世界中のどんな芸術よりも美しい。何故なら、時間の舞踏そのものが芸術だからだ。
世界中のどんな思想よりも深い。何故なら、時間の動向そのものが思考だからだ。
これらの構造は、暮鐘の「骨格」だ。
それはまるで偉大なる魔術師が召喚した強大な生命体のようでもある。呪力か?魔力か?いや、どちらでもない。
むしろ、この世界の全ての魔力や呪力の根源――神々の力そのものだ。最も古く、最も純粋な力。
世界中のどの哲学よりも難解である。何故なら、時間の波紋そのものが哲学だからだ。
世界中のどんな音楽よりも心地良い。何故なら、時間の歌声そのものが音楽だからだ。
世界中のどんな風景よりも美しい。何故なら、時間の色彩そのものが風景だからだ。
これらの力は、暮鐘の「血液」だ。
それはまるで偉大なる詩人が紡ぐ一篇の叙事詩のようでもある。数えきれないほどの奇妙で複雑な文字が、古代の魔力の奔流に従い、複雑な骨格の中を駆け巡る。
それぞれの文字は旅人のように特定の位置へとたどり着くと、輝く光となって血液の力を骨格全体へと伝えるのだ。
世界中のどんな旅よりも壮大である。何故なら、時間の計画そのものが旅だからだ。
世界中のどんな書物よりも重厚である。何故なら、時間の言語そのものが書物だからだ。
世界中のどんな祈りよりも神聖である。何故なら、時間の秘密そのものが祈りだからだ。
これらの文字は、暮鐘の「神経」だ。
これが「暮鐘」――「至高の空、暮天鐘鳴」。
目の前の全てが、静かに動き続け、暮鐘を維持している。
そう、まるでこれらがある限り、暮鐘は永遠に動き続けるかのように思える。
…だが、本当にそうでしょうか?
…血液、神経、骨格。それだけで十分でしょうか?
いいや、足りない。全く足りない。
僕が本当に望むものは、目の前のものを遥かに超える偉大な存在だ。
暮鐘の「心臓」。完璧なる造物。時間神の秘宝。
――「創世者・時の心。」
方碑の前に立ったとき、眩しい銀白色の光が無限に輝いていた。
古めかしい石碑の表面に、いくつかの文章がゆっくりと浮かび上がる。
影、光、時――世界の三つの起源、そして世界の鍵を開く三つの鍵。
今、僕は「時間」へと辿り着いた。
この目で、世界の三分の一に隠された秘密を探り出すために。
第三法則――最後の法則。
「光は影より生じ、闇は明に滅びる。」
「この二つは、いずれも転生の一瞬である。」
「ただ時間のみが永遠であり、不滅である。」
「この世の創造主はただ一人存る。」
「時、光、影。三つが交わるとき、世界…」
予想していた通り、法則の最後の一文は欠けている。
だが、それでも十分だった。
その碑文を見つめた。さらには手で石碑を叩いてみたりしたが、何も起こらなかった。第三法則を心の中でそっと唱え終えた瞬間、石碑はゆっくりと沈み始めた。
目の前でそれが土に呑まれていくのを、僕はただ見届けるしかなかった。
そして第三法則の最後の言葉もまた、石碑とともに永遠に失われた。
だが、先ほども言った通り、それで十分だったのだ。
石碑が完全に消えた瞬間、暮鐘は過負荷状態に陥った。
暮鐘の魔力が、恐ろしいほどの速度で消耗していくのを感じた。いや、正確には「消耗」ではなく、暮鐘自体が自己分解し、自己再構築を始めたのだ。本来は暮鐘全体に均等に広がっていた魔力が、外周から中心へと段階的に収束していき、すべてが暮鐘の中心にある大時計へと集まっていった。
その一方で、秩序だった規則的な運行をしていた文字の流れは、急激に混沌とし、無秩序なものへと変化した。文字たちはもはやそれぞれの定められた位置には向かわず、次々と爆裂していった。そして吸収した魔力をすべて魔力流へと還元していく。
十分な魔力が凝縮された後、歯車と軸受が猛烈な速度で回転し始めた。まず秒針が、次に分針、そして最後に時針が、肉眼で追えないほどの速度で回転を始めた。時針が一周するたびに、暮鐘の魔力は中心へとさらに凝縮され、外周の構造はますます脆くなり、破損し始め、ついには崩壊していった。
僕はその場に立ち尽くし、この壮大で荘厳な儀式をただ静かに見守っていた。
やがて時針が千回以上回転したとき、時針は「十二」の位置で止まった。同時に、分針と秒針もまた「十二」の位置で停止した。
ちょうど十二時を指したその瞬間、暮鐘は完全に動きを止めた。
そして、鐘の音が白鈴花の野原に響き渡った。
「ゴーン…ゴーン…ゴーン…ゴーン…」
一つ目の鐘の音。外層の魔力がすべて枯渇する。
二つ目の鐘の音。外層の文字がすべて消失する。
三つ目の鐘の音。外層の構造が崩れ始める。
四つ目の鐘の音。外層全体が完全に消滅する。
「ゴーン…ゴーン…ゴーン…ゴーン…」
五つ目の鐘の音。時計の歯車がすべて外れる。
六つ目の鐘の音。時計の主軸が完全に断裂する。
七つ目の鐘の音。時計の数字が粉々に砕け散る。
八つ目の鐘の音。時針、分針、秒針がすべて折れる。
時計が完全に破壊されても、鐘の音は鳴り続けた。
「ゴーン…」
九つ目の鐘の音。時計は黒い穴へと変貌し、内側へと崩壊する。
「ゴーン…」
十つ目の鐘の音。完全に崩壊した暮鐘は、空中に浮かぶ巨大な氷の球体へと姿を変えた。
「ゴーン…」
十一つ目の鐘の音。氷の球体は激しく燃え始めた。灼熱の氷が溶け出し、球体は次第に小さくなっていく。
「ゴーン。」
十二つ目の鐘の音。最後の一響き。
その後、世界は再び静寂を取り戻した。
氷の球体に封じられていたものが、ついに完全な姿を現した。
それは一本の銀白色の長剣だった。
刃はやや鈍く見えるが、恐ろしく硬質だ。剣身には強力な魔力の波紋が流れ、純粋な気配が周囲に漂う。耳を近づければ、時計の動作音が微かに聞こえてくるようだ。
…やっとだ。
ついに、この瞬間が訪れたのだ。数年前から思い描いてきた、運命に導かれたこの神聖なる一秒が。
――「創世者・時の心」。今、僕のものだ。
敬虔な気持ちと畏敬の念を抱きながら、その秘宝の名を心の中でそっと唱えた。
内心の歓喜や興奮を意図的に抑え込むのではなく、この神聖な宝の輝きが心を浄化していたのだ。今この瞬間だけは、僕のような卑劣で無恥な盗賊でさえ、神の信徒のように、神聖で崇高な現実と真正面から向き合わざるを得なかった。
時の心が完全な姿を現した瞬間、それは自らの鞘を探し始めた。
まるで眠り続けていた巨人が目覚めたかのように、完全に顕現した時の心は無言で何かを呼び求めていた。
ただの剣では、決して完全ではない。時の心は、自らの鞘を必要としているのだ。
その刹那、突風が吹き始めた。
足元の白鈴花が風に揺れ、花びらが次々と散り始め、空中へと舞い上がった。
やがて、猛烈な嵐が時の心を中心として巻き起こり、僕と剣を完全に包み込んだ。
嵐に巻き込まれたすべての花びらが、銀白色の光点へと変化していく。それらはまるで精霊のように、この清浄な嵐の中で生き生きと舞い踊り始めた。
魔力がすべて凝縮された瞬間、嵐は激しく収縮した。そして、一瞬にしてすべての魔力が剣の刃へと集中し、その全体を完全に包み込んだ。
白鈴花たちは、時の心の剣鞘となった。
それらはその生命のすべてを、この冷たい鋼鉄の中へと注ぎ込んだ。
剣鞘が完全な形を成したとき、手を伸ばし、それに触れた。
その動作は、すべての儀式の終焉を意味していた。
刹那、時の心は浮遊の力を失い、地面へと落下し始めた。その剣を両手で受け止め、しっかりと握りしめた。
嵐が静まり、光が消えた。足元に広がっていた花の海は、完全に消えていた。
暮鐘が絶滅した後、この場所は原初の虚無へと還っていた。
――もう、行かなくてはならない。
そう呟きながら、時の心を背負い、何の迷いもなくその場を後にした。
約束されていたかのように、鏡が再び目の前に現れる。
この鏡が僕をここへ導き、そして今、またここから連れ出してくれるのでしょうか。
微笑みながら、一歩足を踏み出した。
鏡面にそっと指先を触れ、目を閉じた。
心の中で、静かに秒を数える
――時間というものは、永遠より一秒だけ遅い。
――永遠というものは、時間より一秒だけ速い。
今、平和な虚無へと昇華する。時間の長流から抜け出し、永遠の謎に別れを告げる。この一秒というわずかな隙間の中で、神域を後にする。
「……チク……タク……」
また一秒。
また完璧な一秒。また誤差一つない、精密な一秒。
そしてもう一度。
目を開けた。




